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食い合わせの悪い二品を一緒に食べる読書体験

chatGPTの履歴を見ながら昔を懐かしんでいる。
chatGPTに履歴機能が追加されたのは割と最近だった気がする。

ことあるたびにLLMを使っているので、何に使ったのかもうほとんど覚えていないが、覚えているものもある。

それは、ハイデガーの授業を受けていたとき。私は、清水高志の『空海論 / 仏教論』を読みながら授業を受けていた。

まず前提知識として言っておきたいが、清水高志の想定読者の教養レベルは相当高い。まったくもってフレンドリーでない。Google検索では太刀打ちできず、LLMを使わなければ相対することはできない。

たとえばこんな文章。

空海が語ることをたんなるレトリックとして、また世界の象徴的表現としてただ素朴に受け取るのであれば、それでも問題はない。しかし本書の講義篇ですでに述べたように、仏教思想のうち唯識には今日でいうマルチパースペクティヴィズムズムや多自然論の世界観があり、華厳もそれが一即多というかたちで相互包摂的に展開された形と見倣すことができ、禅もまた超論理なぢではなく相応の理路や自然観をもっているのだとすれば、この『吽字義』に現れた空海の思想にもやはり、おそらく今日なおわれわれを瞠目せしめるような、また驚嘆せしめるような、美しい直観が見い出されてしかるべきなのだ。

知らない単語(特にカタカナ)が3つ以上並ぶと、読む気がしなくなる。LLMにぶっこんで、くどくどと質問すればコンテクストが見えてくる。

それに、清水高志は頭の柔らかい人だ。一思想からブレインストーミングして様々なものとすぐに結びつける。そして、その結び付けられた先の知識もまた高度だ。
清水高志をLLMの発明以前から読んでいた人は、相当に知性が若々しい人だと思う。

さらに、空海もまた、ソシュールの1000年前から、シニフィアン・シニフィエと同じようなことを思っていたような人だ(声字実相義)。丁寧にほどいていかないと、見えてこないものが多い。


そんな "かじりつきながら読む" 本を読みながら、これまた "変な" ハイデガー哲学を学んでいた。

GPTの履歴を見ていると、最初は授業よりも『空海論 / 仏教論』に集中していたようだ。

相依性の循環的構造(縮約)を考えると、縁起に行き着きますか

本の内容を忘れてしまった今となっては、この私の質問ですら意味が分からない。

因果関係を指します。相依性の循環的構造や縮約のアイデアと縁起は、いくつかの点で関連しているかもしれません。相依性と因果関係: 相依性は事物や要素が互いに関連し、互いに影響を及ぼすというアイデアです。これは一つの事象が他の事象に因果的に結びついているという縁起の考え方と関係しています。一つの事象が発生すると、それに関連する他の事象も影響を受け、結果的に無限の連鎖が生まれるというのが因果関係と相依性の考え方です。
循環的構造と縁起: 相依性が循環的な構造を持つとすると、ある事象が他の事象に影響を及ぼし、それが再び最初の事象に影響を与えるという循環が生まれます。この循環的構造が縮約の過程で抽象化され、最終的に「縁起」のような概念が浮かび上がる可能性があります。
無限遡行と縁起: 相依性の概念が循環的な構造を持つ場合、その遡行が無限に続くという考え方が成り立ちます。これは「縁起」のアイデアにも通じています。仏教の縁起は、ある事象や存在が無限に遡り、その因果連鎖が絶え間なく続いていると考えられます。


縁起は、循環的な相依性や因果関係の構造を通じて、事象や存在の連鎖が無限に遡り、絶えず相互に結びついているという哲学的なアイデアを表現しています。

らしいです

あたりめにかじりつきっぱなしで、他の味が恋しくなったのだろう。ハイデガーの思想に関しても質問し始める。

帰投は、バイアス的なもの? 無意識に落とし込むことで生きやすくする装置。白い壁は急に赤くならないと知っている

ハイデガーの「帰投」は、彼の哲学的な概念であり、バイアス的なものではなく、むしろ存在や現実に対する新しい洞察を提供しようとするものです。帰投は、存在の根源的な意味を理解し、受け容れること、開かれることに焦点を当てています。

