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理解するとはどういうことか?対象の本質を知識として理解することと、対象の本質を体験を通じて理解することの差異の考察

「私」や「読者のあなた」という「主体」が、言語(論理的推論)を通して「何か(対象)」を理解することと、感覚器官(感官)や体験を通じて「何か(対象)」を理解することの違いについて、簡単な考察を行うこととしよう。


対象を理解するとは、対象との距離を縮めることである

人が何かを理解するということを、一体どのように理解すればよいだろうか?

端的に言えば、何かを理解するとは、その何かとの「距離が近くなること(距離を取り去ること)」である。

どういうことか。外国語学習を例に考えよう。

母語ではない外国語を新しく習得しようとするとき、初めはその音声や文字列が全く意味を伝達してないかのような印象を受けるだろう。自分にとっては意味を伝達しないノイズと感じられるのである。だが学習を続けその発音や重要単語、文法に触れているうちに、その音が意味のある音声や文字列だということが理解できるようになってくる。また学習を進めるうちに、その言語が使用されている文化にも興味を持つようになる。

つまり、心的距離がある状態から、”理解”という経験を通して対象に”近づいた”ということだ。先ほどの例では、「その言語が息づく文化圏に旅行に行く」といったように心的・物理的にその”遠さ”(学習対象の言語と学習者の距離)を埋めたくなるといったことも考えられる。

言葉での理解:脳内にある言語ネットワークを豊かにすること

本記事を執筆している2023年現在、わからないことがあればGoogle ChromeやSafariといったWebブラウザを通して、その言葉の定義や具体例が記載された記事を調べることができる(※)。またchatGPTを利用し「小学3年生でもわかるように説明して」と命令すればよりわかりやすい解説をすぐさま得られる。

しかしそのように情報を検索したとしても、「わかったようなわからないような」という感覚に陥ることも少なくないのではないだろうか?

記事を読んだだけでは「なんとなくわかったけどしっくりはきていない」という状態になるのは、それは自分がわかる範囲で対象について言葉で理解したに過ぎないからである。

このような言葉での理解は、ある事柄を説明する語彙や文章を獲得したという意味で当人とって重要である。それは物事の認識がきめ細かくなるということであり、脳神経のネットワークがより複雑に、豊かになったと言えるからである。

※補足:Google ChromeやSafariといった検索エンジンで自社のWebサイトが上位表示されるようなマーケティング施策を「SEO(Search Engine Optimization)」と呼ぶ。この説明から観取できる読者もいらっしゃるかもしれないが、「自社の商品を認知してほしい」とか「自分のブログのリンクを介して商品を購入してほしい」といった動機でその記事が制作されてることも多く、したがってその記事は”ポジショントーク”的な情報が盛り込まれている可能性があることには注意したい。

体験的理解:身体が対象に”馴染む”ということ

言葉での理解は、脳内のネットワークを形成することである。

そのため、その言葉を利用したり、実際に行動したりすること(例えば”SEO”という言葉を理解することと、実際にSEO施策を中心としてWebサイトのマーケティング施策を立案・実行すること)には大きな差がある。

特定の対象を真に理解するには、脳だけでなく手を動かし、ある程度の時間を要して”腹の底から”理解できるようになることが志向されなければならない。

くどいが繰り返すならば、何かを真に理解するには、その対象と具体的に出会う現場に飛び込む必要があり、何度かミスしながらその使用法を改善して、慣れていく必要があるということである。

何かに詳しい人がスラスラと初心者に解説できるのは、骨の髄までその分野のノリが染みつき、ほとんど条件反射的にその事象の構造と具体例を出力できるからなのである。「日本語は難しい言語だ」と言われることがあるが、我々は母語として日本語を習得したためその運用に大きく戸惑うことはないことからもわかるだろう。

対象の本質を知識として理解することと、対象の本質を体験を通じて観取するような理解には以上のような違いがある。

参考文献

わかるとは何か?が脚注で解説されている
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』新潮文庫、2021年 

何かをとことん勉強し理解することはノリが悪くなることだ、という独特の勉強論
千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために 増補版』文春文庫、2020年

本文中の「距離」の近さや遠さといった表現はマルティン・ハイデガー(1889-1976)の主著『存在と時間』の空間論をアイデアにしている。なお『存在と時間』という哲学書を読み解く上では「何かがあるという”存在”を理解するのは人間(現存在)だけだ」という『存在と時間』内部でのコアメッセージを読者が”理解”する必要がある。存在を理解しつつ存在するからこそ、人はその他のモノやコトといった存在者に習熟し操作・運用することができるというのがハイデガーの主張である。
マルティン・ハイデガー『存在と時間』熊野純彦訳、岩波文庫、2013年 

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