見出し画像

女性研究者のロールモデルがいなくて、どうしていいかわからなかった 神戸大学 佐藤 春実 先生

お二人目もインタビュアーの先生だった佐藤先生にお話しをお聞きしてきました。

高分子の構造と物性を知る振動分光法

— 僕は卒業生なので知ってるところがあるんですけど、どんな研究をされてるか改めてお聞かせください。

佐藤先生:振動分光法(光と物質との相互作用によって生じる光の強度やエネルギーの変化を調べる方法)を用いた高分子の構造と物性に関する研究をしています。

— 今、色んな高分子を研究されているんですか?僕らのときは、生分解性高分子がほとんどだったじゃないですか。

佐藤先生:今は生分解性高分子以外に汎用プラスチック、エンジニアリングプラスチックも研究対象としていて、ゲルも取り組んでいます。高分子ブレンドも研究していて、ちょっと幅が広くなったかな?

— なぜ幅を広げたんですか?学生が増えたからですか?

佐藤先生:学生も増えたし、社会的ニーズもあります。もちろん生分解というのは1つのターゲットなんだけど、神戸大学では環境というキーワードを掲げた環境共生学科もあるくらい、環境問題に取り組んでいます。生分解じゃない普通のプラスチックも、環境のことを考えると、これからは調べていく必要があるのかな、と。 

小さい頃から研究者になりたいと思っていた

— 研究を続ける1番の魅力は何ですか?何がそこまで魅力なのでしょうか。僕は研究も面白かったけれど、研究が人生を通してやることかどうか考えたときに、研究外という選択肢を選んだので。。。
 
佐藤先生:分野としての魅力は、単純で難しいところです。高分子はすごく複雑系なので、奥深く難しいところがある一方で、実は数式なんかで表すとものすごくシンプルになるというような、難しいようで簡単で、簡単なようで難しいというところに魅力を感じています。実際には難しいんだけど(笑)それでいてすごく身近にある材料。高分子を使ってない人はいないはずです。私たちの生活には切っても切れない材料なのに、まだ明らかになっていないことも多いんです。
 
研究者という仕事そのものについては、私は小さい頃から研究者になりたいと思っていたので、研究者以外の選択肢をあまり考えたことがないです。好きなことが仕事なので、楽しんで仕事をしてます(笑)選択肢として他のことは考えてない(笑) 

修士卒で企業研究者になるつもりが、いつの間にか博士課程に

— 今の研究になった理由は何かあるんですか?

佐藤先生:もともと入学した学部が工学部で、高分子のことを学ぶ学科だったので、大学入学後に扱うのは全部高分子。大学に入るまで、高分子にはあまり興味がなかったけど、物理で受験できる化学の学科でたまたま入学したところが、高分子専攻でした。
 
学んでみると面白かったので、そのまま大学院博士課程まで進んで高分子の研究を続けることになりました。ずっと同じ大学で博士課程まで進みました。大学に入るときは修士課程までしか考えてなくて、博士過程に進むつもりはなかったです。当時は修士課程を卒業したら企業の研究者になるつもりでいたけど。。。研究しているうちに面白くなったので、そのまま博士課程にまで進んでしまいました(笑)

— 神戸大学は何個目になるんですか?源先生は9年半くらいポスドクをやってたとおっしゃってました。

佐藤先生:ポスドクはトータル15年してました。大学を出てから最初のポスドクが1年半くらいで、その後関学(関西学院大学)で13年半で、トータル15年。

当時、ポスドク制度が浸透してきた頃だった

— ポスドクのキャリアは、プロジェクトに雇われていた立場から、プロジェクトをつくる側として同じ研究室に残るか、違う大学や研究室のプロジェクトに雇われるか、だと思うのですが、なぜそんなに関学が長いのですか?

