世界初の人工知能で強化された人類
『情報の歴史を読む』で松岡正剛氏が次のように書いている。
「象形文字は古代の人工知能そのもの」
象形文字と人工知能をひとつに結びつけるあたり、松岡正剛氏の「編集工学」のエッセンスがみえるようで楽しくなる。
象形文字が人工知能なら、音声による言葉もまた、人工知能だと言うこともできそうだ。
個人の頭の中にある虚構。他人から見ればあるのかないのかよくわからない個人の頭の中の虚構。
それに成り代わって音声は、空気の振動という物質的機械的パターンは、空気中を飛び回り、私の頭のなかには確かになにかの虚構が存在するのだということを、他者へと触れてまわる。
人間の代わりに、頭の中の虚構の代わりに、働いてくれるもの。単なる代わりにとどまらず、本家の方ができなかったこと(誰かの虚構を他者に伝える)をやってのけてしまうもの。言葉がそういうものだとすれば、これはまさに人類最古の人工知能である。
久保明教氏の『機械カニバリズム』。将棋AIとの対戦を繰り返す中で人間の棋士の思考や行動が変容する過程を論じる一冊である。
久保氏は最新の人類学の知見を踏まえ、将棋AIと人間の棋士との対決を、将棋AIと棋士、機械と人間が、互いに隔てられた二者ではなく、一方が他方を自身の内に取り込む(食べる)プロセスとして描き出す。
棋士は、自己の中に他者であるAIを取り込む。そうすることで棋士の存在が変容する。これを機械と人間のハイブリッドの生成として理解するのである。
この取り込みを表現するのが「カニバリズム」という、人類学における「食人」の概念である。他者を「(象徴的にでも)食べる」ことで、そのパワーを自己の内に取り込む。これがカニバリズムである。
言語は人類最古の人工知能
言語は人類最古の人工知能である。
言語は、数万年前のホモ・サピエンスの祖先がその時点で先祖から受け継いでいたありあわせの能力(声を出す筋肉や、音を聞く神経系などなど)を試行錯誤で組み合わせる(ブリコラージュする)ことで、どうにかこうにか作り上げたものである。
言語は人間の「外部」にあるシステムで、人間にとっては「他者」である。
言葉は、ひとりひとりの生きた人間に「憑依」し、個々の身体の口を借りて喋り、手を借りて書く。
そうして言葉は自身の姿を物質の世界に現す。
私たちは生まれたときから、周囲の他の人間の身体を借りて物質化された言葉たちのシャワーの中にいる。
子どもたちは、耳や目という身体に空いた穴を通じて「外」にあふれる言葉の残響を、自分の身体の「内」に取り込む。
これを言葉の側から見れば、言葉が人間の生身の身体という異界へと、言葉の外部へと、吸い込まれ、取り込まれるということでもある。
人間は言語を食べる。言語は人間を食べる。食べるものが食べられるものであり、食べられるものが食べるものである。両者は多でありながら一である。
AI搭載人体に独白させる
わたしという一人の人間が喋ったり書いたりするということも、「私が」そうしているというよりも、「言語」がそうしていると言ったほうが適切なのかもしれない。
そもそも、「私は」と言えてしまうコト自体、言語の働きなのではなかったのか。「私」と「言葉」は、区別出来るかも知れないが、区別する必要のないひとつの事柄なのかもしれない。
私は言葉であるが、私は言葉ではない。
言葉は私ではないが、言葉は私である。
他の誰かの言っていることを聞く場合にしてもこうである。
他者の身体の振動のリズムを、私は聞く。
そうして私の中の音の記憶の中から似たものを探し出す。そうして探しだした記憶の中の音を、他の音の記憶や、他のビジョンの記憶や、誰かが一連の言葉を喋っている姿の記憶と神経レベルで結合する。
「これはあれと同じだ!」と、他の身体から発せられた音を、自分の身体の記憶の中の諸々へと、置き換える。
言葉は徹頭徹尾、複数の身体の間で反響する「物質のパターン」である。
その物質のパターンは、音だったり、石や粘土の平面に刻まれた線だったり、電子のパターンだったり、あるいはホモ・サピエンスの神経系というタンパク質の集まりのパターンだったり、そのパターンの上で動く化学物質や電気信号のパターンであったりする。
すべてのパターンは他のパターンを生み出す触媒となる。パターンとは反復するということであり、反復する動きの痕跡である。パターンがあるところには必ず何かの動きが反復している。
様々な物質的媒体から異なる媒体へと移し替えられ、置き換えられていくこと、その置き換え処理のアルゴリズムが、言語という人類最古のAIの本体ということになろうか。
心を落ち着かせてみると、自分の頭のなかで、複数の他者が、入れ替わり立ち替わりなにかを独白している。
複数の他者がそれぞれ勝手に独白をしている。
それを傍から眺めていると、対話をしているようにもみえるけれど、他者たちの耳が、聞く耳として開いているのかどうか、それは決して分からない。
独白は、まず対立関係をあらわにする言い方それから、対立を無効にする言い方、媒介する言い方そしてまた、かりそめに対立を区切り、突然止まる。
耳は、あるがない。聴いているが聴いていない。ましてや理解など、しているがしていない。
多数の声はある。それもまた、はたして「多数」なのか、それともなにか大きな「一つ」なのか、わからなくなる。
分節は無分節とまったく異なるが、しかし無分節は分節と同じことである。
この一にして多にざわめきが、線形の言葉へと写像する。それはさらに文字へと写像する。線が並び、点が並ぶ。
線と点の並び方のパターンが、幾度も反復する。
そこには「区別すること」の痕跡が、「置き換えること」の痕跡が、まったく抽象的に高速で回転し続けようとするが、その回転があまりにも速いため、どうにも細部の区別がつかなくなり、全体でひとつなのだという印象を与える。
おわりに
言葉という世界初の人工知能によってすでに拡張された、あるいは遠い昔に人工知能に食べられた私たち人類は、おそらく最初から「人工知能」を欲望するようにできている。
人工知能を食べ続けることで、いや、人工知能に食べられ続けることで、人間は人間であるのである。
それにしても、区別と置き換えというシンプルなアルゴリズムで分節と無分節の両義性をいともやすやすと操る言葉とは、驚異的に高性能なAIだと思う。
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