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樹木を上から見ると曼荼羅になる -ヴァレラ&マトゥラーナ『知恵の樹』を読む


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ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラによる『知恵の樹』を読む。マトゥラーナとヴァレラは神経生物学者であると同時に、生命とは何か(生命と非生命のちがいはどこにあるのか)を問う中で、分節以前・区別以前からの分節化のプロセスを区別の体系たる言語によって思考する仏教の思想に接近したというおもしろい方々である。

「これから述べるすべてのことの土台には、<知ること>[認識]という現象について、まるで我々が把握し頭の中にしまい込むための「事実」や対象が予め存在していたかのように考えることはできないという意識が、常にある。」(p.27)

認識することの「対象」となる「もの」が、予めそれ自体として存在していたと考えることはできない。認識は、元々認識する作用とは無関係にそれ自体として存在しているものをどうにかすることではない、という話である。

例えば「見える」という視覚の主観的経験について考えてみる。

素朴に考えると「何かが見える」ということは、人間の外部にそれを見ている人間とは無関係にそれ自体として存在している「何か」が直接見えているのだと思われがちだが、これは間違いである。

僕らは世界の「空間」[客観的・外在的な]を見るわけじゃないぼくら自身の個別の視野を、生きているのだ。」p.23

私たちは、私たちとは無関係に私たちの外部に実在する何かを「見ている」のではなく、流動する多様体のカオスの中に浸かった神経系が分節し、配列して作り出した信号を「見ている」のである。

私たちが「見えている」と主観的に経験している事柄は、"私たち"の中の個々の"私"が、"私"のなかに作り出した情報なのである。

「外部にあるいかなるものについての経験も、「そのもの」が<描写>の中に立ち現れてくることを可能にする人間の構造によって、特別のやり方で価値づけられているのだ」(p.28)

私たちが「見えている」と思っているもの、私たちの外部に客観的に存在していると思いがちな「見えるもの」には、すでに「ぼくら自身の構造の刻印がぬぐいがたく押されている」という(p.22)。


人間が「客観的だなぁ」と主観的に捉えている対象たちからなる世界が、それ自体として人間と無関係に存在しているわけではない言っても、逆に、孤独に孤立した孤高の「私」が特権的に全世界、全宇宙を作り上げる根源として存在している、というわけでもない

客観的な世界が人間とは無関係にまず実在して人間の経験を支配していると考える立場も、人間の認識こそが世界を作り出し世界を支配していると考える立場も、どちらも<認識する人間>と<認識される対象>が区別できることを前提にしている。この両者を区別した上で、そこに先/後原因/結果、という区別を重ねようとし、その重ねる向きをあちら向きにしたりこちら向きにしたりしているのである。

ここでも問題は「区別(区別すること)」である。

<認識する人間> / <認識される対象>
先 / 後

原因 / 結果

これらはなぜ区別されるのか?

これらの区別が成り立つのは、そのように区別をしたから、である。

区別は、初めから存在するものではなくて、区別をすること、その行為(アクション)、操作、動きが、まず初めにある、というか動いている。

区別するということを、分節化、差異化、境界線を引くこと、などと言い換えてもいい。

分節化、差異化、境界線を引くこと

分節化、差異化、境界線を引くことは、人間の言語や概念による思考から、神経系による知覚、さらには人間を含むあらゆる生命の生存、そして宇宙レベルの天体の形成と消滅から量子の世界に至るまで、あらゆる現象を動かしている根源的な最小プロセスである。

振動の違い(差異)から互いに他とは異なる粒子が生まれる(と記述される)量子の世界と、音と音、文字と文字の区別を反復しつつ「喩」でつなぎ、コードを安定化しつつ揺さぶる人類における「意味」の世界。

このどちらもが「区別すること」で動いているというのが不思議である。

こうなると、物質の根源的な量子的あり方が人間の神経系・思考プロセスのあり方を規定していると言ってみたくもなるし、逆に人間の脳の言語的思考プロセスの分節化作用が、量子の現象をも「差異化と反復とそこからのズレ」”として”分節化=意味づけしてしまう、とも言いたくなる。

しかしこの手の「どちらが先か」式の議論は、最初にあげた主体か対象か、客観か主観か、どちらが先かという話と同じところで止まってしまう。

「区別すること」に着目する思考は、この主観と客観、物質と精神を「分ける」こと自体が「区別すること」の一様式なのだということを訴える。

あるのは、動いているのは、区別することただそれ自体である。

特に重要なのは、生命もまた多様で微細な区別のプロセスの連なりだということである。生命は、タンパク質の分子を反復的に作り続けることで自己と他者を区別し、生と死を区別し続けることで、生きている

「(分子反応の)ネットワークは、自らが形成される空間の境界を画定しながら、そのネットワークを現に作り上げているタイプの分子を産出する。<自分自身を作り出してゆく>とともに、<自らの境界を設定する>という、これらの分子的ネットワーク、分子の相互作用こそ…<生きている存在>そのものなのだ。(p.46)

反応のプロセスの連鎖から、境界となる「膜」が連続的に生成され、膜によって自他が、生死が、区別される。そういう生命現象の上に、主体と対象の区別とその関係といったことが拡がっていく。

