"哲学的な"問いって? ハイデガー『哲学の根本的問い』の冒頭から考える
本文訳
ふつうの問い(日常的な問い)と、哲学的な問いの違いって何でしょう? この違いについて、本記事では考えてみます。
そのために、マルティン・ハイデガー『哲学の根本的問い』を参照します。まず、本文訳です。
解説
「問うことを通して初めて哲学が何であるかが定まる」というのは、どういう意味なのでしょう。このことについて、少し補足しようと思います。
上の言葉の意味を考えるための準備として、まず「分かること」とは何かについて検討しましょう。言い換えれば、「分かった!」と実感するとはどういうことかについて考えます。
例えば、或る中学生が連立方程式や明治維新について理解したとします。その場合はもちろん連立方程式や明治維新を、つまり理解の対象を理解したと言えます。けれどもそれだけではないでしょう。その中学生は、自分にとって分かることはどういうことかも理解したのです。
実際に何かを理解する経験を通して、人は自分にとって分かるとはどういうことかを分かるのです。加えて、人はそれぞれ物事を理解する速度や順序が異なりますから、自分なりの理解の仕方を見つけていく必要があるでしょう。
それでは、ハイデガーの議論に戻りましょう。さきほどの議論を踏まえると、ハイデガーが言いたいのは以下のようなことだと思います。すなわち、哲学という既に確立された分野から根本的問いについて考えるのではなくて、問う過程を通じて哲学というものがわかり、そのように理解してようやく根本的問いについて適切にアプローチできるだろうということです。
まとめると、哲学には体験して理解するという側面があるのです。僕もそう思いますね。だから、これは哲学的問いだ!と判断する基準はけっこうフィーリングなのです。
思考の材料
参考文献
Heidegger, Martin, Grundfragen der Philosophie, Gesamtausgabe 45, herausgegeben von Friedrich-Wilhelm von Herrmann, Frankfurt am Main: Vittorio Klosterman 1984. (マルティン・ハイデッガー『哲学の根本的問い』山本幾生、柴嵜雅子、ヴィル・クルンカー訳、創文社、1990年)
「わかる」ということについて。339-341頁参照 ↓
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