佐藤先生:関学の中でプロジェクトを渡り歩いていました。関学で初めて振動分光法を使用し始めたので、最初の5年はとにかく必死で研究をしていました。それまでは、高分子の溶液物性系という違う分野で、その後、レオロジーの研究室のポスドクを1年半していました。そこから少しブランクがあって関学の尾崎研究室に入ったので、最初の5年はとにかく装置に慣れ、測定に慣れ、解析をできるように一人前になることに苦労しました。やっぱり初めてのことばっかりだったので時間がかかり、、、ついていくだけで精一杯でした。仕事を探すというよりも、そこで修行するつもりでいました。
 
その後、少しずつ学会に出たり、余裕が出てくると赤外だけじゃなくて、ラマン、近赤外など、いろいろ学びながら次のポジションを探すというようなことを意識し始めました。7、8年たった頃に周りからそろそろ探したらみたいな雰囲気が出て、、、ですが、「5年で出なさい」みたいなのは言われませんでした。
 
私がポスドクになった当時は、日本でポスドクの制度がちょっとずつ浸透してきた頃で、あまり人がいなかったはずです。それまでは、ポスドクといえば、海外に出て3年程して帰ってくるようなパターンがほとんどでした。

関学は研究室に先生1人の体制で、当時でいう助手もいないし、助教授もいない、他のスタッフとしてはポスドクだけでした。なので、ポスドクがいると研究室のアクティビティとしては上がるんです。誰か1人ポスドクが来ると、「人が人を呼んで、みんなで仕事するからどんどん仕事ができて、それで論文書いてお金とってきて、さらにまた人が呼べる」みたいな良いサイクルが回りつつある頃でした。
 
5年くらいすると、日本人のポスドクが5、6人いたので、すごく活気があっていろんなプロジェクトを先生が抱えていました。ちょっとずつプロジェクトを変わって研究を続けることができる状況を先生がつくってくれたので、何かしらプロジェクトに関わりながら研究を続けることができました。
 
子育て中だったので日本全国どこにでも行くということが難しくて。。。息子が1歳ちょっとで関学の尾崎研究室に入ったので、最初の5年くらい息子は保育園でした。次、小学校になるタイミングで、働くのを関東にするか、関西にするか悩みましたが、私としては関西、神戸・大阪・京都とかに残りたかったんです。。。。 

地域限定で研究職を探すことの難しさ

— それはまたなぜですか?先生出身静岡ですよね?

佐藤先生:出身は静岡なんだけど、主人も当時は関西勤務で関西で家買っちゃったの。子どもも慣れてきてたし。。。私もポスドクを始めてやっと慣れてきて、新しい分野で研究が面白くなってきたところで、主人が東京に行っちゃった。。。しばらく動かないということで、私も関西で仕事を始めたし、家を神戸に構えて落ち着こうと思ったら、すぐに東京行ってしまった(笑)

東京に一緒に行くかどうか迷ったけど、せっかく研究が上手く軌道に乗ってきたところだったので、そのまま続けたいっていう方が強かったです。結局、主人には単身赴任で東京にいってもらって、そのまま関学の尾崎研究室でポスドクをしていました。
 
それを続けているうちに、子どもが中学受験することになって、折角入った学校を転校できないから、次のポジションは関西圏で探すこととなったんです。私の仕事は関西で探すと決めて、、、なんとか神戸大学にたどり着きました。
 
なかなかタイミングが難しくて、保育園とか小学校の低学年くらいの時期に異動しちゃえばよかったんだけど、自分の研究が中途半端な時だったので、継続の方をとってしまっただけに、動けなくなっちゃって。。。(笑)

最初は息子に全寮制の学校に行ってもらおうかなとも思ったけど、息子本人が絶対嫌と言うから(笑)家族のギリギリの選択として、旦那は単身で東京、私は関西で息子と一緒に住んで仕事も関西でやりながら探すことを選びました(笑)
 
地域限定で仕事探すことはやっぱり難しくて、そのために、ちょっと時間がかかりました。関東の方が、仕事の数も多いから関東にしたらと言われたけど、子育てとバランスをとりながら探し続けて、神戸大学にポジションが見つかってよかったです。2時間くらいかけて通えるとして、岡山とか滋賀、京都も探したけど、やっぱり地域限定は本当に難しくて。。。すごく近い大学に決まって結果的にはよかったんだけど、その分ポスドクは長くしてました(笑)

研究をできないことが一番つらかった

— 子育てとのバランスや関西の研究所、大学の少なさ、大変だったことはたくさんあられると思うのですが、一番大変だったことは何ですか?

