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関心があるとか、興味を持つとはどういうことなのだろう

僕はしゃべりたがりだ。聞き役に徹するのは苦手だと自覚している。読者の皆さんは会話において自分が話を展開することが多いか、あるいは聞く側に回るほうが多いか、自覚してるだろうか?

いずれの立場にせよ、話の内容に興味があるか否かは重大な点であるだろう。なぜなら、興味の欠如したトピックでは会話にノリ切れないからである。

僕の場合で言えば、野球と車の話は全く興味がわかない。だから、いくら〇〇選手が活躍しただとか、車の部品がどうとか言われても知識がないからわからないしわかろうともしない。僕にとってはイチローとか松井以外は野球選手で括られるし、車はプリウスかプリウスでないかでしかない。もし好んで野球や車について語りたい人からしたら、僕は会話相手として不適格だろう。

一方、哲学・脳神経科学・政治経済のような、学問トークや日本のロックバンドについては僕はベラベラ話したい。

何を好ましいと思うか、何に関心を持つかというのは、いったい何が原因なのだろうか。単純な事柄なら進化論的に説明できるかもしれないが(甘いものが好き、イケメンや美女が好きなど)、野球が好きかサッカーが好きかの優劣にまで進化論的根拠があるとは考えにくいだろう。

対象への興味・関心は、いつの間にか抱くものであると言うことができる。つまり、いつの間にか好きになっていた、関心を持っていたというものだ。なのにもかかわらず、人間関係の構築の上で大事なのだ(関心事が似ていると当然話が盛り上がる)。

自らの興味関心のフィルターがいつの間にかできあがる。そのいつの間にかできたフィルターを通して情報を見聞きして活動する。以上が人間の実態であるとすれば、「自らの関心」に自分は振り回されているとも言えるだろう。


思考の材料

内省


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