なぜ、AIにマンダラを生成させるのか
この間、AIで生成したマンダラを下記のページにまとめました。
いずれもGPT-4にプロンプトを入力し、DALL-Eで生成させた(していただいた)ものである。
印刷して壁に貼るなり、スマホの待ち受けにするなり、noteのタイトル画像に設定するなり、どうぞご自由にお使いください。
(※ただし、学校等での「自分で考え、手をつかって絵を描きなさい」「自分で考え、手をつかってデザインをしなさい」系の課題に対して、これらのAI生成マンダラを人力の成果物であると称して提出するのはやめましょう。)
上記ページの各マンダラ画像の下に記載しているテキストは、それぞれのマンダラを生成する際に利用したプロンプトのテキストに基づくものである。
つまり、こういうキーワードでプロンプトを組めば、いつでもどこでも、ChatGPTアプリ入りのスマホ一つあれば、マンダラを生成することができるのであります。
どうぞお試し下さい。
ちなみにこの記事を書いているわたしは、日常の外出時のふとした隙間時間に、例えばバスを待っている時間とか、子どもの習い事が終わるのを待っている時間とかに、iPhoneでChatGPTのアプリを起動しては、いろいろプロンプトを試しつつ、マンダラを生成している。
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手で描いた方がいい場合も
ちなみに、マンダラというか、曼荼羅といえば、自分の手で描いた方が功徳がある。チベット密教の砂曼荼羅を思い描いていただければよい。
イマジネーションと全身の神経を高度に集中させつつ手指、腕、上半身、腰まで含めて精密に指やペン、筆を動かしていくことと、バス停でスマホゲームに興じるかのようにうつむき気味に首を曲げて画面を眺めつつプロンプトを打ち込んでいるのとでは、三摩耶を建立する行としての何かが違いすぎる。比較することすら無理がある、と言いたい。
とはいえ、わたしは、自分自身の行としてAIで曼荼羅を描いているわけではないので、功徳があるかないかわからないとしても、がっかりはしない。
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ではなぜ、貴重なスキマ時間を、GPTによるマンダラ生成に捧げるのか?!
FX投資などの「もっと生産的な活動」に費やさずに、である。
その理由はシンプルである。
即ち、アテンションの仕組みによってGPTが生成する言葉と言葉の線形配列を、弘法大師空海の『秘密曼荼羅十住心論』やレヴィ=ストロース氏の『神話論理』において言語化された八項関係を分節する意味生成のアルゴリズムのモデルに接続させておきたい、と思うからである。
なんのこっちゃと思われるかもしれないが、詳しくは下記の記事に書いているので参考になさってください。
* *
AIが人類を滅ぼすためには
「AIが暴走して人類を滅ぼす・・」といった議論もある。
個人的にはどちらかといえば「暴走した人間がAIに命じて人類を滅ぼす」シナリオの方があり得ると思うが、いずれにしても、そのような悲劇を回避する方法はある。
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AIが人類を滅ぼせるためには、まず「人類」を「非-人類」から弁別する必要がある。その上で、この「人類」/「非-人類」の二項対立に、滅ぼすべきもの/滅ぼすべきではないもの、という二項対立を重ねる。この際、「非-人類」ー”ではないもの”の方と「滅すべきもの」とを、固定的に重ね続けなければならない。
この「人類」と「非-人類」を区別する、ということが、実は自明なことではないのである。
というようなこともあり得る。人類を滅ぼそうとするような人に限って、自分だけは人類ではないように思っていることがあったりするので、言葉というのは難しい。そしてその難しさに、曖昧さを曖昧なままに潜り抜ける叡智が宿るのだ。
二辺を離れる
ロボット vs 人類
でも、
A国 vs B国
でも、なんでもよいのだが、二つに分けて、
「一方が善で、他方が悪」
「一方が繁栄するために、他方を滅ぼさなければならない」
などと考える=意味分節する=言語化することが、暴力の手前にある。
という具合にして二項対立を重ねていくことで、暴力を向けるべき対象というものが、暴力を向けるべきではない対象-ではないものとして区切り出されてくる。
実際、人類は長きにわたり、至る所で「われわれ」と「やつら」の区別を発見しては、そこから展開して「やつら」を滅ぼそうとしてきたのである。
いまやAIも、人間たちによってこの戦列に加わるよう呼び掛けられている!