佐藤先生:1番大変だったのは出産と子育てを機に仕事ができなくなったことかな。それがとにかく辛かったです。その後、ポスドクができるようになって、肉体的には大変だったけど、精神的には全然大変じゃなくて、すごく楽しかったです。子育て中は出張とかあると調整や準備が大変だったけど、研究のできる方が私にとってストレスがないことでした。


— そうだったんですね。どうやって研究できないときに気持ち落ち着けてたんですか?

佐藤先生:いつかは研究の世界に戻るという思いだけで気持ちをつないでいました。子どもが生まれてすぐは難しいから、保育園などに預けて仕事ができるようになったら研究に戻りたいなと思っていました。

だけど、あまりブランクが空いてもダメだから、できるだけ早くと思って、探し始めたのが、息子が10ヶ月くらいの時。1歳くらいから預けて働けたらいいなと思っていました。10ヶ月くらいの時に関学の尾崎研究室のホームページを見て、その当時たまたま上ヶ原に住んでいて歩いていけるところに関学あって。。。
研究室のホームページを見たら面白そうだし、ポスドクも何人かいたので、「研究室で雇ってもらえませんか」と、メールを送りました(笑)いきなり(笑)

女性研究者を応援する先生との出会い

尾崎先生とは面識もなかったんだけど、尾崎先生が丁寧なメールを返してくれて、とにかく研究室に見学に来なさいということで、息子を抱っこして研究室を訪問しました。結局、そのメールがきっかけで4月から行くことに。。。(笑)
 
その当時、関学の理学部で研究室のホームページがあるところは、まだ数個しかなくて選択肢は少なかったです。だけど、尾崎研究室だったら面白そうだし、私が今までしてきた研究もできるかなと思って先生にメールを書きました。自分でもよく書いたなと思うけど(笑)
関西で知っている先生もあまりいなし、あの頃は他に手段がなかったし、家から近かったし、とりあえずメール書こう、という感じでした(笑)
 
そうしたらすごい丁寧なメールが来て、びっくりしました。尾崎先生はお嬢様がいらっしゃって、「女性の研究者を応援しなきゃいけない」という思いがあったようです。

当時最初は、私の他に3人ママさんポスドクがいて、みんな外国人の方でした。全員自国に子どもを残してきていて、数ヶ月から1年の単位で日本の研究室にポスドクとして研究していました。大きいお子さんもいれば小さいお子さんもいて、状況も色々だったけど、「ママさんでも研究できる」というのがカルチャーショックでした(笑)

それまで私がいた分野では考えられないことだったので、すごいびっくりしたと同時に安心したというか。できるんだやっぱり!みたいな。。。
なかなか先輩で子どもがいて研究してる人が少なかった時代なので、自分にできるのかという不安がありました。自分ではできると思っていても、本当にできるのかというのはすごい不安でしたね。。。

20年以上前の当時、女性の研究者はすごく少なくって、理系が特に少ないし、いわゆる管理職に就く女性の数は、企業も含めて少なかったんです。増えたとは言え今も少ない。なので、なんとかもうちょっと増やして頑張らないといけないなと思っています。1つはロールモデルをつくること。例えば高校生とか大学の理系に進学した学生が将来を考える時に、女性研究者のロールモデルがないと選択肢に入ってこないですよね。なので、ちょっとずつちょっとずつ増やしていくしかないと思っています。

やっぱり課題がまだ多く残っている業界ではありますね。私はそういう意味ではすごく運がよかったんですが、、、みんながみんなラッキーなわけじゃないから、難しいところではあるかな。分野にもよると思いますが。。。

— 分野にもよるというのは?

