憐れみを偽装する星たちの祈り「量子状態をください」

自分が何者でもないことに対する焦燥感に似た恐怖——細やかな微分を施せば、嫉妬や焦りや羨望や——が1年ほどを掛けながら着実に肥大化している。極論を言えば、金銭的余裕と精神的余裕さえあれば、もう何でも良い、という心持ちにすらなりつつある。諦め、といえば聞こえはまだ幾分かマシになるが、その実、何もしてこなかったことに対する惨めさを添えた正当化である。成功系報酬という言葉があったりするが、この成功体験をこまめに創出していくことが、いかに重要か思い知った。逆に言えば、見返りのないタスクをずっと続けていれば精神は壊れるということでもあろう。その見返りは金銭である必要はない。自分のやっていることがよいことかどうか、その点だけでも承認がありさえすれば十分に報酬系の刺激になる。ある意味、精神状態を保つ上で、金銭的価値はそのまま「良さ」を担保する貨幣であるのだ。それは決して倫理的良さとは共存しないし、一般通念上悪しきことであっても(かつ、行為当事者がその悪さを認識していたとしても)、その報酬として金銭が与えられる以上、それは報酬として十分に認められうる。

認められたい、という欲求は切実だ。少なくとも私にとっては、承認欲求は睡眠欲に優るとも劣らないと思うし、よくよく解きほぐしてみれば、金銭的欲求も、「私が私を認める」うえでの手段としての欲求であるように思われる。たとえば朝9時ごろに起き、人通りのすくない(けれど整備のよく行き届いた)閑静な日当たりの良い住宅地を散歩し、行きがけのコンビニでパンを買い、自宅に戻ったあとはコーヒーを淹れて、昨夜途中で止めてしまった映画を見直す……ことなど。それが可能である、複数のベッドシーツがある清潔な部屋、小麦粉価格高騰による値上げを気にせずにパンを買う財力、労働時間に縛られない生活リズム。ひとはいつも、無いものねだりだけれど、手放すことは滅多に願わない。アイロンが綺麗に当てられた、ステッチの細かい貝ボタンのストライプシャツを着て、無花果を食べる。それらのことが可能である私自身と、可能にしてきた紛れもない私自身の行為主体性——possibility・ability——、その輪郭を丹念になぞりながら生きること。昼ドラでよく耳にする「誰のおかげで食えていると思っているんだ」というセリフはまさにこの可能性の反転、逆投影である。誰しも、私が私であることを精一杯可能にしたいと願っている。自分が望む人生と、制度的に可能な人生は、絶望すべきほどに完璧に隔たれている。Aであることは、Aではない可能性を選択することであるが(Aの余事象を否定すること)、それはAとA^c(Aではない集合)の対立による集合論だ。そうではなく、Aであってもいいし、A^cであってもよい、あるいはそうでなくてもいい——極論を言えばその集合を捨ててもよいこと=《あれであれ、これであれ》——。

あらゆるコード、ディシプリン、ステイル、エクリチュール……。ダムタイプの《S/N》で「私は〇〇に依存しない。〇〇を発明するのだ」という箴言がもたらされるのも、むべなることと思える。離接的綜合の包括的用法、「あれであれ、これであれ」の原野に降り立つこと。あらゆるものが転化可能な、生成変化の領野。

けれど、その発明は容易くない。その発明はつねに匿名大衆の民衆の方からやってきているのに、制度がそれらを妨げる。

Twitterの別アカウントで次のようなことをつぶやいた。「憐れみを誘う行動によって、自分の人生を正当化できる」。たとえば大学卒業後、いわゆる有名企業に就職できなかったとしても、「実は研究室でパワハラを受けていて精神的に病んでいた」という憐れみをでっち上げれば、「そうだったんだ、仕方ないね」という憐憫の情とともに、「正しい人生」の称号を手に入れることができる、といった具合に。たとえそれが純粋な怠惰によるものだったとしても。偽装自殺、OD画像、リストカット、苦しいのに頑張っている私。果たしてその「仕方のなさ」はどこから生まれてきたのだろうか。実の所、仕方がなかったのではなく、仕方がないように動いているだけなのではないか。と言いつつ、私もすぐそこに落ちるような気がしている。シンジくんが劇中で「仕方なかったんだ」と小声で呟くことと、病み系自傷ツイドルが「今日も飲んじゃった(大量のブロン画像を添付して)」とツイートすることが二重露光される。同情なんかしないわよ。自分が傷つくのがイヤだったら何もせずに死になさい、というセリフが40歳ニートオタクくんに刺さるのはそういうことなのだろう。