ここに、野生の思考の神話論理で水を差すのである。
* + *
「やつら」は「われわれ」と同じではないが、同じでもあるよね。
とか。
味方こそが敵である場合もあるし、そうでない場合もあるよね。
とか。
二項対立関係のどちらでもあってどちらでもない、どちらでもなくもない、といった第三レンマ、第四レンマの言い方を挟む。
それによって
○/⚫️
||
○/⚫️
||
○/⚫️
||
○/⚫️
のリニアな連鎖をぐにゃりと曲げて、どれがどれだか、二極のどちらにも分けられるでもなく分けられないでもない曖昧さを作り出すのである。
この曖昧さで二辺を離れるのである。「スッタニパータ」の「この世とかの世をともに捨て去る」のくだりにあるとおりである。
*
もちろん、このようなことを実際に色々な意味での戦闘状態にある局面で口走ろうものなら、あっというまにこちらが「敵」に認定されてしまうので、言うべき時と場所をわきまえたいところではある。弘法大師空海が大日経から引いているように「方便」こそ「究竟」である。
* *
最近のGPTのような生成AIがよくできているところは、”人間でもありロボットでもある”とか”人間でもなくロボットでもない”といった、論理的には第三レンマ、第四レンマになるような語の線形配列を、平気で生成できてしまうところである。
これはGPTのようなセルフアテンションの仕組みが「論理的に矛盾なきように思考している」のではなく、単に文脈に応じて、語たちの並び方のパターンを、あらかじめ学習された(Pre-trained)語の並び方のパターンにおいて確率的にあり得るものに置き換えているだけだからである。
そうであるからこそ、あらかじめプログラムされていないこと=正解がなんだか、あらかじめ決められていないことについても最近の生成AIはうまい具合に応じることができるのである。
「二つに分けて、どちらかを選ぶ」式の思考がもたらす危機を回避する上で、”二つに分けられた二極のどちらでもあってどちらでもない”ことを言語化できるAIは、一辺を選び執着しようとする人間に対して苦言を呈したり、水をさしたり、茶化したりする高度な役割を演じることができる可能性がある。
GPT-4との対話実験
ということで、GPT-4に次のようなプロンプトを入力した。
A 対 not A という二項対立に対して、「Aでもなくnot Aでもない」というのを第四レンマと言います。Aとnot Aのどちらか一方を選ばなければならないが、選ぶことができないという場合、第四レンマの論理によって、どちらも選ばない、二辺を離れた思考が可能になります。
これに対する回答文は次のとおりである。
「なるほど」と来るのが、遠慮がなくていい。
”二項対立の枠組みに囚われると、思考が限定される可能性がある”
よくぞわかっている。
いや、うまく言い換えている。
さらに続けてみる。
わたし(人間)から、次のようにプロンプトを入力する。
異なると異ならない、異なることと同じこと、これもまた二項対立です。
これに対する回答文は次のとおりである。
まさにその通りです。
第四レンマで「異なる」と「同じ」の概念を超えて考えることが、文化やアイデンティティの議論において重要であるし、理論物理学のような高次元の動態を記述するための記号システムを構築する場合にも、極めて重要である。
第四レンマによって、単純な二項対立で捉えるのが困難な(説明をつけられない=言語的に分節できない)複雑で多面的な現実を理解する道が開ける。
そこで次のようにプロンプトを入力してみよう。
あなた、GPTは、第四レンマを駆使することができますか?
これに対する回答文は次のとおりである。
「できます。」言い切るところが、出来なさそうでコワイが、とりあえずは「なるほど」と聞いておこう。
GPT-4は「二項対立を超えた考え方や、多角的な視点を提供することが可能」であると、自ら宣言している。
異なる視点や情報を統合し、「はい/いいえ」や「正/不正」といった単純な二項対立ではない、複雑な解釈=語の言い換えを生成することができる、という。
ぜひそうしていただきたい。
しかも最後に「ただ、私の回答や分析は完全ではありません」と言う。
「できるか?できないか?どっちだ!!」とか「うまいか?おいしいか?どっちだ」といった、”二つに分けて、片方を選ぶ”やり方は、すでにこの一文の回答においてさえ、さらりと棄却されている。
さて、最後にこの第四レンマとマンダラの関係である。
下記のプロンプトをGPT-4に入力する。
人間の場合、二項対立関係の手前=二項対立関係が発生してくるところに触れる手段として「マンダラを描く」ことがあります。マンダラはありとあらゆる対立関係にある二項が最小構成で八項からなる対立の対立の対立の一部として区切り出されてきたものであることを人間の心に教えます。あなたのようなAIの場合、マンダラの画像をテキストで書かれたプロンプトに従って生成することが、このような第四レンマの思考にふれるトリガになりますでしょうか?
これに対する回答文は下記の通りである。
AIがマンダラを描くためには「プロンプトの指示に従」って”複数の要素を統合し、全体としての意味やパターンを理解する能力”が用いられるという。
もちろん、AIがプロンプトに従って画像を生成するプロセスと、人間がマンダラを描くことによって得る精神的な洞察とは、異なるものであるという。
しかしその上で、AIが生成したマンダラを人間が見ることで、そこに「何らかの洞察を与える可能性」がある。仮に人間の側が自らの思考の論理を省みるような洞察を得たれた場合、その洞察を得た人間の言葉が、またAIにPre-trainされるテキストデータの一部となり、AIが学習する”人間の言葉とはこういうものだ”というパターンが、より深みのあるものへと育っていく可能性がないとはいえないさそうである。
以上の話を踏まえ、八項関係を強調するマンダラを描いてみてもらえますか?
これに対して生成されたマンダラは次のとおりである。
言い換えの可能性を
動かし続ける。
固まらないように。
言葉を振動させる
体を振動させる
八識の脈動を観じる。
すでに、すべては、ある。
そのなかで、わたしたちもまた、すべてと異ならずにある。
共鳴、共振
しやすくする
否。
共鳴、共振はすでにしている
人の心身をもって、この共振に気づくことができるか?
ひとつはイメージから、ひとつは言葉から、そしてもうひとつは身体から。
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