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凡庸な革命

卒論を書いた。書いたというより、書いてはじめて、スタートライン(の少し手前)に立っているような気がする。自分にできないことの感触だけが鮮烈に、例えばユリの茎をばつんと切り落とした時の……アルデハイドやガルバナムの匂いのように……立ち現れている。

1月19日から(搬入は1月16日から)の展示が1月30日で終了した。歌舞伎町デカメロンにて約2週間、走り終えた展示の感触はもうどこかへ過ぎ去っていて、心の底から私自身が「まだ何もできていない」と思っていることの証左だとも知る。展示をあの場所であの時間であの作家たちと一緒に開催できてよかったとこれ以上ないほど思っているし、現代アートシーンの最前線で、自分の立ち位置が少しだけ見えた気もしている。

卒論と同時並行でいくつかの助成金や別展示の企画書を2つ、そしてデカメロンでの展示を進めてきたこの1月。もう何がなんだったのか、覚えていられない。それは展示メンバーもそうだったと思う。かたや大学院の出願、かたや就職の話。20歳を過ぎて、20代という時間を走りはじめているその助走段階で、目まぐるしく全てが降りかかってきている。

そういうものだ、と言われて仕舞えばそうだ。何事も苦労なくして開かれるものはない。

この展示を通して、私自身としては、ようやく自分自身の生い立ちでもある難聴を取り巻く環境、ないしは障害が抱えるアドホックなアプリオリ性……可塑的な欠落性……に向き合いつつあると感じている。それに向き合うことがよいことかどうか、わからない。ただ、向き合う必要があると感じている。

一方で、それに向き合うための時間がない。あらゆるものが崩落寸前の北極の氷塊のようで、塊根としてある幾つもの可能性が私を責め立ててやまない。現代アートという流動性の高いフィールドで、自分の立ち位置を見つけるには、かなりの速度で回転しながら、さまざまのことを自分で発明していく必要がある。そう、パレイゾンやダムタイプがいうように、アーティストは発明家である。

art is the ability to invent the way of doing things.

——Pareyson, L. (1954), Estetica: teoria della formativita, Edizioni di filosofia.

あなたが何を言っているのか分からない。でもあなたが何を言いたいのかは分かる。私はあなたの愛に依存しない。あなたとの愛を発明するのだ。 これは、世の中のコードに合わせるためのディシプリン。私の目に映るシグナルの暴力。

——dumb type. (1994)『S/N』

アーティストしかり、研究者、人文知の産出者は、いつもせめぎあいのなかで困惑している。困惑と制作と喜びは同じ顔をしている。そしておそらく、誰も理解していない。それは自分でさえも。

これは日本国内に限った話ではないと思うが、とりわけ日本のアートシーンでは、お金の動き方が非常にいびつになっている。アーティストが作品を作るとき、あるいはキュレーターが展示を企画するとき、そのお金はどこから出てくるのだろうか? まず助成金である。あるいは支援者や協賛企業、共催の財団などからの財源。そして、日々の労働の対価として支払われた賃金からの捻出。間違っても、どこかからお金が降ってくることなどない。

コレクターにせよ、ギャラリストにせよ、その資金はどこかから捻出してきたお金であり、莫大な遺産や宝くじの当選金がない限り、常にお金の問題はつきまとってくる。

そのお金の用途を考えてみよう、場所代、機材、交通費、場合によっては宿泊費、材料費、人件費、印刷費、広告費……そこに自らの生活を成立させる費用を差し挟むことは許されない。アーティストにも、キュレーターにも、ギャラリストにも、コレクターにも、批評家にも、インストーラーにも、デザイナーにも……あらゆる関係者に、それぞれの生活がある。その生活と表現を両立させることが、なぜこうも難しいのか。

「やりたいことをやって、食えなくて何が不満なの」という。「変なことばっかりやって、お金がもらえないなんて当たり前でしょう」という。「よくわからないことやる前に、世の中に役立つことをしなさい」という。

表現に関係するすべての人が、自らを曝け出して、こぼした言葉の一つひとつの豊穣な「生きること」そのものの樹液が、ある瞬間のある断片において、耐え難いほどの輝きをもたらして、私たちのある瞬間における生を限りなく肯定してくれるにもかかわらず。

その瞬間の豊穣さに、私たちは身を投げ打って、生きている。それは、生活と表現とが相補的に互いを回転させているから成立するのである。確かに産みの苦しみというものは存在する。作品を作るとき、展示を構成するとき、ある言葉を発するとき、そこに苦しみは存在する。ただ、その苦しみは、飢えや寒さや摩耗が必要条件なのではない。必要条件であってよいはずがない。なぜ表現に関わる人だけが、飢えと寒さと苦しみを味わう必要があるのか? アーティストは粗末な服を着て、よくわからないことを喚いて、芸術は爆発だ!と叫んでいなければならないのか?

既存の計量的価値観で、測定できないものを「不必要なもの」とみなして、切り捨てていく態度が、世界を貧しくし、文化的貧困に陥らせてしまうことを、どれだけ叫ぼうとも、なぜ政治は鈍感なのか? 仮に、政治が必要悪で、政治や教育が虐げてやまないそれらを、「反発材料」「原動力」として提供していたとしても、人文知に対する軽視は余りある。

私たちは好んで苦しんでいるわけではない。そこでしか、可能にならない生の形式があって、そのために制度に分け入り、制度を脱臼させ、柔らかい言葉をほんの少しでも残そうとしているのだ。その言葉が誰かを救いうることを信じて。

根底にあるのは、信頼の力能である。あるいは「し損ない」である。表現はおのれの言葉をすべて語り尽くさない「し損ない」ゆえに、鑑賞者をいざない、解釈を可能にする。さまざまの解釈が可能な自由を信じて、制作者と鑑賞者はそのプレイルームへ身を投じる。

その僅かな信頼、微かな人間性のきらめき、ほんの少しのチャンス、はかないすべてを、どうして制度は許容しないのだろうか?

