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カメラを持って北九州の歴史を巡ってみた - 王子宮の神籬磐境(ひもろぎいわさか)跡

もう出版されていない本「北九州の史跡探訪」を手に、北九州の歴史を巡っています。

今回は4ヶ所目です。

北九州市八幡西区、一宮神社に残る史跡に足を運びました。

古代祭場の磐境跡とは

古代祭場の磐境跡
今日の神社の鳥居の姿は、鳥居があって、拝殿があって、神殿があるのが普通一般的である。しかし、社殿が創建されていなかった悠遠のむかし、岩石を立て並べ、あるいは円形なり、方形なりに敷き並べて祭場とした。
王子宮のこの地で祭儀が行われていたのものであろうと思えば、全国的にも数少ない古代祭場のひとつであろう。
近くでは宗像大社のすぐ背後に迫る山丘の地は、祭神比売大神の御降臨の地と伝えられている、高宮祭場の地と酷似のようである。
なお「この王子宮磐境は、神武天皇御東遷のみぎり、宇佐から筑前のこの地に御滞在された旧跡といわれ、また、天皇が御滞在中磐境を設けて天神地祇をご親祭された神座の処」と説明されている。

出典:北九州の史跡探訪 196ページ
八幡西区 61番 古代祭場の磐境跡

神籬(ひもろぎ)とは、「神代の時代、神霊の依代として清浄な土地を選び常盤木を立て神座となしたもの」です。

磐境(いわさか)は、「神を祀るため盤石をもって築きめぐらした場所」。

神社の原型と言われるものです。

今のような神社の形ができる前は、岩や巨石、大きな木、森、山などの自然に、神が降りると考えられていたようです。

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王子宮とは、一宮神社になる前の名前です。

一宮神社の由緒書きによると

この地方の氏神王子神社、大歳神社、諏訪神社の三社を昭和二十五年六月吉日に合祀し、社号を一宮神社と稱します。
王子神社は神武天皇が日向国より東征途上、筑前のところにおいでになり、一年間や役務?みられた宮居の地で境内には、古代祭場等、考古学的にも貴重な跡があります。
大歳神社は三代実録や続風土記にも表れている古くて且、由緒深い神社でもあります。
諏訪神社は花尾城主麻生氏が信州の諏訪神社を御手洗池のほとりに分祀し、厚く祀られた址社であります。

一、祭神
天忍穂耳命 神武天皇 (元 王子社)
大歳神 事代主命 (元 大歳神社)
建御名方神 仲哀天皇
神功皇后 応神天皇 (元 諏訪社)

一、祭礼
一月一日 元旦祭
四月十七日 春季大祭
六月二十五日 道祖神祭
七月二十一日 祗園祭
七月三十日 夏越祭
十月十七日 秋季大祭
十一月十五日 七五三祭

昭和二十五年六月に、王子神社、大歳神社、諏訪神社の三社が合祀され、一宮神社と名前が変わったようです。

諏訪神社は麻生家太祖、一品坊昌寛が建久五年信州諏訪大明神を山寺の内、諏訪山に勧請し、爾来麻生家の崇敬篤く流鏑馬。猿楽等が奉納されていました。
大歳宮は三代実録に載る式外社で、平安時代以前に祭られていました。現在の三菱化学構内に鎮座していましたが、大正四年工場立地に伴い合わせ祀られました。

https://goraifuku.jp/spots/detail/161
から引用

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道路に面した鳥居の神額には「一宮神社」とあります。

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鳥居をくぐると、橋や、古い灯籠があります。

蔓延元年は1860年です。

灯籠の隣には、根元が膨らんだ大きな楠。

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楠の根元には、「弁財天」と書かれた石が置かれています。

弁財天とは七福神に数えられる女神です。

宗像三女神の一柱である市杵島姫神は、弁天様と呼ばれることもあります。

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反対側には「興玉神(おきたまのかみ)」と書かれた石碑がありました。

「道路の守り神」や「商売の神様」など、地域によって様々に祀られているそうです。

1.4km離れた、八幡西区熊手にも興玉神が祀られています。

橋を渡って進むと、鳥居が二つ現れます。

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この鳥居は、「王子」のままのようです。

その鳥居の左側に、神籬磐境があります。

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最近建てられた、新しい看板が目印です。

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木に囲まれた柵の中は

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石が積まれています。

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柵の間から撮影しました。

この神籬磐境は、昭和60年代に復元されたとの情報もありました。

完全に復元なのか、一部なのか、詳しい記述は今のところ見当たりません。

南に向いていて、Googleマップのレビューには、一宮神社の祭神の一柱が「天忍穂耳命」であることから、英彦山を向いているのではないかと投稿している方がいらっしゃいました。

一宮神社の様子

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(以前撮影した写真)