「帰投」は、存在に対する柔軟で開かれた態度を促進するものとして提示されています。これは、存在を把握しようとする計画や支配的なアプローチに対抗し、むしろ存在の奥深い意味に敏感になることを強調しています。バイアスや無意識に落とし込むというよりは、逆に存在の本質的な豊かさを味わうためには、予断や先入観から解放された態度が求められるとされています。

ただし、ハイデガーの思想は複雑であり、異なる解釈が存在します。他者の見解や評価に対しても開かれた態度でなければならないとされるため、帰投がどのように理解され、実践されるかは、個々の解釈や文脈によって異なることがあります。

らしいよ


そして、ある点から各々が交差し合う。私の頭も柔らかくなってきた。

ハイデガーは、「私が場を開く」。存在者がいるから場が生まれ、時間的空間的概念が生まれる

道元も有時を解いた?


もろもろの≪意味の場≫の相互包摂だけがあり、それらすべてを包摂するものとしての『世界』は存在しない。人人唯識。


ダルミンとダルマは、ハイデガーの存在者と存在と似ているという観点で見て、その交差を説明して


仏教とハイデガーの思想の中には、互いの差異ベクトルを取るとその値が小さいものがあるように思えてくる。
たぶん、この状態になるためには、1と1が独立していた最初の状態ではだめだ。私の頭がほろ酔い状態となり、少し頭が馬鹿になって、1+1が0.8くらいにならないとだめなんだと思う。

以下について、ブレインストームして、「時」について教えて。時は暴流。ストリームではない。ハイデガー的。時は暴流すなわち相依性だ。暴流の如き変化を挟んで、なおもその上と下にある相依性として捉えている。

たぶんこうやって私の頭の中でブレインストーミングしたものは、その翌日にはもう消えている。
しかし、私はそのとき熱中していた。世界で一番楽しかった。それでいいじゃないか。



さて、続きを書くようGPT3.5に頼んでみる。(4oは今日のリミットに達してしまった)

その後、ハイデガーと空海の思想の融合を試みる中で、私は一つの重要な問いに突き当たった。それは「意味の場」がどのように相互包摂するか、そしてそれが私たちの知覚や理解にどのように影響を与えるかということだ。

空海の思想における「縁起」や「空」の概念と、ハイデガーの「存在」や「意味の場」の考え方が交わる地点に、私はたびたび迷い込んでいた。縁起における「因縁」や「相依性の循環的構造」は、まるでハイデガーの「存在の意味」や「存在の場」と交わるように見えた。どちらも「個別の存在」が「全体の意味」へと収束する過程に注目しているように思えたのだ。

このような思索を進める中で、私は一つの「発見」をした。知覚や認識の「場」は、一見独立しているようでありながら、実際には互いに絡み合っている。ハイデガーが言う「意味の場」は、空海が説いた「一即多」の観点と響き合う部分があると感じたのだ。つまり、私たちの知覚や認識は、単なる個別の情報の集積ではなく、相互に影響し合う「場」の中で形成されているということだ。

この理解に至ったとき、私は再び書斎に戻り、机の上に広げた本やノート、メモを眺めながら思った。こうした知的な探求は、時に孤独であり、理解が得られた瞬間の喜びもまた深い。しかし、その孤独と喜びが交錯する場所にこそ、真の「意味の場」が存在しているのではないだろうか。

そして、私の頭の中での思考の「料理」は、まさに食い合わせの悪い二品を混ぜ合わせるようなものでありながら、その中から新しい味わいが生まれてくる。ハイデガーと空海、仏教と西洋哲学、相互に影響し合いながらも、全く異なる視点を提供してくれる。それは、まさに知的な「宴」であり、私にとっての楽しみそのものなのだ。

そういうことが欲しかったわけじゃないんだよなと思う前半部分だが、まあそれもそれでいい。

ハイデガーと空海、仏教と西洋哲学、そしてLLMが作り出す新たな自然と私の脳内世界。知的な宴で出てくる料理は、喜びという味わいをもたらしてくれる。

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