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高速道路の出口がわからない

久しぶりに素直にnoteを書いてみようと思う。いつも書いているnote記事にはフィクショナルな感情が多い。とはいえ事実から生まれてきた感情を増大させて一つの道筋をつけているだけなので、本当の意味でのフィクションではないけれど。

さておき、もう2021年が終わろうとしている。思い返してみる。2021年の1月がもう遥か彼方に霞んで見えるような気さえする。あまりにも多くのことを背負いすぎたと思う。この1年で気付いた私の内なる感情も、名前にならない気持ちも……。何より驚いたのは、私の中にあれほどの激しい感情があったと知ったことだった。怒りや喜びや切なさや愛しさ…(篠原涼子の歌じゃないよ)。今年のベスト10冊以内にはおそらく松浦理英子の「ナチュラルウーマン」と江國香織の「なつのひかり」が入ると思う。他にもいろんな本を読んだ。アランデュカスのチョコレートも食べたし(シングルオリジン、マダガスカルのタブレットが抜群によかった、すばらしく華やかな香りがする)、ピエールマルコリーニのチョコレートも食べた。車でいろんなところにも行ったし、旅行もした。美術館も、展示も、作品も、数え切れないほど行った。緊急搬送だってされた。まだあの病院の廊下と清々しい青森の空の色が瑞々しく私を刺激する。去年の冬から伸ばし始めた髪も鎖骨まで届いたし(つい最近、顎のラインで切り揃えたけど)、わくわくするような色のコートも買った。日記をいくつか読み返してみる。

いくつもの現在地を重ねていくうちに、発せられた言葉、誰かの胸中にあり続ける言葉、墜落した残骸、それが想起という形で別の意味を持って立ち現れてくるのなら、そして、想起のうちに、真の意味(予期していようといなかろうと)が輪郭として現れたとき、急に目の前の現象がまたひとつの新しい色を持って輝き出すようなそんな瞬間があって良い 他人とのコミュニケーションのうちに、そうした後から輝くような墜落の残骸を紡げたら

絶えず変わっていくリズムの中で、思うように言葉を発せられない中で、少しでも伝われば良いと思うこと自体は悪じゃない 若さのみがこの邂逅を可能にしているのならば 確信に近い形での、不純に似たひとつの絶望がある けれど、それらが、今この瞬間に出会うということがもたらしうる数々のざわめきを見なかったことになんてできるはずがない

きれいごとばかりの道へたどりつく私でいいと思ってしまう いつかきっと正しく生きて菜の花の和え物などをいただきましょう 終止符を打ちましょう そう、ゆっくりとゆめのすべてを消さないように 笹井宏之

人はいつも無い物ねだりで 常にここではないどこかへ飛び立てることのできる君よ、いくつもの諦め、次へ向かうための決別、けれど私はいつまで経ってもその決別の手段を持っていない 「僕らにはこの山しかない」というブロークバックマウンテンの劇中のセリフがこびりついて離れない その山脈から抜け出せないでいることも、世の中には存在している I swear と言えるような確かな足跡を持つことが可能なことも、事実で

何かを忘れたいと願いながら、その忘れたいものをこれ以上ないほど必死に追い続けている。ひとはほんとうに滑稽で、浅ましくて、みじめで、どうしようもなく切実で、悲しいのだ。孤独はひとのもつ根源的なもので、それをなかったことにはできない。私は私の存在を引き受ける以上、その悲しみや喜びに対して真っ向に対峙せねばならない。それが本当の意味で私のいのちに覚悟を持つことなのだし、湧き上がってくる感情に対して沈黙することは私が私を軽んじることでもあると思う。

けれど、勘違いしてはいけない、私よ。それは自分に対してであり、他人に対してではない。あくまでも期待はしてはいけない。期待すればするほど他人に対して絶望することになる。私に何かを提供することもない人に対して、私は無償の気遣いをする必要などない。返信のない往復書簡を私はいつも投げ飛ばしていて、いい加減もう飽きた方がよいのだ。私に手を差し伸べてくれる人は少ない(それは気遣うとか心配するとかじゃなくて、文字通り、私に手を差し伸べることだ。私のプライベイトな領域に押し入り、「良いから眠ってなよ」と言ってくれる人のことだ。夜中に電話をかけて、「生きてる?」と聞いてくれる人のことであったり、サイゼリヤに誘ってくれる人のことだ)概ね、私が手を差し伸ばすと思っている。わかっているだろうか、私よ。私の腕は二本しかない。行き先を失った伝書鳩よ、そこで止まっていて良い。いつか迎えにいくから。

