「内部に射影した外部」と「内部に射影しない外部」ー生命・コミュニケーション・記号過程
内部と外部
内部と対立する外部
この外部の方を、さらに二つの外部に分けて考えることができる。
内部にとっての外部と、内部からうかがい知れない外部
「内部」との関係で「外部」には二つの姿がある。
1つ目は、内部にとっての外部。内部が知覚し観察し「これが外部だ!」と内部で理解されたもの、内部へと翻訳されたもの、内部へと射影されたもの、としての外部である。
2つ目は、内部からはうかがい知れない外部である。もちろんこちらの外部もまたあくまでも内部と区別される限りでの外部であり、内部と無関係なものではなく、本来ひとつに連続しているはずのものである。しかしそれは「内部」には一切捉えられない。
この内部と外部の関係をどう見るかについては、井筒俊彦氏の『意識と本質』がヒントになる。
例えば、郡司ペギオ幸夫氏が『天然知能』で問うのは、この第二の外部、内部からはうかがい知れない外部、それと内部との関係である。
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内部からはうかがい知れない外部は、内部が「私を囲む、私にとっての外の世界」として、知覚しているような「”私の”外部」ではない。これは前述の1つ目の外部であり、これを作り出す知性が、最初に述べた「人工知能」なのである。
例えば私の主観的な意識は「外部」といいながら、「私にとっての外部」のイメージを内部に作っている。この外部は外部ではなく「私の内部で」シミュレートされものである。私たちの「内部」は、自分の内部でシミュレートしたイメージと合致するものだけを選択的に「自分にとっての外部」として認識する(外部その1)。
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内部からはうかがい知れない外部はまた、内部とは無関係に、主観的意識の「外」に客観的にそれ自体の法則性をもって自立している自然とも違う。これは1つ目の外部の特殊な形態であり、これを作り出す知性が最初に述べた「自然知能」である。
私たちは意識的に概念の体系や分類の体系を学習し、しっかりと校正された測定器を決められた通りに使うことで、誰の主観性が観察してもいつも同じように再現される外部についてのイメージを作り出すことができる。これが自然科学の対象である。自然科学の対象としての「主観性の外部」は、主観的な個別の人の外に広がる誰にとっても共通の単一の世界として観測することができる(外部その2)。これは人類学者のヴィヴェイロス・デ・カストロが「多自然主義」と対比させて論じた「単一の自然主義」の世界でもある。
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郡司氏によれば、『天然知能』が関わる「外部」は、この外部その1でも、外部その2でもない。天然知能が関わる外部は「(内部からは一切)想定できない外部」であり、「(内部によっては)知覚できない外部」である。
郡司氏がいう「外部」は「ただ、何だろう?」という感じでのみ接近可能な、よくわからない謎である。
しかしそれは無視できない存在感で迫ってくる。
「知覚され、感覚されることが無くても、存在を認め」ざるをえない何かである(p.35)。