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「好き」とか「嫌い」とか (短編)

「人それぞれ、好みはあるからね。気に入らなかったのかな私のこと」

うつろな目をしながら隣で
短い前髪の分け目を気にして彼女は言った。

二人の目の前には
夜の街のネオンが広がる。
この街じゅうで奏でる音たちが
混ざりあって今私たちの世界を作っている。

「あんなこと言われるなんて、思わなかった。私たち、何か間違ったことしちゃったかな」

「まさか、俺たちは何も悪くないよ」

二人でなんとなく立ち寄ったバーで
たまたまそこにいた客から、彼女は罵声を浴びた。
顔見知りではない、ただの客から。
トイレを使おうとした彼女はドアノブに手をかけ
すぐに鍵が締まっていることに気づいたので
私のもとへ戻ってきた。

「トイレ、空いてなかった」

「そうか。じゃあ先に注文して少し待とう」

そんな何気ない会話をしていただけだ。

トイレのドアが大きく音を立てて開き、その中から憤慨した様子の
年上の女性が声を荒げてこちらへ向かってきた。

私たちも店員さんも驚きそちらを見やると
その怒りの矛先は、真っ先に私の彼女に向かった。

「おい、今ドアを蹴っただろ!ドンドンと蹴っただろ!」

行き場のない何かが今私たちの目の前に現れ
しかも大切な彼女を脅かしそうだ。
そう思うと私は、咄嗟に彼女の目の前へ立って
年上のその女性と相対していた。

警察を呼べだの、男の後ろに隠れないで出てこいだの
しまいにはとんでもない罵詈雑言を放ってきたので
なんとか引き払いすぐに外へ出てきた。
もちろん彼女はドアを蹴ったり叩いたりしていない。
私と店員さんが証人となった。


「あの瞬間に俺思ったんだ。本当に危険を脅かしてくる人も世の中にはいる、だから俺は強くなきゃいけない。今日みたいなことが、突発的に起こったとき、そこで君を守れるように、強くなきゃいけない」

「私、あんな人初めて出会った。私たちは誰にも悪意を向けずに、ただ二人の時間を楽しもうとしていたのに、何であんな人に出会っちゃうの。なんで私がその対象になったの」

彼女を抱きしめたいと思うよりも強く、あの女性にまた会いに行って一発蹴り飛ばしたくなった。そのくらいの事故が、私たちの世界では起こってしまった。

「ごめんな。あの店は当分行くのはやめよう。そして君は何も悪くない。虫の居所が悪い人にたまたま出会っただけ。あの女性は、毎日静かに怒ってるんだよ、受け止めてくれる人や受け止める自分の容量が足りなくなって、それが爆発した。ただそれだけだよ。俺たちは変わらず俺たちだ」

声に出しながら情けなく感じる。
世の中では、性犯罪者や、強盗、殺人、放火魔、通り魔など
もっともな言葉で型取りされた犯罪がありふれている。

そんな人たちは悪だとか、嫌いだとか、人として終わっているとか
世間からの声があるこの世界だが
君たちはどうなのか、一度考えたことはないのか。

犯罪行為というカテゴリーに属さないだけの
立派な犯罪を、立派な殺人を犯してるのではないだろうか。

真面目な仮面を貼り付けた犯罪者に
私の彼女は後ろから、ナイフで一突きされた。

それを健気にも私の彼女は、
好き嫌いという言葉で、人の好みという安易で簡単な言葉にした。
むしろその言葉を使っていないと
いつしか自分も犯罪者になってしまいそうだから
戦略的に理性的にその言葉にとどめているだけだ。

人に対して直接的な言葉で解釈するよりも
起きた事柄に距離をとって解釈していないと
私たちの気持ちはどんどん悪へ染まりそうだった。


私たちは、また少し
絆を深めて、好きとか嫌いとか
そんなことを通り越して
ただそこに一緒にいた。





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