誰かが私を救い出すことなんてできない。私は私にしかしがみついていないし、私が嫌いなのは私自身で、それゆえに、私は私が救いあげてくれるのを待つしかない。必要なのは尊敬でも心配でも救済でもなく、ただあなたがあなたで居続けることだ。あなたがいつも通りの顔で「ご飯食べに行こうか」と誘ってくれること。それだけでいい。黙ってコーヒーを運んでくれば良いのだ、「わたしはロランス」のように。

髪の毛を伸ばしたからといって、ジェンダーレスだのなんだのとのたまう人がいるけれど、勝手にさせてほしい。私は誰かのために髪を伸ばすわけじゃない。日焼け止めも、爪のトップコートも、指輪も、誰かのためじゃない。私が私であっていいようにするためのおまじないに過ぎない。

12月になって、ようやく寒さが実感を持って迫ってくるようになった。冬の光がさんさんと降り込む駅のホームでかつての旅行のことを思い出したりする。ある駅からある駅までの所要時間が記されたメモと父の声と——それは確実に家族の様態と呼んでよいはずで、明確な幸福の輪郭を持っている——、私には家族の肖像は冬にしかない。透徹した空気のなかで、鼻の頭をつめたくさせながら人混みの中をすり抜けていく。商業施設やいくつもの生活に付随した嗜好品たちが赤や緑やぴかぴかした電飾たちを纏い、共有された高まりへ両手を広げているあの街で、私はいつも孤独なことを思い知る。

ココアの表面が木星に似ていてあなたの優しさを思い出したりする

君の匂いが残っているシートベルトを必死でにぎるどうか救われますように

ハイウェイラジオを飲み込みながら僕らの鯨はひそやかに交信中

わけもなくかなしい赤と緑の包囲網から絶対にきみを探り当ててみせるから

素直にクリスマスと言える日は来るのでしょうか私が私でありすぎるゆえ

ニューオーリンズへゆきましょう7年後のあなたが私を思い出すように

口内炎とカロリーメイトが親しいときわたしはいつもくじけそうで

私は誰かの記憶に残るために生きているわけではないけれど、私がかつて私であったがゆえに、誰かが救われて欲しいとは思う。私の必死さと孤独と惨めさによって、いつかどこかであなたが私のことを思い出すのならば、その時私は生き直すのだから。

祖母の葬式を思い出す。斎場に人が入り切らないほど参列者が並んでいて、いつかどこかで見たような人たちに頭を下げたこと。私の葬式を想像する。これは私にとってほとんど亡霊と言っていいような妄想で、その中で私は葬式の参列者たちをひとつひとつ探り当ててみるのだ。とりあえず来たと言わんばかりの仏頂面たち、かつての恩師、名前は知らない親戚……。この人と出会えてよかったと思える人たちがその中で何人いるだろうか。この人のために生きていてよかったと思える人たちが、何人いるだろうか。私がこっそり授業を抜けたとして、世間はふつうに回っていくのだろうし、私が1週間ほど海の底に潜ったとして、それで何かに支障が出るだろうか。大抵のことはすぐに忘れ去られて、その穴はすぐに埋められていく。私が私であることの条件など、他人にはないのだ。そのくせ、友情がどうの恋愛がどうのと見目麗しい言葉たちが横行していく。あなたのいう「友情」とは「知り合い」のことではないのか。そもそも友情とか知り合いとか他人とかを区別したところで、何が明確になるというのか。人と人は分かり合えないことを、破壊的互酬性がほとんどを占めることを、いい加減に理解しろよ、私。

重いだろうか。メンヘラとか揶揄されたとて何も文句は言えない。世界に対して、私に対して、真摯に向き合おうとすればするほど色んなものが重みを持つ。それぐらいの覚悟や精神を持って世界や自分に向き合おうともしない人が、何か作品を作れるだろうか。その作品が誰かを動かしうるだろうか。いわんや他人をや、であろう。なんだか取り止めのない文章になってしまった。後日推敲するとして、この辺で60分が経ってしまいそうなのでこのまま公開する。ではまた。

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