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諦める日本と、諦めないアメリカ~日米リーダー交代からの気づき(1)(柳澤協二氏)

【道しるべより特別寄稿のご紹介】
昨年、道しるべは柳澤協二元内閣官房副長官補/防衛研究所所長より、コロナ禍の日本社会を考察された『新型コロナからの気づき―社会と自分を中心に』をご寄稿いただきました。その続編となる新連載『日米リーダー交代からの気づき』が始まります。
コロナ禍で起きた日米両国の指導者交代に、ポストコロナへの展望を探ります。連載の初回は、日米のリーダー交代に見え隠れする社会の病巣を解き明かします。 

 2020年に、日米で政治リーダーの交代劇がありました。安倍前首相もトランプ前大統領も、新型コロナがなければ、続投が確実視されていた中での退任でした。

 わが国の安倍前首相の場合、「他に適任がいない」という理由で安定した支持を集め、その「支持」を背景に、批判を許さない政権運営を行ってきました。コロナ対応では、4月に緊急事態を宣言して5月に収束させるというプランで臨みましたが、より大きな第2波に遭遇し、何をやっても批判される状況となり、ストレスが嵩じて体調を崩すことになりました。

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 アメリカのトランプ前大統領は、コロナを恐れぬ強いリーダーを演出し、徹底的にコロナを軽視しました。しかし、10月までに全米で死者が20万人を超える状況では、その強気の姿勢があだとなりました。二人とも、「無謬・無敵のリーダー」という自ら設定したキャラクターのために、危機に対応する柔軟性を発揮できなかったのだと思います。

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 一方、後継者について言えば、日米ともに「本命」がいたわけではありません。「もし変わるなら石破さん」という世論はありましたが、積極的に変えたかったわけではありません。まして日本人のなかに、「菅さんに変えたい」という意思があったわけでもありません。一方アメリカ人も、地味で高齢のバイデン氏に変えたいという積極的な意思があったわけではありません。
 では、なぜ代わりとなるような候補がいないのでしょうか。


 コロナが明らかにしたことは、効率優先社会の脆弱性でした。誰も今のままでいいとは思っていません。そこで問われるのは、コロナ後に同じ社会構造のまま、社会を以前のように回せるのか、それとも社会の構造そのものを変えなければならないのかということです。リーダーは、そのいずれかの選択を示さなければなりません。それなくして、人々が不安から解放されることはありません。しかし、その答えが見つからない。だから、本命視される候補が出てこないのです。

 奇しくも、ポスト・コロナはポスト安倍、ポスト・トランプと同義になりました。日本では、「安倍路線の継承」以外のビジョンがないように思えます。アメリカではバイデン氏が、トランプ氏の自国優先主義を否定し多国間主義を掲げるものの、他国に譲るカードがなければ自国優先にならざるを得ません。そこに、ポスト・コロナ時代のリーダーシップの貧困があるのです。

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 現代は不安の時代です。自然災害、感染症、戦争などのリスクは、いつの時代にもありました。しかしリスクが現実化しても、国や自治体が何とかしてくれる、あるいは自分で何とかできると判断すれば、不安はありません。必ず来るリスクにどうしたらいいか分からず、国も明確な答えを出せないから不安なのです。

 人は不安に耐えられないとき、分かりやすい答えを求めるため、大きく二つの行動を取ります。一つは、自分が悪いから仕方がないと諦めること。国民が諦め、「誰がやっても同じ」と思えば、少なくとも今より悪くなるリスクを避けようとする。これが、今の日本人の現状維持志向です。

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 もう一つは、自分はやれるはずなのに邪魔するやつがいる、と他人に責任を転嫁することです。トランプ氏のやり方は露骨でした。「アメリカを再び偉大にする」と言うときのアメリカは「白人のためのアメリカ」であり、それをダメにしたのは、内では移民や有色人種、外では中国やただ乗りする同盟国だと訴えました。不満をもつ白人は、諦めるのではなく、邪魔者を排除しようとしました。特にアメリカでは、覇権国の座を中国に奪われる不安と、アメリカ国内で白人が少数派に転落する不安が重なって、白人の焦りを生んでいるのです。一方、排除される側も黙っていません。結果、「ブラック・ライブズ・マター」で対抗し、国が分断されていくことになりました。

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 諦めた日本人と見果てぬ夢にこだわる米国人と、「どちらがマシか」わかりませんが、コロナがもたらしたのは、いつ仕事がなくなるかわからない、誰も助けてくれないといった「社会的リスク」の現実化です。まじめに生きていれば、誰からも干渉されず、社会の片隅で生きていかれるはずでした。だが、現実はそうではありませんでした。まじめに生きるだけでは取り残され、見捨てられるのです。不安は絶望に変わり、絶望のなかで自分を責めれば自殺、他人を責めれば暴力になります。もちろん、大多数の人々は希望と絶望の淵で耐えているわけですが、人々に希望を与えられない政治の罪は最も重いと思います。

【執筆者紹介】
柳澤協二(やなぎさわ・きょうじ)
東京大学法学部卒。防衛庁(当時)に入庁し、運用局長、防衛研究所所長などを経て、2004年から09年まで内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)。現在、国際地政学研究所理事長。

柳澤理事長 論考掲載写真7分の1サイズ


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