現代版〝赤化〟目論む「モンスター」 日本は中国にこう向き合え|【WEDGE SPECIAL OPINION】「節目」を迎える2022年の中国 日本の対中戦略、再考を[PART2]
9月、日中国交正常化から50周年を迎える。この間、一貫して「台頭」し続けた中国。この機にいま一度日本の対中外交を総括し、将来に向け戦略を練るべきだ。
9月29日に日中国交正常化50周年を迎えるが、盛り上がらない。
過去、10年ごとの日中関係の節目は「鬼門」だった。筆者は2002年の30周年、12年の40周年とも通信社特派員として北京に駐在したが、02年は小泉純一郎首相(当時)の靖国神社参拝、12年はその直前に日本政府が尖閣諸島を国有化するという、日中間の決定的な火種のため緊張が高まり、首脳の相互訪問どころではなかった。
50周年の今年、中国政府の「ゼロコロナ政策」があるにせよ、盛り上がらないのは、もはや日本側に「中国の横暴さにはついていけない」とあきらめ感があり、中国側も日本の「米国一辺倒」に強く反発する構図が解けないからだ。
筆者は7月上旬、『天安門ファイル―極秘記録から読み解く日本外交の「失敗」』(中央公論新社)を上梓した。20年に秘密指定を解除された1989年の天安門事件に関する日本の外交文書と当時の外交官らの証言を基に、中国共産党に配慮したのではないかという批判がある当時の日本の対中外交を検証した。その中で、民主化を求めた学生や市民を無差別に殺害した天安門事件は、まさに日本政府にとって国交正常化50年の中の「分水嶺」と位置付けた。なぜあの時、中国共産党の本質を見抜けなかったのか、というのが筆者の問題意識だった。
「いずれ中国は民主化する」
日本外交が選択した関与政策
80年代、胡耀邦・趙紫陽という改革派リーダーの下で政治体制の改革議論が深まった。こうした議論が学生の憂国意識や愛国感情に火をつけ、民主化運動が起こった。天安門事件前夜の中国は、最も民主主義に近づいた瞬間だったが、89年6月3~4日の武力行使で民主化の流れはもろくも崩れた。
日本の外交官たちは、中国現代史の分水嶺に立ち、「改革開放が進めば、中国は民主化や自由化に進むのか」あるいは「もともと市民に銃口を向け、発砲することもためらわない強権国家なのか」という問題で悩んだはずだ。
当時の日本政府が選んだのは前者の道。天安門事件から8日後の89年6月12日の外交文書には「我が国にとって望ましい中国像」とは、「あくまで、安定し、穏健な政策により近代化を進める中国」と明記された。
霞が関のチャイナスクール外交官は、人民に銃を向けた「流血の惨事」が鄧小平の決定だと知っていても、毛沢東時代の排外的な中国に戻るのは「もうごめんだ」と考え、改革開放を進める鄧小平の中国に賭けた。78年に来日した際、日本を近代化のモデルとした鄧小平に対して「独裁的な強権主義者」でなく、「実務的な改革主義者」という先入観に似た判断があったからだ。
日本政府は戦後日中関係の中で、一党独裁体制維持のためなら、人民の流血も厭わないという共産党の本質を果たして掴もうとしていたのだろうか。
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