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表面的で一義的な意味と、深層的で多義的な意味が、分かれつつひとつに

『群像』に連載されている安藤礼二氏の「空海」を読んでいると、次の一節に出会う。

「文字」はみな、表面的で一義的な意味(「字相」)の下に、深層的で多義的な意味(「字義」)を秘めている。
安藤礼二『空海』,第四章「真言」,群像2022年1月号,p.290所収

字相 と 字義
字相は表層で、字義は深層である。
字相は一義的で、字義は多義的である。

二項の対立関係を重ねた図式に置き換えると、次のようになるだろう。

字相 / 字義
||     ||
表層 / 深層
||     ||
一義的/多義的

この二項対立をさらにデノテーションとコノテーションの対立に重ね合わせてもよいだろう。

あるいは井筒俊彦氏が『意識と本質』の160ページあたりに書かれている分節I分節IIの対立に重ねてもいい。

分節Iというのは「有本質的分節」であり「本質によって金縛りにされて動きの取れない事物」たちの世界を作り出す。

対する分節IIは、「無」本質的分節であり「あらゆる存在者が互いに透明」な「存在的透明性と開放性の世界」を作り出す。

ここで重要なポイントがある。”字相”と”字義”は対立関係にあるが、ただ相容れずに分離しているということではなく、前者の「下」に後者が「秘め」られていると言う点に注目したい。

対立する二項である”字相”と”字義”は、対立しながら、上下に重なり合い、カバーと中身外身(そとみ)と中身、顕現した姿と潜在的な姿とも言い換えられるような関係にある。これらはすなわち二校対立関係にある二項が、二つでありながら一つであり一つでありながら二つであるということでもある。

”字相”と”字義”

字相 / 字義
||     ||
表層 / 深層
||     ||
一義的/多義的
||     ||
*  /  *

この多義的でありながら一義的、一義的でありながら多義的。二つでありながら一つ、一つでありながら二つの「意味する」ということの重なり=包み込みから、人間が人間としてその身体でもって生き、経験し、執着することができる世界なるものが(自分と他者が)発生する

人が生きながら執着してやまないあれこれのものたち、自分自身の本質によって自分自身を一義的に固定的に意味づけるかのようなものたちが、それとして「ある」ことに「なる」ためには、深層の多義的で動的な意味(字義)が動いていないといけない。

その深層的で多義的な意味(「字義」)を読み解き、語ることができたのなら、それらの「文字」は、人間たちの世界で流通している意味、「世間」の意味を離れて、人間たちの世界を超えた如来たちの世界でのみ流通しているような意味、「出世間」の意味を持った祈りのための言葉、世界を今ここに新たに創り直すような「出世間の陀羅尼の文字」となるであろう。
安藤礼二『空海』,第四章「真言」,群像2022年1月号,p.290所収

この字義の動き、字義の蠢き、字義の躍動それ自体と一つに同じであるような言語的行為を(声を出したり、聞いたり、読んだり、書いたりすることを)私たちはこの、たまたま気がついたらこのように生まれていた身体でもって実行することもできる。字相的には我執の対象であるような自分自身の存在を字義が躍動するフィールドとして提供すること「も」できる。

一義的な「字相」多義的な「字義」へと転換するためには、この「阿」だけを用いれば足りるのだ。
安藤礼二『空海』,第四章「真言」,群像2022年1月号,p.301所収

◇ ◇

ところで、深層的で多義的で動く字義といわれても、なんのこっちゃという感じを持たれることの方が多いだろう。

これを(あえて言い換えるなら)ありとあらゆるものたちがこちらに喋りかけてくる世界を考えてもらうと良いのではないか。

例えば、昨日の昼間、私は風呂場のカビの生えたところをカビキラーで掃除した。だからなんだという話かもしれないが、こういう時に私は、小さなカビたちと言葉を交わしているような気がしてしまう性分である。

「生きている君たちに、こんな塩素系の何かをかけてその分節システムを破綻させてしまうなんて、なんだか悪いことをしているような気がするよ」

私の「心の中」に、こういう感じの言葉がふっとよぎる。
するとどこからか、カビたちの声が聞こえてくるような気がする。それは次のようなことを言っていた。

「ここが人間の住処、人間の家、人間が纏う膜のとびきり大きいやつだとは、お前がその薬品を持って話しかけてくるまではついぞ気づかなかったぞ。まあ、好きに掃除でもなんでもするがよい。良いも悪いもない。人間は人間で快適に生を死から分節し続ければ良いではないか。そして、そういうことをしている限りカビも人間もない。同じだ。今は消えるが、また会おう。」

これはカビがしゃべっているわけではなく、「私」が頭の中で捏ね上げた思いつきだろう、と言われて仕舞えばそうなのだけれども、どうにも「私」自身の言葉という感じがしない。不意に脳裏をよぎるこの言葉たちを「自分の言葉だ」というのは違う感じがする。

もしカビがしゃべったら、もしカビを擬人化したら、こういう具合に言うだろうな、と言う仮定の話でもない。

確かにカビが、いや、カビという名前をつけるかどうかはどうでも良いくらいの、風呂場の壁の黒い点が、しゃべっていると感じられてならない。

このようにしゃべるのは、風呂場のカビに限った話ではない。

物心ついた頃から、私の周りでは色々なものたちが好き勝手にしゃべっていた

小学校に行けば教科書の1ページ1ページの薄い紙はもちろん、鉛筆一本一本から風に揺れるカーテンも掃除用具のロッカーも水道の蛇口も溶けかかった石鹸も天井の板に開いた小さな穴たちの一つ一つまでもがずっとしゃべっているた。