ほんの少しのチャンスのために、身を投げ打って、自らの人権を裸に曝け出しながら抗う表現者を、なぜ「訳がわからない」のひと言で済ませるのか? 理解しあうその僅かなチャンスを見捨てて、そのいびつさのみで捨象する尊大な権力性がはらむヘテロセクシュアルな拳を、どうして……。

時間もまた、ヘテロセクシュアルである。前へ進むことばかり促して(それは同時に後ろを見ることを促す)、線状の序列構造ばかりを許す。朝起きて、ご飯を食べて、予定を済ませて……。ルーティンと呼ばれるそれらを私たちに作り上げさせて、時間そのものは知らん顔をして私たちから顔を背ける。「あなたがやりたくてやっているんでしょう、なぜそんなに疲れているの?」いつも時間は私にこう語りかけてくる。

「私は規律を教えてあげただけで、あなたが勝手に『いつまでにこれをしなくちゃ』と喚いて、自分で自分の首を絞めているだけでしょう?」

私はこう答えたくなる、「偽善者ぶらないで、みんな仕方なくあなたを頼りにして物事を進めるから、私もそうせざるを得ないだけなのに」。

次第にその問答にも疲れ果てて、私はある時間に至るともう瞼を閉じてしまう。気がつけば——ああ、寝過ごした……。甘やかな夜のあの悔恨と喜びの入り混じった、高速道路の暗やみを、いつまでも味わい続けたいのに。

けれど同時にも思う、溶けてなくなるからこそ、私たちはあの「はかないチャンス」を知っていて、それは時間の手先で次第に崩れゆくからこそ、成立しているのではないか、と。

時間の手先になったところで愛さなくなるだけだろう忘れはしない

うらぶれよ 今日は明日を挟みこむための無色の万力だから

——橋爪志保(2022)『万力』

この文章を書いていても、私の目の前には膨大な……本当に膨大な、やるべきことが立ちはだかっている。その全てが、私が望んだことであることにも、私は心底……驚きながら、恨めしく思いながら、喜びながら、いまを生きていくしかないのである。なすすべなく。

制度のなかから芽生えてくる反抗や克己心や、書き換えの力を信じていたいけれど、そのためにはホモ・サピエンスの一生は短い。私が抱え切れるものではない、怒りや喜びを、誰かに分け与えて、苦みと甘みを教えてあげたいのだけれど、どうも遠慮してしまう。もう本当に、なすすべないのだから。

2023年の目標はいくつかあるのだけれど(悔しいほど時間に従順だ、もう諦めよう)、ひとつは「毎日、言葉を大切にする時間をもつ」ことである。もうこの際、2分でも3分でも構わない。できれば30分。自分が考えていること、逡巡、後悔、いろんなものに、それらが漏らすため息のある瞬間を捉えて、こう問うのだ、「悔やみくん、今日は少し重いね」。

やりたいことも、やるべきことも多い。悔しいのは、やりたいことを進めれば進めるほど、誰にも任せられなくなることだ。指導教員との面談で思い出す、「再現性を作ること」。まだその域には行けないけれど、自分が自分の足跡を再現できるようにはしたいと思う。いつか自分のような人がもう一人現れたとして、その足跡を眺めながら「なんだよ、もっとテキパキやれよ」とせせら笑って欲しい。これは生意気な自分のためのラブレターだから。

やりたいことは、誰もいない道を歩くことである。理論と実践の根本的な折り合いの悪さ、そもそも制度が認めない「はかないチャンス」、さまざまの聞き取りづらい声に向き合い、そこで可能な芸術論を推し進めること。そのために周りに浮きつ沈みつする雑務のことを考える。それは自分以外の誰かがやってくれると思う。けれど、今は自分しかいないのだから。

自分が考えていることは、なんら新しいことではない。ごくごくありふれた革命で、とても平凡な転倒である。ただそこで、躓くだけなのである。

でも、もうそろそろ、自分のことを過小評価することも、過大評価することもやめたいと思う。仕事を得るためには、誇示したり卑下したりすることがあったけれど、そんなことをしている場合ではない。アピールとか、志望理由とか、そんなところに、躓くための石はない。これ以上なく、こんなことをしている場合じゃない。

展示のインストールや卒論を書いていて、いつも独り言で「こんなことをやっている場合じゃないんだよなあ」とずっとブツブツ言っていた。そういうことなのだ。目の前の言葉を必死に紡ぎながら、けれどそんなことをしている場合ではない。そのせめぎあいと困惑のあいだで、理論を学ぶしかないのだ。その「はかないチャンス」を空中浮遊させている場合でも、またない。

屈強な言質のうえで、限りない「はかないチャンス」を提示することができる場所に行ってはじめて、もう少し走ることができると思う。ここで走ることもまた、可能だけれど、その走りは私を真に疲弊させ、真に喜ばせることはないと思う。走るべき場所はここじゃない。

2023年2月。22歳と1ヶ月。25歳になっても何も可能にならなかったら、すっぱり諦めるつもりで、19歳の頃から走ってきたけれど、ここにきて少し、揺らいでいる。あと3年で、この凡庸な革命は達成できそうにないのだ。

けれど執拗に、克明に、その凡庸な革命を成し遂げたいと思っている。時間はかけたくない。革命は素早いからこそ、革命なのだ。隙をついたある一瞬で、誰も気付かないうちに、全てが水没して燃えて壊れて、また元通りになっているのだ。

高速道路はまだ暗い。まだ……しまった、また寝過ごして……。

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