マガジンのカバー画像

うぇいの哲学

52
哲学みがある記事のまとめ
運営しているクリエイター

2020年5月の記事一覧

「詩」としての哲学——理性ではなく「想像力」重視の哲学

「哲学って、難しいことをゴチャゴチャ言ってるだけじゃないの?」と思っている方もいるかもしれません。まぁ正直そういう側面もあります。「真理探究」の学(Wissenschaft)としての哲学(Philosophie)においては、かなり込み入った議論が行われているからです。 ただ、そのような自分の意思には関係なく定まった対象(例えば客観的真理)を把握しようとする哲学以外にも、哲学の活動領域は拡げられるはずだと僕は思うのです。 本記事は、冨田恭彦『詩としての哲学』を頼りに、「可能

生きること、死ぬこと、応えること

昨日、バイトの同期の一人が亡くなったことを知った。死因は、不整脈による心停止であるらしい。突然の死だ。 彼とは知り合って2年以上経つが、雑談をするようになったのはつい最近のことだ。というのも、彼は深夜で僕は早朝のシフトであり同じ時間に一緒に働くことはほとんどなく、事務的に仕事を引き継ぐことが多かったからである。 1か月ほど前になってようやく、砕けた話をするようになった――そんな矢先の出来事だ。 現代における「信仰」僕を含めて多くの現代人は、「明日以降もしばらく生き続ける

ゴミみたいな文章を一度は読まなければならないことが、Twitterのデメリット

以前論じたのですが、現代は「言葉が過剰な時代」だと言うことができます。みんなが言葉を発信できるからです。一方インターネットが登場するまでは、文章を発信できたのは比較的頭のいいエリートに限られていました。 僕は基本的にこのような現在の言葉の状況は好ましいと考えています。というのも、特権的な人たちだけが関われた書き言葉の世界に、みんなが参加して議論できるようになったからです。 各個人の視点から言葉が紡がれ、発信され、より良い世界が目指される――様々な価値観を持った他者と共生す

マルティン・ハイデガー『哲学の根本的問い』第1章 日本語訳

どーも、うぇいです。本記事では、マルティン・ハイデガー『哲学の根本的問い』の第1章の日本語訳を載せようと思います。 ハイデガーは、根本気分(Grundstimmung)が哲学を始める上で重要だと言っています。 理性的っぽそうな「哲学的問い」ですが、実はそうした哲学的問いを立てる動機というのは、「漠然とした気分」なのではないでしょうか? みなさんは、どのような気分から哲学的な問いを立てていますか? 僕は、「好奇心」や「違和感」から考え始めますね。「好奇心」とは、なぜ物事が

なぜ「個性」があったほうがいいのか? J.S.ミル『自由論』から考える

どーも、うぇいです。最近、「多様性が大事!」とよく言われますよね。ここで言われている主張とは要するに、「みんなそれぞれ好きなように生きていいよね」ということだと思います。 ではなぜ、同じような生き方をするよりも「みんなそれぞれ」の生き方をしたほうがいいのでしょうか。 この問題を考えることは、「個性」の重要性を考えることでもあります。 本記事では、イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミル『自由論』第3章「幸福の要素としての個性」をもとに、多様性の問題、個人の生き方の問題

「豊か」でいるための思想——「満たされてる感」のレベルを下げること。過剰であることに喜びを感じること。

豊かさとは何か?——この問いを抜きにして、「豊かな人生」や「豊かな社会」を語ることはできないように思われます。 なぜなら、豊かさについての意味内容を曖昧にしたままでは「豊かな〇〇」に向けた具体的な行動を「あなたがする意味」を考えることができないからです。 例えば、「これが豊かな社会を実現するための仕事だ」と言われる仕事はたくさんありますが、その中であえて「あなた」が特定の仕事に従事する意味は何なのでしょうか。すなわち、社会貢献できる仕事がたくさんある中である特定の仕事を選

毎日頑張ろうとするとそれはそれで緩急がなくなり間延びしてしまうから、「休日」を意図的に設けたほうがいいかもしれない

何か大きな目標があるときは、単調な努力を重ねなければならないでしょう。コツコツとか、泥臭くとかそんなふうに形容される行動の積み上げです。例えば、受験勉強とか部活動の大会に向けての練習です。 でも、そうやって必要なことを淡々とこなしていくのは案外難しいものです。これには1つの大きな理由があるように思われます。それは時間(Zeit)の問題です。 目標達成のために毎日淡々と過ごすというのは、昨日と今日と明日がほとんど区別されない等質的な時間を生きることと言えるのです。人は、平均