情報が溢れている現代で、私たちはいつでもどこでも「正しく」なれる。間違っていたことはすなわち、「情報を得る努力をしなかった」ことに等しい。中学の時に通っていた塾で、「受験は情報戦」ということを聞かされた記憶があるが、受験はおろか、人生は情報戦になっている。就職活動の中で新卒が神聖化される時代、必死で情報を手繰り寄せたものが正確な人生を得られるのだ。そこに曖昧さはない。wikiに曖昧さ回避のページが乱立されるように、現代において私たちの人生もまた、常に「曖昧さ回避」の標識がそこかしこに立てられている。制度はこのようにいくつもの発明を妨げる。本来、その人にはその人なりの人生があっていいはずで、いくつもの枝分かれ、逡巡、後悔、曖昧さ《あれであれ・これであれ》があるはずなのに。いくつもの曖昧さがMBAで扱われるような一つのケースに成り代わる。事例化した悩み、怒り、遣る瀬なさ。高度に発達した資本主義社会は社会主義社会と見分けがつかないというが、実感としてそう思える。こうした状況下では、仏教が説くように、執着を捨て、「それはそれ、私は私」と捨象していくことのみが救いだろうか。救われる方法は真に「比較しないこと」だろうか。確かにそれによって得られる安寧は十分に大きいだろう。一方でこうも思う、生命の摂理など根本的な基礎づけとして私たちには「比較」が課せられてはいないか? 生物学上のオスは生物学上のメスを巡り、オス同士の比較に命を賭けるし、遺伝子の構造は二重螺旋という意味で塩基同士の対構造がある。論理の基本構造は弁証法で、高気圧と低気圧の差によって風は生まれ波が打ち寄せる。あらゆるところに比較はあり、対(つい)はあり、テーゼとアンチテーゼが張り巡らされている。排他的用法《あれか・これか》が指し示す事象はまさにこれだろう。

かつての同級生が子供を持ったという噂をどこからか耳にするようになった。否が応にも、世帯を持つということについて少しずつ意識が向く。子供を産むことは親の自己満足だ、というツイートを所々で見かけたりはするが、それを否定することはできないだろう。ベネターが半出生主義で主張するような論理にも幾分かの(実はかなりの部分で)整合性がある。ある意味、子供を持つということは、閉じられた円環への再帰である。世界がこれまで無条件に肯定してきた歴史そのもの——あらゆる根源的連合(フッサールのいうそれでは無いが)——への往還。もう少し辛辣に言えば、子供を産むこと、そしてその決意は、再び「普通」になることであるのだと思う。個性や努力を用いて、円環から必死に逸脱しようとしてきた行為自体を、子供を持つことで丸く収めるのだ。制度・社会はまだいびつで、個性を要請しながら無個性の方がむしろ生活しやすいように作られている。もちろんそうでない出産も多々あるだろう。しかし子供を持つことで社会の方から・歴史の方からほとんど無条件的に肯定される生の形式があることは少なくとも事実だ。例えばこういう表現がある——自然にかなったこと——。意識的な出産を経て、ある人は自然になりうる。bornとnaturalはその意味で力学が等しい。母性に還ること、根源へ立ち戻ること……こうしたエディプス化に対して「アンチ」を冠することは確かにこの意味で理解できる。