本殿の周りには大きな木、すぐ裏手は丘のような山があります。

周りは綺麗な住宅街なのですが、この神社の周辺だけ、森が残されています。

神功皇后がの上陸地であることが、地名の由来となった、「皇后崎(こうがさき)」。

ここは皇后崎公園の中心です。

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左が疫神社、右が蛭子神社です。

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古そうな石碑や祠も。

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大きな木が多く、石段の上には苔が生えていたり。

自然が多い場所です。

一宮神社は岡田宮の元宮

この神社から1.2キロ離れたところに、古事記や日本書紀でも伝えられる「岡田宮」があります。

一宮神社は、岡田神社の元宮と言われています。

岡田宮由緒
岡田宮の創始は不詳ですが、古の崗地方(遠賀地⽅)を治めていた熊族が、洞海・菊竹浜(貞元・現在の熊西)に祖先神を奉斎したのが始まりです。記紀に記される初代天皇・神武天皇の東征の折に訪れた「岡田宮」とされ、第14代天皇・仲哀天皇と神功皇后の熊襲征圧の際に、仲哀天皇と神功皇后をお迎えした地ともされています。

中殿(岡田宮)の御祭神として祀まつられる神武天皇は、日向国より東征の途次、速吸之門と、宇佐を経て当宮に詣まいり、1年間この地に留まりました。その時に神武天皇は、岡田宮の旧鎮座地で神籬跡の残る一宮神社の地で、現在は左殿(八所宮)で祀られている天皇守護の御巫祭神八座(八所神)を奉斎したと伝えられています。神武天皇の御出立の後に、一宮神社の地(山寺)に岡田宮、御手洗公園の地に八所神社が祀られたとも考えられています。

「九州の神社」より引用
http://kyushu-jinja.com/fukuoka/okada-gu/

古の崗地方(遠賀地⽅)を治めていた熊族が、神籬磐境を守ってきたということでしょうか。

御船出(5)謎の1年…稲作で豪族が恭順
古事記が記す岡田宮は、古代の崗地方(遠賀郡)を治めていた熊族が祖先神を祭っていた社である。現在の住所地にすれば北九州市八幡西区。当時の社は現在より広大で、イハレビコの御宮居跡は住宅地になっているが、元宮の一宮神社にはイハレビコが祭祀(さいし)を行った祭場跡「磐境(いわさか)」が残っている。
「熊族の地で、イハレビコが祭祀を行っていたことに意味がある」と、同宮の波多野直之宮司は言う。遠賀地方を支配する豪族が、イハレビコに従ったことを象徴するからである。
「熊族の『熊』は、古事記によく出てくる『わに』のような言葉で、海の豪族という意味合い。彼らは、船団を率いてイハレビコを迎えたとも伝わりますから、早くから恭順したということでしょう」

「産経WEST」より引用
https://www.sankei.com/west/news/150506/wst1505060006-n1.html

岡田宮の御祭神の一柱は「県主熊鰐命(あがたぬしくまわにのみこと)」。

熊族ですね。

イハレビコは「カムヤマトイハレビコノミコト」、「神武天皇」のことです。

「鰐」は「海の豪族」を指してて、熊族(熊鰐)は、海の民。

海の民であった地方豪族が、神武天皇の東征に従ったことが重要であると、この記事が伝えています。

神武・海道東征 第3部
御船出(1)水源のない島の窮状に心痛
御船出(2)海の難所 現れた水先案内人
御船出(3)宮を造り歓待した宇佐の民
御船出(4)母への孝心 伝える「幻の宮」

その神武天皇ですが、架空の天皇のようであるとの情報もありました。

さて、「一宮神社」にもどり、参道を進みます。
鳥居の扁額には「王子宮」とあります。
神武天皇が即位前の頃に住まわれたので「王子」の名がつきました。
ただ、実は神武天皇は記紀が創り出した架空の天皇のようです。
実際には物部系の別の天皇であったと想定されます。

「偲フ花」より引用
https://omouhana.com/2017/07/06/%E4%B8%80%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BD%9E%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E%E4%BC%9D%E3%80%804/

歴史は、勝者が残すものだから、事実と異なっている可能性が高いのだろうと、私は思っています。

都合の悪いことは隠したり、表現を変えたりすることはあるのではないでしょうか。

可能な範囲で伝えようとはしても。

個人が自由に発信できる時代になり、誰かが持っていた知識や情報が、ネットによって繋がっていけば、埋もれていた事実が浮かび上がって来るのだろうかと、想像しています。

もしかしたらこの先、考古学と相まって、古事記や日本書紀の時代のこともわかる時が来るのかもしれませんね。

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猫も落ち葉の上で、ひなたぼっこ。

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神社の駐車場手前には、レトロな天ぷら屋さん「ふそう」があります。

お昼のお得な定食を目当てに、私も時々訪れます。

気軽に楽しめる天ぷら屋さんは、北九州や福岡特有なのでしょうか。

大阪や広島では無かったように思います。

宗像大社の高宮祭場

北九州史跡探訪に書かれていた

「近くでは宗像大社のすぐ背後に迫る山丘の地は、祭神比売大神の御降臨の地と伝えられている、高宮祭場の地と酷似のようである。」

この宗像大社の高宮祭場の写真があります。

以前、高宮祭場の秋季例大祭を訪れた時に、撮影することができました。

(撮影の許可はいただいて)

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この時は、祭礼のために特別に柵が開けられていました。

木に囲まれた場所であることは、同じですね。

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過去の写真以外は、Canon EOS kiss x7で撮影しました。

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