ため息、諦め、パラドクス

お酒はあまり飲まなくなったが、一方でタバコを吸いたいと感じる瞬間が増えてきた。ただ、僕の趣味はランニングだから、ランニングの心地よさを減じてしまうようなタバコにハマるわけにもいかない。 というわけで、今は友人が喫煙者だった場合に数本もらうという状態で落ち着いている。 (以下、本記事の内容はとてもネガティブなものです。したがって、「幸せになるために人は生きている」という信念を抱いている方には読むことを勧めません。他の楽しそうな記事を読んでいただければと思います。) ふつう

言葉は世界を切り分ける刃である。その意味で、言葉には暴力性が本質的に含まれる。言葉は世界を取りこぼす。

「言葉には暴力性がある」――この命題について本記事では考察したい。すなわち、人間が普段何気なく用いる言葉には本質的に暴力性が内包されているというスキャンダラスな内容を提示することが、本記事の目的である。 「言葉の暴力」というフレーズでまず想起されるのは、いじめやハラスメントであろう。けれども、私が言いたいのはそのような社会問題の一部という程度を超える、最も根本的なことなのである。(もちろん、それら社会問題が些末なものだと言っているわけではない。本記事での議論が、根底のところ

賢者とは誰か?

賢者といえば、髭をはやした老人男性がまず想起される。(このイメージはもちろん、今まで触れてきた物語に影響されているのだろう。) 経験を積み思考を巡らせることで、人は老成する。そのような人が、賢者と一般に呼ばれてきたのであった。 だが、いま僕たちが生きる現代社会にあっては、賢者=髭をはやした老人男性ではないだろう。場合によっては、賢者だと思われていた人のアドバイスが役に立たない、さらには害になってしまうということも見られるようになった。 なぜだろうか。理由を挙げるとすれば

素朴に生きている人々の人生を擁護できるか?

僕の創作活動の目的の1つに、泥まみれで、つまり素朴に苦労して生きている人の人生を学問の知見から応援するということがある。 少なくとも、学問には大きく2つの力があると思われる。すなわち、学問の知識が個人の思い込みを事実でもって破壊するということ。そして、地域や時代や文化を横断することで、他なる視点を身につけられるだろうということだ。 学問は、直接的に人生をより良くさせるものではない。けれども学問は、人生を間接的な仕方で豊かにしてくれるのではないかと僕は考えている。 さまざ

「とりあえずビール!」を哲学する。また、ドイツビールのおいしさを回顧する。

ビール(Bier)が苦手な若者が最近増えてきているらしい。僕は飲み会で「とりあえずビール!」と頼む人間なのだが、他人も「とりあえず」なのかはきちんとヒアリングする必要がある。 ここから大きく2つの事柄が取り出せるだろう。1つ目は、昔(?)の「最初は絶対にビールを頼む」という暗黙の常識が常識でなくなったということ。2つ目は、自分がビールを好んでいるからといって相手がビールを好んでいるわけではないので、そのことを配慮すべきだということだ。その配慮が新たに常識となりつつある。

「人生の意味」を問うてしまう人のための、5つの考え方

僕の記事で一番読まれている記事が、以下のものになります。今回は、下の記事を加筆したよというお知らせです。 要約です ↓ 人間社会は非常に複雑ですが、その根本には生殖=再生産という事実があります。社会や共同体のルールが定められている理由は、人々が平和に暮らすため、言い換えれば人々の「生存」と「繁殖」のためと言えます。では、人類の生存と繁殖の先には何があるのでしょうか?... そもそも、このような問いを立てること自体が、生物学的には「バグ」であるように思われるのです。 生き

大衆はどこにいるのか?

哲学を学ぶと、現代の”常識”と呼ばれるものがどれだけ一時的なものかが感じられるようになります(そして捻くれていきます)。それで、「現代人は~なところがバカだよね」とか考えたり言っちゃったりします。 けれども、哲学を学ぶ自分もふつうの現代人として日常生活を過ごしているわけですから、自分で自分に説教しているとも言えます。 哲学を学んでいる自分は特別だぜ!と僕は思っているけど、実情は凡庸な大学生の一人です。僕が専らやっていることと言えば、YouTubeの再生数1を刻むくらいのこ