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カメラを持って北九州の歴史を巡ってみた - 河内貯水池・沼田泰子記念碑

北九州市八幡東区には、建設当時「東洋一」の規模だった河内貯水池があります。

貯水池やダムができる前は、どんな姿だったのか。

工事する時には、どんな苦労があったのか。

たくさんの歴史があったはずです。

今回は八幡東区の河内貯水池とその周辺を、いつもと同じように「北九州の史跡探訪」をもとに、巡ってみました。

河内貯水池とは

13番 河内貯水池
河内貯水池は八幡製鉄所の水源設備として、大正八年五月に起工し昭和二年一月から運転を開始し、足かけ七年余りを費やした大工事であった。
河内貯水池の建設の概要
大正四年 八幡製鉄所土木部長沼田尚徳氏により設計された。
大正八年五月、日朝労働者四〇〇人を使い基礎工事着手、学校を含む三〇数戸六〇人が移転した。
貯水池の概要
使用人員 延九〇万人
工費 四九〇万円
地底面積 五六町歩
池の周囲 六・四キロメートル
堰堤の高さ 四四メートル
貯水量 七二〇万立方メートル
河内貯水池ダム東端に貯水池完成記念の碑板があり、書は製鉄所白仁長官によるもので碑文には「乾坤日夜浮」とあるがこれは杜甫の登岳陽楼詩の一節で、天地の万物が昼夜水面に浮んでいると洞庭湖の水面の広い様を表現した詩である。

書籍「北九州の史跡探訪」 143ページ
八幡東区 13番 河内貯水池より引用
官営八幡製鐵所創業時(1901年)の工業用水は、板櫃川中流の大蔵水源池から送水されていたが、その後の鉄鋼需要の激増に対処するため、板櫃川上流に、当時としては東洋一の規模となる「河内貯水池」を築造する計画が策定された。

北九州イノベーションギャラリーホームページから引用
http://kigs.jp/db/history.php?nid=2529&PHPSESSID=8ab6d96e143c47cdec3a2f9f7

北九州市八幡東区のホームページでは、歴史について詳しく記載はありませんでした。

河内貯水池そばの河内小学校のホームページには、詳しく情報が残っていたので、ぜひそちらでも読んでいただきたいのですが、一部引用掲載いたします。

貯水池が河内に作られた理由

河内小学校のホームページには、さらに詳しい情報が掲載されていました。

2.貯水池が河内に作られることになったわけ
 ・貯水池の水は,自然落下で送ることができ電力を必要としない。
 ・工場に近く,貯水池の水は1時間45分で工場へ送ることができる。
 ・えん堤に対して貯水量が非常に大きい。
 ・集水面積が広い。
 ・工事に使う岩石が近くにたくさんある。(東河内の駐在所横の道を少し登った所に皿倉山から転落した岩石がたくさんある。) 
 ・河内貯水池には、いくつかの川が流れ込んでいる。しかし、ほかの所と比べて川から土砂が流れ込む量が少ない。そのために,河内に貯水池を作ると長く使える。
 ・えん堤の下の岩盤は、花崗岩によって熱変成した粘板岩でとても硬い。
 ・大蔵川では、地層のずれ(断層)が見られるが、えん堤の所には地層のずれがない。そのために、地盤が安定していて水もれなどの心配がない。 

河内小学校ホームページより引用
http://www.kita9.ed.jp/kawachi-e/newpage61.htm

八幡製鉄所の生産のために、十分な水の量が確保でき、工場への供給が容易であったこと、安定した地盤であること、川から流れこむ土砂が少ないこと。

河内が貯水池に適している理由が並びますが、「工事に使う岩石が近くにたくさんある。(東河内の駐在所横の道を少し登った所に皿倉山から転落した岩石がたくさんある。) 」の一文が目にとまりました。

