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自分の安心を買うために被害者を売る人

 なにがしかの犯罪被害に遭うと、その被害者を責める人が一定います。
 最近はそれが、不安の裏返しなんだということを理解しています。
 被害者に落ち度がないのに酷い目に遭ってしまうというなら、自分もそういう目に遭う可能性が出てくるわけです。
 そりゃ必死で被害者の落ち度を探しますよね。

 でも被害者を責める人はそのことをまったく自覚していない。
 なんなら自分のように生きればそんなことにはならなかったのに、というこちらからしたら全く需要も根拠もない「お手本」を示してくる。  
 最近やられたばかりです。


 グッドウィルハンティング という映画が好きで、時々見返してみたくなります。
 主演がロビン・ウィリアムスとマット・デイモンという最高の2人。
 この映画(はあまりにも有名だとは思うけど)の中で、過去に虐待を受けたウィルにショーンが何度も「君は悪くない」と言い聞かせるシーンが出てきます。

 多くの虐待経験者の記録、性犯罪被害者のメッセージの中にも、「私が悪い子だったから」「私があんな選択をしたから」と自分を責める言葉はいくつも出てくるし、わとりだってそう思わなければ生きてこられませんでした。
 自分は悪くないのにそんな目に遭うのだとしたら、これから先生きていく時もまた同じ目に遭わされるということだから。
 
 だから例えば嘘をつくのは悪だ、人には親切にしなければ、誰にでも公平に接しよう、正しいことをしよう、と努めてきました。自分が生きやすい方法を探るのではなく、周囲に加害されないよう絶えず気を付けて生きること、もっと言えば周囲の目を気にして生きることにどれくらいエネルギーを浪費してきたか分からない。だけどそれで自分の安心が買えると思い込んでいました。

 実際のところ、嘘をつかないことが誰かの恨みを買ったり、融通が利かないと仲間外れにされることもあり、親切にした結果「こいつは俺に気がある」と誤解を招いたりそんなつもりではないと言って逆切れされたりなど平穏とは言い難い日々を送る羽目になっていましたが、「正しいことをしていれば安全」というおまじないを信じるしかない間はそれを手放せなかったです。
 


 事件カウンセリングを受けて過去を整理するにつれ、カウンセラーは何度も「あなたに落ち度はない」とわとりに言い聞かせてくれました。それを言葉通りに受け取って消化するのにも数年かかりましたが、わとりを虐待した親は親自身の問題によってわとりを加害したし、その体験によって以後の事件も引き起こされたのだということが分かって少しは楽になりました。
 (いや、本当に少しですよ。相変わらず苦難には満ち満ちております。)


 アルバイトをしている店のレジにお金があっても、それを盗んだりはしない。鍵のかかっていない自転車があっても、自分のものでなければ乗り去ったりしない。鍵がかかってなくても人の家に勝手に入らない。人を騙してお金を儲けない。人に暴力を振るわない。意識のない相手と性交しない。

 それが少なくともわとりが「生きたい世界」の姿であるのに、被害者を責める人は加害することや盗む人がいることを許す立場に立ってモノ申してくる。上の内容を彼らは許容するつもりなのか。
 世紀末(ヒャッハー)思考なの?
 
 この世を無秩序と暴力の世界にしたいのかな?サバンナやジャングルの野生世界に引っ越してみてはどうかと思う。
 
 盗むやつが悪いし、だますやつが悪い。暴力振るうやつは最低だしレイプする人間は滅亡してほしい。
 


 正しいこと(とはなんだ)をしていても、事件や事故には遭う。
 そういう世界だと理解することと、それを許すことは別なんだ。


 悲しくもそんな事件事故が起こった時、再びそんなことが起きないように手を打つのが人間社会にできることであって、起こった責任を被害者に背負わせたって事件事故は減らない。
 車に接近アラートがついたり自動ブレーキがついたのは「手を打つ」方向の動きであって、事故を起こした人の免許を取り上げても別な誰かが同じような事故を起こすのでは。

 どの点に手を入れれば解決に近づくのか。
 わとりがどんなに自らの業について天に祈っても、性暴力の被害に遭う人は減らない。
 私を友達と呼ぼうとしてくれたHさんには、そのことを本当に理解してほしい。

 わとりを責めることで自分の安全を確かめようとするあなたを、わとりは友達とは呼ばない。

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