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言葉の本質とは。-分けつつつなぐ分け方と繋ぎ方の発生

noteで懇意にさせていただいている愚唱さんから、youtubeに公開されている養老孟司氏と安部公房氏の対談(現在非公開)を紹介していただきました。

ちなみに、愚唱さんには、わたくしが試行的に開いているnoteサークル「井筒俊彦著『意識の形而上学』精読塾」に参加いただいており、ここでまさに言語とはどういうことかというエッセンスを語り合っています。

井筒俊彦氏が『大乗起信論』を「創造的に読む」ことで浮かび上がらせる言語の双面性と仮名性。仮に分けつつ一つでありつつしかし分かれつつ不二であること。そこからら発生し進化=退化し続けていく生命のような意味分節システム(象徴変換システム)としての言語。

こうしたビジョンに、安部公房氏が動画で語られている言語の話が重なってくるのです。

動画では安部公房氏が次のように発言される。

「精神とは何かというと要するに言葉である」

精神とは要するに言葉

精神だけではない。宗教お金科学も、人間が何ごとかについて考える・思考するということはすべて言葉の上の話、言葉の中での出来事、意味分節作用としてのコトバの発生とうごめきそのものである。

この意味分節作用の蠢きというのは即ち、第一に象徴と象徴を区別することと、第二に複数の象徴を互いに区別しながらも置き換え可能な関係を保つこと、この二つの動きによる。

精神でもなんでも、何かについて言葉で言ったり書いたりするということは、すべてこの意味分節作用の現れ、その動きが投げかける影なのである。

ところが、この言葉の根源的な生命力は、私たちの日常の世界では見えないように気づかれないように隠されていることが多い。

安部公房氏は動画の5:30ごろ、今日しばしば「精神」のようなものが「言葉の向こう側に非常に大きな領域としてある」と考えられてしまっていると指摘する。

即ち、精神などなどが言葉とは別に、言葉とは独立に、言葉の外部に、それ自体としてあると考えられているのである。

そして言語は、その言語の「外」、言語とは「別」の何かを、うまい具合に模写する気の利いた道具、カメラや鏡や透明なメガネのようなものという地位に矮小化されてしまう。

ここには「言葉に対する無知」があると安部公房氏は語る。

言葉とは別に精神なるものや、あるいは精神に対立する物質なるものが予めそれ自体としてあると決めてかかった上で、それでは精神の中身はどうなっているでしょう、物質の中身はどうなっているでしょうと、精神なるもの、物質なるものを、細かく要素に分けては要素同士を繋いでいくコトになる。

ところがこの要素に分けて、並べていく、という操作自体がいくつもの象徴からなる分節システムを用いることにによって初めて可能になることなのである。そしてこの象徴と象徴を分けつつつなぐ分節システムこそ「言葉」と言うことの、その動きなのである。

精神は、この分節システムの外にあって、この分節システムを道具にように使いこなす主体ではない。

精神もまた、この分節システムの中で分節化された一つの象徴、一つの項なのである。

このあたりの話は下記の記事でもご紹介していますので、参考にどうぞ↓

また、精神とは言葉であるという関係の立て方は、意識とは言葉による「比喩」であるというジュリアン・ジェインズ氏の見立てにも通じるものがある。


精神が言葉の中にある象徴の一つだなどと言われると、何やら精神という崇高なものを矮小化されたような感じがして不安になるかもしれない。しかしここに不安を覚える必要はない。

むしろ言葉こそ、人間が良い意味でも悪い意味でも動物と異なる力の源なのである。対談は言葉が私たち人類の「生まれつきのプログラム」を閉じたり開いたりする、と言う話に進んでいく。

即ち、人間は、動物が持っている(自然の)美しい秩序のあるプログラムを失う一方、自由にプログラムを組む能力を獲得したのである(動画の12:00ごろを参照)。

この自由にプログラムを組む能力こそが言語能力、ソシュールのいうラングに対するランガージュ、意味分節システムを発生させる言語の生命力なのである。

言葉というのは、オープンなシンボル間の置き換え=組み合わせシステムである。オープンであると言うことは即ち、象徴と象徴の区別の仕方と組み合わせ方を自由自在に変容させることができると言うことである。この分割結合を自在にできるということこそが、互いに異なるものとして区別された二項を、別々だけれども「同じ」ものという関係におく、比喩の力、「憑依」の力を導き出す。これは井筒俊彦氏による『言語と呪術』の世界である。

言語と、言語を操ることができる人間の身体の特徴がある。オープンであるが故に言語(ランガージュ)は言語(ラング)を発生させることができる。その好例として対談ではピジンからクレオールへ至る言語の発生が語られる。

生命、動物、人間、言語

さらにおもしろいところは、この言語の発生ということが、生物の発生人間の発生という分化しつつ多重化していく一連のシステムの一つのサブシステムのようなものとして論じられる点である。

物質、生命、人=言語を、それぞれ開かれつつ閉じたシステムとしてその環境から区切り分けつつ、しかし互いに相即相入すると見立てる。

こうした世界の仮に言うなれば実相は、言語を通して「分けつつつなぐ」矛盾的自己同一の動きとして、その動きから発生する、動きが残すパターンとして、思考できることもある。

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この「分けつつつなぐ」動きから発生するパターンは、一、二、三、四項の関係として、構造化される。この話については次回の記事に続きます。↓


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