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失敗した英国の宥和政策 現代と重なる第二次大戦前夜|【特集】プーチンによる戦争に世界は決して屈しない[Part11]

ロシアのウクライナ侵攻は長期戦の様相を呈し始め、ロシア軍による市民の虐殺も明らかになった。日本を含めた世界はロシアとの対峙を覚悟し、経済制裁をいっそう強めつつある。もはや「戦前」には戻れない。安全保障、エネルギー、経済……不可逆の変化と向き合わねばならない。これ以上、戦火を広げないために、世界は、そして日本は何をすべきなのか。

ゼレンスキー大統領はチャーチルの演説を引用し英国民に語りかけた。ナチスに対する英国の失敗から、宥和政策が平和をもたらさない理由を示す。

文・細谷雄一(Yuichi Hosoya)
慶應義塾大学法学部 教授
英国バーミンガム大学大学院国際関係学修士号取得。慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程修了。著者に『自主独立とは何か前編後編』(新潮選書)、『迷走するイギリス』(慶應義塾大学出版会)など。

 ウクライナで進行している戦争は、日を追うごとによりいっそう凄惨なものとなっており、依然として平和への道のりは遠いように思える。

 戦争は「武器」の戦いであると同時に、「言葉」の戦いでもある。軍事力の規模では大きくロシアに劣るウクライナは、ゼレンスキー大統領が優れた演説を繰り返すことによって、人々の心と感情を揺さぶる、いわゆる「ハーツ・アンド・マインズ」においては有利な戦いを行っている。

 3月8日の英国議会での演説で、ゼレンスキー大統領は次のように英国民に語りかけた。

 「われわれは決して降伏しない。決して負けない。どんな犠牲を払っても国を守るために海で、空で、森で、街頭で、戦い続ける」

 これは1940年、ナチスとの戦争で、決して妥協せずに戦争を続ける強い意志を示したチャーチル首相の演説を意識したものであることは、明瞭であった。そしてそれは、明確な一つのメッセージを意味している。すなわちロシアに対する宥和政策は拒絶するという姿勢であり、独立や自由を獲得するまでは戦いをやめないという意志である。そして、英国民にとっての歴史の中でも「最も偉大な指導者」と評価されるチャーチルの言葉を参照することで、英国からの、そして国際社会からのより力強い支援を得ることを目指したのであろう。

「勝利(Victory)」を意味するVサインは、チャーチルのトレードマークとなった (AFP/JIJI)

 2月24日にロシア軍がウクライナへの侵攻を開始したときに、多くの人々は圧倒的な戦力バランスの非対称性を根拠に、強大なロシア軍を前にしてウクライナがそれに抵抗することは不可能だと認識していた。むしろ犠牲を少なくするためにも、早期にロシアとの停戦交渉を行い、ウクライナこそがロシアに譲歩を示すべきだという声や、もはや降伏するべきだという声が日本の内外から聞こえてきた。そのような疑念を払拭するためにも、ゼレンスキー大統領はチャーチルの言葉を参照して、宥和政策を拒絶する強い意志を示す必要があったのだ。

「贖罪の羊」となった
チェコスロバキアの悲劇

 国際政治とは基本的には、権力政治(パワー・ポリティクス)により動いている。とりわけ19世紀の欧州では、大国間政治を基礎とした国際秩序が成り立っており、その中で小国の存立と安全はあくまでも大国の意志によって決定されていた。そのような国際政治は、20世紀になると大きく変化していった。国際連盟成立により戦争の違法化が進み、一国に対する侵略を国際社会全体の平和と安全に対する挑戦と受け止めて、集団安全保障により侵略を阻止する設計図が創られた。

 だが、結局はそのようなリベラルな国際秩序は1930年代に挫折する。大国は……

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