特にカーテンと天井の喧騒はひどく、他の子供の喋る声や、教師の言葉はほとんど聞こえないというほどであった。

他の人間たちもまた、もちろんその口で何かを喋るという意味で喋っていることもあるのだけれども、それだけでなく、黙って立っているだけでも、その髪や目や指や服や靴や脚や何から何までが、それぞれ勝手に喋っている声が聞こえてくる。

何かの病気だと言われればそうなのかもしれないが、子供だった私は、他の人たちもみんな私と同じようにものどもの声が聞こえているのだと素朴に思い込んでいたので、「みんな随分平然と、乱暴にものたちを扱うなあ。ひどいなあ」といつも憤慨していたものである。

声、声、声。

世界は声を発するあれこれのものどもの濃密な実在性によって充満している、という感じ。喋るものたちはマクロにもミクロにも充実した物質で、目に見え、音に聞こえ、匂いに満ちている。

◇ ◇

空気が少しでも動きますとそこに必ず響きを生じますがこれが声(しょう)です。
空海「声字実相義」(加藤精一 現代語訳)

空海『声字実相義』には上のようにある。

空気が少しでも動く。

この少しでも、というのが、本当に少し、極めて少し、でも良いのだとおもう。

感覚を細かく細かくしけばいくほど、極めて微細な動きまでをも見てしまうことができる。例えば、本の紙の上の小さな一つの文字のインクが微かに周囲に染み出してミクロな紙の繊維を曲げているところ。

このインクが繊維を引っ張っている緊張して止まった動きが、空気を今にも動かしそうで動かさない沈黙の声になる。

声(しょう)。
声について、空海さんは次のようにも書かれている。

十界のあらゆる言語は声によって語られます。声には長い短い高い低い、音や韻の違い、屈曲の違いなどがありますがこれが文となります。
空海「声字実相義」(加藤精一 現代語訳)

長い/短い
高い/低い
音や韻の違い、屈曲の違い

声にはさまざまな差異があり、その差異から分節が、二項対立関係を重ね合わせた分節システムがその構造を現す。

そしてこの声の差異、声にある差異、ある声と声の間に差異があったりなかったりするということは、ひとえに人間の神経系の分節機能が作り出す差異でもある。

この差異に気付いたり気づかなかったりする神経系というのは聴覚だけではない。視覚も、他の感覚も、そして複数の感覚を束ね上げる中枢神経系もそこにある。

このような一切の顕色、形色、表色のすべては、感覚器官の眼のはたらき、眼の境界、眼識のはたらき、眼識の境界、眼識の対象、意識のはたらき、意識の境界、意識の対象であり、見えるものの違いとなるのです。このような違いは文字ということができます。それぞれの姿が全て文字と考えられます。
空海「声字実相義」(加藤精一 現代語訳)

例えば、目に見える差異。「顕色」には、「影と光、明るいと闇い、雲や煙、塵や霧」「好ましい、嫌い」が挙げられる。
また「形色」として「長い、短い」「粗い、細かい」「真っ直ぐ、真っ直ぐでない」「高い、低い」が挙げられ、さらに「表色」として、「取る・捨てる」「曲げる・伸ばす」が挙げられる。

そして次である。

が起こりますとそのままではすまないで必ず物の名表わすことになり、これをといいます。
空海「声字実相義」(加藤精一 現代語訳)

声 / 物

この二つの間に、「名を表わす」という関係がある。この表すという関係は、実体論的ではなく関係論的な関係である。

実体論的な関係というのは、関係ということを、もともとそれぞれ独立した(自性を持った)何ものかが二つあり、その両者が二次的に結合すること、として考える物である。項が先で、関係は後である。

これに対して関係論的な関係というのは、逆に、関係が先で、項は後、と考える。

関係論では関係を、二項対立関係を作り出す=分節する作用と考える。ある項がそれとして存在するのは、関係の中で他と区別される=分節されるからである。この関係を離れて項が他の項と無関係に存在するとは考えない。

声と字と実相の三つがそれぞれ別の物であることをと名づけます。
空海「声字実相義」(加藤精一 現代語訳)

というのは、意義の義、いわゆる「意味」ということもここに含まれると解釈してみよう。

義、意味は、声(音の響きの差異・区別・分節)と、字(声=音の響きの線形配列)と、「実相」とが、別々に異なりながら、しかし組み合わされているということだという。実相というのは「名が出れば必ずそこに本体があらわれます。これを実相と言います」とあるように、言葉で呼ばれる対象のこと、あるいは対象の本質のようなものと考えておこう。

「対象」や「本質」については様々な考え方ができるところであるが、ここでは仮に、「表す」という動き分節作用であると考えて、そこで「表すもの」と「表されるもの」シニフィアンとシニフィエ名札と本体仮の名と本質字と実相といった二項対立関係が分節されると考えておこう。

これは「意味」を”言葉と言葉の置き換え”とみたレヴィ=ストロース氏の考えにも通じる物である。


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