こうした《あれか・これか》の選択に基づく「正・不正」の価値判断が人生にも付き纏う以上、無かったことにはできないのかもしれない。一方で、《あれであれ・これであれ》が制度や常識や色々の器官により阻害されるいま、私たちにできることといえば、こうべを垂れてレールに乗ることだろうか。うまく立ち回ることとは、もはや現代においては自主性ではない。様々の場面でひずみが生じている。確かに、大学入試では自主的思考が要請されるものの、結局その出口では従順な学生が尊重される。様々な場面で少しずつ転換が図られてはいるものの、押し並べて出口が整備されていない。個性を重んじ、多様性を尊重しながら、そのはてには機械成形のオーブンが待ち受けているのだ。機械成形の「正しさ」を望まない人たちは皆々「憐れみ」を自分で飾り立てていくしかないのだろうか?

10数年前から「社会の過渡期」と言われつつ、いつまで経っても「過渡期」を過ぎない時代を生きるとは、ある意味でそういうことなのかもしれない。無論、私たちは常に「何かの途中」であるし、生を一時中断することはできない(植物状態や極度の譫妄は議論しないこととして)。だからこそ、こうも思うのだ、日々Twitterで呟かれるいくつものアカウントの死、偽装自殺、憐れみのでっちあげは、このどうしようもない世界の中で少しずつ死んでいく積極的な死なのではないだろうか、と。大量情報化社会の到来により、我々の人生は(データ)は永続的に存在すると言われたが、実際にはそうではない。むしろ、生き続ければ続けるほど、死を望むのだ。《あれか、これか》の選択肢ではそのまま複写され、《生か、死か》の対立が炙り出されはするのだけれど、《あれであれ、これであれ》を願う以上、《生きてもいるし、死んでもいる》状態が生まれてくるように思う。輻輳的な生は単純に考えて、エネルギーを多く使う。量子状態を生み出すために莫大なエネルギーを用いるように、いくつものアカウントを使い分け、いくつものささやかな死(ツイ消し、アカ消し、偽装自殺、憐れみのでっちあげ)の不協和音を呈する我々は、いつも疲れている。

常に何か別のものを乞い願いながら、ある正しい一つの様態だけを求められる中で、私たちはどうやって自分の生を可能にすればいいのだろうか。経済や制度が厳しく私たちを階級分けするにもかかわらず、その目をくぐり抜け、流動的な私を指向すること。中国で発生している離脱、「寝そべり族」はその一つの兆候だと思うし、日本の山奥でも「働きたくない」人たちによるシェアハウスが存在する。政治はどんどん逸脱するし、社会はある一種の均衡な(あれか、これか=富めるか、貧窮するか)不均衡状態の極相へ近づいていく。極相状態では、ギャップが生まれることで循環が保たれるというが、ある意味で外交的緊張や、カルト宗教の存在はこの「ギャップ」の兆しであるような気がする。平穏のためにはむしろ、カタルシスが必要で、裏を返せば、大きな災害が必要なのだ。取り返しのつかない終焉をもって、生きなおすこと。エヴァに描かれる世界の終焉が(笑い声に溢れて)むしろ交歓的なのは、この意味で刺激的な暗喩に満ちている。第9交響曲でさえも、そうだ。終わりがないなら、終わらせよう…。

韓ドラ、「skyキャッスル」での呈されるヨンジュの家庭は、まさにこの破滅を描いているように思えてならない。制度の方から願われた幸せを実現しながらも、猟銃で脳を貫いた自殺。新卒神聖化や、浪人不寛容といった、「それ以外」への不寛容は、不幸しか生まない。《男・女・それ以外》ではないのだ。クィアな視線を得ることや、それを擁護することは《それ以外》の許可ではない。許し=許される構造が奥深くにある時点で、それは十分に差別を伴ったヘテロ的視点だ。新卒以外を採用してもいいよ、だとか、そういうレベルでの許可では、この世界が抱える重篤な不幸を変えることはできない。そう思えば思うほど、この国は(世界は)立ち直れないほどの災害を被りでもすればいい、という論理も十分に理解できるのだ。アベンジャーズのサノスが行うランダムな人口消滅さえ、決して悪しきことではないとすら……。

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