佐藤先生:例えば生物系とか、化学系はまだ女性が多いけど、物理だとか機械とか建築だと少ない。やっぱり分野によって女性の比率が高いところと低いところがまだ結構あるんです。工学部に女性が増えてきたと言っても、生物系に近い分野は多いけど、他はほとんどいない、みたいな。なので、全体的に増えているかと言われると、そうかな?と疑問を感じます(笑)

社会の役に立つ研究を展開したい

— ロールモデルを増やすとか、佐藤先生自身がロールモデルになる、みたいなところがこれから挑戦していきたいことですか?

佐藤先生:これから挑戦したいこと…うーん。自分がロールモデルとして後輩の女性研究者がそう思ってくれたら、本当に嬉しいですし、そうなるように頑張りたいなと思います。それとはまた別に、せっかく高分子をずっと研究してきたので、もう少し社会に役に立つような研究も展開していきたいなと思っています。

— 源先生は社会に役に立つ立たないではなく、自分が面白いと思うものをやり続けろみたいな感じでしたね(笑)逆に、環境DNAは社会の人が求めてくれているからびっくりしているとおっしゃっていました。

佐藤先生:そうね。そうだろうね。私も学生の時は、社会に役立つかは考えていなくて、自分がやりたいことやりたいと思っていたけど、だんだん社会に役に立つようなこともしたいと思うようになりました。今までは基礎研究に自分の興味があったので、基礎研究ばかりしていたけど、そろそろ社会に何か返すことができたらいいなと思ってます。好きなことやってるといえば、やってるんだけど(笑)

— 人生やり直しても研究者の道を選びますか?

佐藤先生:絶対研究したい!

— 僕これなぜ聞いたんでしょう。。。聞いたら絶対みんな「うん」と言うのに。。。

佐藤先生:絶対「うん」と言うと思う!嫌な人いるのかな?(笑)やり直しても研究者の道を選ぶと思う!

本質を見る、視野を広げる

— 最後に、若手研究者にメッセージはありますか?

佐藤先生:皆さん研究がすごく好きで、「研究がやりたい」とこの世界に入ってきていると思います。当時、指導教員を研究者としてすごく尊敬していて、私が同じステージまでいけるのか不安を抱きながら博士課程に進学したとき、指導教員にこう言われていました。「とにかく物の本質を見る目を養いなさい」。この言葉をすごく強く、何度も言っていただいて、私の研究する根本にこの言葉がいつも残っています。

そのため、実験や研究を進めていくときに、「その本質は何なのか」を常に考えながら取り組んでいます。今の若手の研究者の方たちもそういうポリシーや根底にあるもの、大切にしているものを貫いて頑張ってもらいたいなと思います。
 
もう1つは、1つの分野だけでなく色々な見方があって、様々な分野があるので、是非違う世界に飛び込んでほしいです。視野が広がって研究の幅が広がると思います。私の場合は無理矢理広がっちゃったんだけど(笑)

尾崎研究室に入った選択がターニングポイントでした。当時はその選択しかなかったから、何も考えずに飛び込んじゃったけど、自分の中では研究分野も変わったし、実験方法も変わったり、大きく転換する時期だったのかなと、後から考えて思うんです。何かそういうきっかけがどこかでくると思います。
 
ずっと同じ分野でいると、変わることは一からやり直すようでマイナスに思えるかもしれないけど、研究分野が変わったり、違うことをするのはマイナスじゃなくてプラス。是非、どんどん視野を広げて、経験をたくさん積んで、幅広い知識を持った研究者になってもらいたいと思います。

そうすると自ずと世界と繋がっていきます。世界の研究者と交流する機会が増えて、自分の研究が世界のどのレベルぐらいなのか、わかってくると思います。ぜひトップを目指してください。


佐藤先生ありがとうございました。

キラキラした部分だけじゃない、先輩研究者の皆様の不安だったこと、悩んだこと、どうやって乗り越えたかをどんどん発信していきます。
次回もお楽しみにしていてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?