見出し画像

冬の光に恨む

21歳になった。あまり良い気持ちではない。初対面の人に歳を打ち明けると「28歳(±3)ぐらいだと思ってました」と言われることがしばしばあるが、その「28歳」ないし「25歳」に着実に歩みを進めている。雪が積もったせいで車が出せないので雪かきをしていたら、近所の知り合いに「久しぶりだね(中略)将来何になるの」と訊かれた。とりあえず無難な答えとして「国家公務員とかですかね」と答えたら「わざわざ良い大学出て…もっと夢は大きく持たなくちゃ」と言われた。

20代後半から30代前半にかけて訪れる「自分の人生の無意味さに悩む」ことをクオータークライシスと呼ぶらしいが、そのクライシスに片足を突っ込んでいるような気がする。どこかの心理学者がクォータークライシスを5つのフェーズに分類している。

  • フェーズ 1:仕事、恋愛、あるいはその両者において、自分がした選択のせいで、閉じ込められてしまったように感じる。いわゆる「自動操縦」状態。

  • フェーズ 2:「ここから抜け出さなければ」と感じ始め、思い切って飛び出せばなんとかなるのでは、という思いが募ってゆく。

  • フェーズ 3:仕事を辞めたり、恋愛関係を終わらせたりして、自分を閉じ込めていたと感じるものと決別する。あらゆるものから距離を置き、自分が誰であり、何をしたいのかを見つけるための「タイムアウト」状態に入る。

  • フェーズ 4:ゆっくりと、だが着実に、人生を再建し始める。

  • フェーズ 5:自分の関心や目標に合致したことに、熱意をもって取り組むようになる。

これまでの選択や出会い、成してきたこと、それらに対して「間違っていた」とは思わない。私の前にはこれしかなかったし、それ以外の選択肢をとったとしても、ここに辿り着いていたと思う。時折訪れる、憎悪にも近いような他者への羨望——誰かが賞を取ったり、うまくいくはずがないと軽蔑していた人がいつの間にか幸せそうな顔をしていたり、私が越えられないものを易々と越えていく瞬間を見るにつけ——、「同じように誰かが私を羨んでいるかもしれない」と思い込むことで、その激しい僻みを抑える。けれど結局のところ、私の人生の完全なる目撃者は私以外にはいなくて、私が積み上げてきた行為のひずみに気付くのは、他でもない私自身なのだ。あのとき放棄した事柄が後から私を苛む。ほんの少しだけ(たとえば、やりかけの仕事を休止させて30分だけ寝ようと思うように)諦めたことたち、それら全ての事柄を——いわば誰も知らない小さな反逆行為、怠惰、逃避行——知り尽くしているのは私自身だ。もっと、私は私の人生に対して無責任であって良いのかもしれない。人生というと主語が漠然としているので、感覚だとか知覚という言葉に置き換えても良いだろう、私は私の感覚に対してもっと鈍感であるべきなのだろうか——。

うまくいくはずもないストーリーを頭の中でこねくり回して、うまくいっていたはずの私を幾度も反芻し、必死に現実の中に理想を落とし込もうとしている。外側の飾りだけがどんどん華美になってゆき、それに比例して内面が空疎になってゆく。服を得れば得るほど、着ている私自身の醜さに気付くように。うまくいっていないのは私だけじゃない、と思うのだけど、手にしているもの(学歴、知識、服、金銭、いくつかの経歴たち)を見返すにつけ、「これだけ与えられているのに何一つうまく活かせていない」と思うのだ。私以外の誰かが、私の今の状況に陥ったとして、私以外の誰かは、私よりうまく生きていくと思う。私の人生は私にしか歩めないと固く信じているけれど、それは惨めさという点においてのみであって、いくらでも「もっとよく」なれたはずだ。なんだかんだと言いながら、その実、問題は至って単純で、「手を動かせばいい」だけだ。公募に応募するとか、自分から仕事を取ってくるとか、今関わっている組織をよりよくするために何かするとか、がむしゃらに作品を作るとか。そうやって私が私を肯定できるように必死に動いていれば自ずと気分も上がるものなのだけれど、いかんせんどうしようもなく私は怠惰で、「自分の本当の居場所はここじゃない」と無駄なことを考えながら逃避してしまう。言い換えれば、自分の手を汚したくないのだろう。お高く止まった高等遊民、世間を知らない吟遊詩人……。くだらないことを考える前に、誰の役にも立たない理屈を捏ね回す前に、利益を生む事もない文章を書く前に、自分に鞭打って働けと言われても致し方ない。工事現場の労働に放り込まれたら、きっと私は40kgの土嚢の下敷きになりながらサン=テグジュペリの文章を引用して、嘲笑われるのだと思う。

僕は自分のしていることがよいことかどうか知らない。僕は、人生に正確にどれほどの価値があるものかも、正義にどれだけの価値があるものかも、苦悩にどれだけの価値があるものかも知らない。僕は、一人の男の喜びに正確にどれだけの価値があるものかも知らない。戦慄く手の価値も、哀憐の心の価値も、優しさの価値も知らない……人生というやつには矛盾が多いので、やれるようにしていくより仕様のないものだ。ただとこしえに生き、創造し自分の滅びやすい肉体を……  ——サン=テグジュペリ「夜間飛行」

所詮、こうした悩みも側から見ればお遊びに過ぎないのだし、衣食住が保証された上での「お高い」お悩みなのだ。明日をも知れぬ身にでもなれば、こんな悠長なことをほざいている暇はない。日銭を稼いで生きていくことの刹那性に駆り立てられて、必死に成果を出さねばならないという境遇に陥らねば、このお高い悩みは消えないのだろうか。そもそもこういう考えになっている時点で、現実を見ていない甘ったれなのかも知れない(そうに違いない)。必死に生きるということは読んでその字のごとく、「必ず死ぬ」ほどの努力を伴うはずで、私はまだ必死じゃない。どこまでも甘えている。必死になれよ、自分。

これまで色々とアートを齧ったり哲学を舐めてみたり機械学習を触ってみたりしたけれど、どれもこれも「専門」とは言い難いし、誰にでもできる所業に過ぎない。私にしか書けないコードなどないし、私にしか考えられない哲学もない。全てどこかの誰かが既得権益を得ていて、私は誰かの足跡を辿ってわかった気になっているだけだ。なんの公募にも応募していないくせに、「私のことをわかってくれる人はいない」などとほざいてみせる哀れな大学生ここにあり、といったざまだ。今のところはうまくいっているように見えるけれど、今後転落していったとしたら、「あの人は大学生までが華だったね」と言われるのだろうか。私の知り合いに、名門大学を卒業後、有名企業に就職、突如として退職、陶芸家になった人がいるが、その人のことを祖父は「意味がわからない」という。「そのまま働いていれば今頃…」というけれど、陶芸に向き合うことでしか得られない幸せだってあるはずだ。私はその人のことを羨ましく思う。「LALALAND」でミアがセーヌ川に落ちた叔母のことを歌うように。

人生というのはとかく不便で、やり直しが効かないし、苦痛の連続だ。それでも実にさまざまの人が70歳、80歳と生きていて、それぞれの歴史を紡いでいる。それぞれの人生を単純比較することはできないのだし、全ての人がそれぞれに幸せであってほしい。技術が進歩して自由な生き方が可能になる…前に、みんな幸せになってほしい。自由でも不自由でもなんでもいいから、みんなが大声で「生まれてきてよかった」と叫べるような社会になってほしい、心の底からそう思う。逆ディストピアかも知れないが、そんな幼稚なことぐらいしか考えたくない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?