たしかに皿倉山には、岩石がたくさんありました。

山から岩石が転落するのは、珍しくないのか。

気になる一文です。

3.貯水池の工事
  貯水池の建設が決まったのは、大正5年(1916年)です。外国の技師に頼らず、八幡製鐵所の土木部ですることになりました。当時、土木部長をされていた沼田尚徳さんが中心になって、貯水池の設計をし工事の監督をされました。工事は、大正8年(1919年)5月に始まり、昭和2年(1927年)1月に完成しました。沼田さんは,製鐵所の仕事も忙しく、日曜祭日に河内の工事現場をまわり、その足で市の瀬峠を越えて養福寺の工事現場へも行かれたそうです。貯水池の水をせき止めるえん堤の工事は、7つのブロックに分けて行われました。
 当時は、進んだ工事用の機械もなく,人の力による作業が中心でした。えん堤の基礎工事の場所からは、川に沿って土砂を運ぶトロッコの線路がしかれました。工事が始まってからは、毎日岩石を割るハッパの音がやかましかったそうです。工事が進んでくるとトロッコは汽車にかわり、線路もめがね橋の近くまで延ばされました。工事の完成が近くなると、30数軒の家と60人が他の場所へ移りました。学校が現在の場所(運動場)に移ったのは、この時です。貯水池の工事は、長い年月をかけたくさんの人が働いた大きな工事でした。しかし、この工事で亡くなった人がいなかったということです。このようなことはめずらしく、本当に素晴らしいことだと言われています。このようにして、その頃としては東洋一の大きさを誇る河内貯水池が完成したのです。

河内小学校ホームページより引用
http://www.kita9.ed.jp/kawachi-e/newpage61.htm

貯水池の設計を行い、工事を監督されたという八幡製鉄所の沼田尚徳さんは、1900(明治33)年卒の京都帝國大学土木工学科第一期生で、操業当初から八幡製鐵所と歩みを共にしてきたようです。

アメリカ土木学会員であった沼田は,無類の新しいもの好きで,新しい技術の活用に大変熱心な技術者であると同時に,「召水」と号した優れた詩人であり,漢詩と書を愛する教養人・文化人であった.文学的素養に裏打ちされた風景感覚と新たな時代を生きる技術者の挑戦的意欲が随所に発揮されて,ここに貯水池の新たな風景が創出されたのである.

土木学会選奨土木遺産ホームページより引用
https://committees.jsce.or.jp/heritage/node/175

外国の技術者に頼らず、製鉄所の土木技術者だけが独力で成し遂げたこと、殉職者をひとりも出さなかったことは、この沼田さんの力が大きかったのでしょうか。

河内貯水池のえん堤

河内小学校のホームページで「えん堤」という言葉が分かりました。

漢字では「堰堤」です。

4.沼田さんの工夫と特色
 ・えん堤は,ヨーロッパのライン河にほとりにある中世の古城をイメージして作ってあります。河内貯水池のえん堤の表面には、硬い安山岩質凝灰岩を張り、強く美しく仕上げてあります。
 ・えん堤は、全部が一度に倒壊するのを防ぐために7つのブロックに分けて作ってあります。また、温度の変化によって割れ目ができるのを防ぐために,間に銅板を入れて作ってあります。
 ・えん堤は、八幡製鐵所でできた高炉セメントを使い、含石コンクリートとし、形がくずれたり腐ったりするのを防ぐようにしてあります。
 ・バルブは水圧によって開けたり閉めたりしています。(現在では、バルブの開け閉めは電力によって行われています。)

河内小学校ホームページより引用
http://www.kita9.ed.jp/kawachi-e/newpage61.htm

皿倉山の麓側、大蔵側から山に向かって走っていくと、左手に見えてくるのが河内貯水池のえん堤でした。

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沼田さんが「ヨーロッパのライン河にほとりにある中世の古城をイメージ」したそうです。