ここで大切なことは、膜によって区別された何かと非何かは、区別されつつ、依然としてつながってもいるということである。

区別されている / 区別されていない

切れている / つながっている

このように区別と区別以前を区別する(/)ことはできるが、それもまた「区別する」ことの一形態である。区別することは区別されていないからこそできることである。区別されているとは区別されていないことであるし、切れているとはつながっていることなのである。

この辺りから中沢新一氏が『レンマ学』に取り上げている、華厳哲学の「インドラの網」、相即相入の話につながってくる。

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マトゥラーナとバレーラは『知恵の樹』にちょうど南方曼荼羅を簡略化して二つ並べたような図を書いている。

この波線で表現されたところが区別以前・分節以前のカオスであり、そこから浮かび上がるように区別された円環運動の○が、さまざまな自己(他者と自己を区別することの一方としての自己)である。

そして○には複数の異なる向きの円環運動が含まれている。この円環運動の重なりあいは、例えば人間の神経システムと言語のシステムのような互いに互いを参照しあい、不可分でありながら一体となった複数の複合体を表している。

ここで区別することは双方向の矢印で表現される。区別することが同時に繋がっていることでもあることが、よく表現されている。この自己のことをマトゥラーナとバレーラはオートポイエーシス・システムとも呼ぶ。

さらに、いくつもの自己(○)は双方向の矢印で結ばれている。区別以前のカオスを経由することなく、システム同士が互いに他のシステムを自らの外部環境として扱い、それとの区別で自己を反復的に再生産しようとし続ける。

「全てのオートポイエーシス・システムはたくさんの相互依存性によってできあがった単体であるため、システムのひとつの次元が変化したとき、有機体の全体としては同時に多くの次元において、相関的な複数の変化をこうむることになるのだ。」(p.135)

ここではカオスとコスモス、区別以前と他から区別されたいくつもの個たちが存在しつつ、双方向矢印(区別しつつつなぐこと)で一つになっている。この時、個々の個たちは直接間接、至る所で繋がりながら相即相入し、縁起のネットワークを成しつつ動いている。

この辺りはなんとも華厳的である。

実はフランシスコ・バレーラには『身体化された心-仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』という著書もあり、そこでは龍樹の話や、縁起のネットワークの話が続々と登場し、区別以前からの区別の区切り出しシステムの自己組織化の動きを、観察者たる私たちが認識するとはどういうことかを考える手がかりとなっている。

こちらもまた別の機会に読んでみよう。

言語は「言語すること」である

さて、ここで冒頭の主観と客観、認識の主体と対象の関係の話に戻る。

主観客観が別々に区別できるように見えるのは、両者をそのように区別する動きが動いているからである。そしてこの区別することは、他でもない「言語」という姿で現れる行為(すること)である

<言語する>ことによって、言語という行動調整の中で、認識[知ること]という行為が、<世界>を生じさせる。」(p.284)

言語は、区別をすることのひとつの姿である。

私が、私と、私がその中に包まれていると考える「世界」とを区別しつつ結びつけるのは"言語すること"という"区別すること"を通じてである。

そして世界が言語において世界と対立する世界ならざるもの(例えば"私")と区別され区切り出されつつ生成するのと同じように、その世界に対峙する"私"もまた、"私ではないもの-ではないもの"として、私ではないものから区切り出されることで生成する出来事である。

そして私を私でないものと区別する、その区別する動きのひとつは「言語すること」なのである。

「ぼくらはぼくらの生を、相互的な言語カップリングにおいて営む。それは言語が僕らに僕ら自身を明らかにすることを許すからではなく僕らは僕らが他の人々とともに生じさせている絶え間ない生成の中で、言語において構成されているからだ。」(p.284)

ここで忘れてはならないことは、言語は孤独で孤立した"私"のものであると同時に、たくさんの生きた他者たちそして無数の祖先=死者たちから伝承されるものでもあるということだ。

言葉は"私"のものであると同時に、"私たち"のものである。

言語することは、私の行為であると同時に、私たちの行為でもある。

そういう死者をも含む多数の声の残響の中で、私は私を私ではないものではないものとして呼び出し、名付け、その正体を言葉にしようとする。

「ある人の<確信>の経験は、ほかの人々の認識行為にたいしては盲目な孤独の中で営まれる、個人的現象にすぎない。そしてその孤独は…彼がほかの人々とともに生起させる世界においてのみ、乗り越えられるものだ」p.17

無数の他者たちと「ともに生起させた」意味の世界、言葉の世界の中でのみ、私たちは「孤独」になることができる。

生命体として飲み食いをしたり呼吸をしたりしている時点で、私たちは孤独どころか相互依存の関係性の喧騒の中で、網の目の結節点として成り立っているのだけれども、そこに「言語」の分節作用が入り込むと、途端に孤独ということになったり、逆に他者たちのノイズから退出したいと言い出したりする。

これはいわゆる煩悩なのだけれど、そこから飛び出した境位に達するためには、「人々とともに」世界を「生起させる」動きと一体化すること、自分というものがそういう動きであること(そういう動き以上でも以下でもないこと)を知ることが大切なのだ。


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