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この広い貯水池を、令和の今もずっと堰き止めています。

河内貯水池ダム東端に貯水池完成記念の碑板があり、書は製鉄所白仁長官によるもので碑文には「乾坤日夜浮」とあるがこれは杜甫の登岳陽楼詩の一節で、天地の万物が昼夜水面に浮んでいると洞庭湖の水面の広い様を表現した詩である。

書籍「北九州の史跡探訪」 143ページ
八幡東区 13番 河内貯水池より引用

完成記念の碑板は

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沼田泰子記念碑

DSC00413 のコピー

河内貯水池のそばに、白山宮があります。

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神社の階段を登ると、貯水池に向かうように石碑が建てられています。

それが沼田泰子記念碑です。

河内貯水池を設計した、沼田尚徳の奥様が「沼田泰子」さんです。

14番 沼田泰子記念碑
河内貯水池は八幡製鉄所土木部長沼田尚徳の設計監督の下に七年有余の歳月をかけ完成した。業半ばに協力者の泰子夫人を失いこれを悼んで自らこの貯水池が眼下に見える白山宮境内に昭和三年春に建てた。地元では「妻恋いの碑」と呼んでいる。碑面には次の漢詩が刻してある。
昭和三年春、召水 沼田尚徳
舊?歸一夢 腸断落花前
貞今安住 住人隔九泉
又、更に「予嚢二河内水道工事ヲ督シ培据経営殆ンド十年幸ニ其ノ功ヲ成スヲ得タルモノ固ヨリ神明ノ加護ニ依ルト?亦吾妻ノ内助ニ負フ所少シトセズ憾ムラクワ天之ニ暇スニ年ヲ以テセズ工事畢ル垂ナントシテ溘焉幽ニ帰セリ予深ク其志ヲ哀ミ悼亡五絶ヲ作ル」とある。

書籍「北九州史跡探訪」 144ページ
八幡東区 14番から引用

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沼田泰子さんのことや、石碑について詳しくは、河内小学校のホームページで伝えられていました。

泰子さんは、工事の期間、自分で作ったおすしやおはぎなどを持ち、高見の社宅からバスに乗ってたびたび河内を訪れ、働いている人たちを慰問されたということです。
 しかし、泰子さんは昭和3年(1928年)1月、しょう紅熱のため40才の若さで亡くなられました。泰子さんは、病の床に伏し、高い熱にうなされながら「河内に行きたい。河内に行きたい。」と何度もおっしゃったそうです。それで、工事現場で働いていた人たちが泰子さんの病気が治るようにと福岡の香椎宮に祈願に行ったという話しも残っています。このように、泰子さんは工事で働いていた人たちから慕われていました。
 泰子さんは、主人がとても大事な工事に取り組んでおられるということをわかっておられ、ぐち一つこぼさず主人のためにつくされたということです。また、沼田さんも奥さんの気持ちをとてもよくわかっておられ、感謝されておられたということです。
 愛する奥さんを亡くされた沼田さんは、次のような文章と詩を残されました。

河内小学校ホームページより引用
http://www.kita9.ed.jp/kawachi-e/newpage71.htm

働いている人たちを慰問にと、度々河内を訪れていた沼田泰子さんは、工事半ばで病気によって亡くなってしまいました。

工事の人たちにも慕われていた泰子さんに、沼田さんが残された文章と詩や現代語訳も河内小学校のページで紹介されています。

ぜひご覧ください。

> 河内小学校のホームページへ

おわりに

書籍「北九州の史跡探訪」を読んで、北九州の史跡を訪れています。

今回は、地元の小学校のホームページで更に深い歴史を知ることができました。

昔は書籍や、口頭でしか知ることができなかった情報を、こうしてインターネットで知ることができる時代です。

いつか個人が発信した情報がつながって、もっとリアルな歴史を知ることができるのかもしれません。

使用カメラ

河内貯水池を撮影したカメラはCanon EOS kiss x7、白山宮はSONY RX100M7です。

沼田泰子記念碑はiPhoneSE2で撮影。


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