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第15回目 英霊の依頼 ビルマとタイとの国境 メーソット

期間:2023年8月13日~20日

1:合流出来なかった者たち

心に気がかりになっていた兵隊さんたちがいました。英霊の依頼14回目でカンチャナブリで無事、依頼してきた日本の兵隊さんたちと合流し、日本へ連れて帰ることが出来たのですが、その帰り道中、ドライバーのSさんの突然の話によってメーソットというミャンマーとタイとの国境へ立ち寄ることになった。が、私は、新たな別の日本兵の気配をすぐ傍に感じながらも、合流することが出来なかった。致し方なく、14回目の英霊の依頼では、何かがあって、連れて帰れないのだと自分に言い聞かせるように合流出来なかった兵隊さんたちへの意識を閉じることにした。

2023年6月 合流出来ず

その時の記憶:メーソットで感じた帰国が叶うと喜んでいた兵隊たちは、自分たちの場所を教えるがごとく、私の意識を誘導し、国境まで私を呼び寄せたが、いつものように合流出来なく、戸惑っていました。最終的に理由がわからず、諦めることとした。私が国境を越えられない為?どうしても理由がわからず、霊能者に、新たな兵隊さんたちの存在の確認をする為、相談のメッセージを送ったが、返信が帰ってきたのは、その場所を離れて随分経った後でした。霊能者さんは(その場所に)居たと思うよと返信くれましたが、いつもと違う状況に私は、なす術が無く意気消沈した。

が、今回、お盆休みを利用して2か月も経過しない内にタイ王国チェンマイへ行くことになった。そして、出来れば、今一度、メーソットへ行き、先日、合流出来なかった兵隊さんたちと問題解決し、日本へ帰るお手伝いが出来ればと思った。

私は同じ失敗を繰り返さない為に、霊能者しゅうさんと呼ばれている方に相談することにした。すると、依頼に来る代表者にミャンマーからタイ側に移動をお願いしたらどうだというアドバイスを頂くことになった。

2023年 8月8日 早朝

私は代表者と連絡が取れたので、提案をした。『私は、ミャンマーに行くことは出来ない。だから、タイ側に移動してくれないか?そしたら、合流出来、日本へ一緒に帰ることが出来るから』すると、兵隊さんの代表者は了解をしてくれました。

この時点で、先日、兵隊さんと合流出来なかった理由を、私がミャンマー側に行けなかったことと思うようになっていた。きっと、それが原因なんだろう。

そして、8月13日に向けて、私は15回目の英霊の依頼として、盆休みのタイ王国渡航の準備を進めることにした。

ネットで航空券を調べると、盆休みにも関わらず、8月13日と8月20日が航空券も安く、行きやすかったので、この日程でタイ王国チェンマイへ行くことにした。


2:息子 突然の参加

盆休みということもあり、息子に一緒に行くかどうか打診をしていましたが、学生生活が忙しいと断られていました。大学は休みでも、プロジェクトがあって、グループワークで打合せが休みの間もあるということでした。ですので、息子はタイ王国チェンマイには行かないと断ってきました。

すると、突然、息子から渡航日程を聞いてきたので、様子がおかしいと思っていたら、気が変わり、一緒にタイ王国チェンマイに同行する旨を伝えてきた。『珍しいな』というのが私の直感でした。とにかく、私は、それを了承し、同じ飛行機を予約することとなった。

私的には、最近、縁遠くなっていた息子と一緒に時間を過ごせることに喜んでいました。普段、会話は妻としているかもしれないが、私とはめっきり無かった。男親とはそういうものなんだろうなと思いながらも、なんとなく寂しい気もしていた。ですので、渡航道中、話す機会が出来るので、楽しみにしていた。


3:8月13日 直行便でタイ王国チェンマイへ旅立つ

最寄りの関西空港からは、タイ王国チェンマイまで直行便が出来、5時間半のフライトで行けるようになった。過去、関西空港からバンコクに行って、乗り換えしてチェンマイ入りをしていたことを考えると、半分の時間で行けるようになり、ドアツードアのように感じるぐらいの身近さになった。まさか、こんな航空ルートが出来るなんてと、コロナ明けの驚きの海外渡航へのスタートとなった。冗談で、まさか英霊の依頼の為の便利なルートが建設された?と思ってしまうほどのタイ王国チェンマイへのアクセスルートでした。おこがましいかな?でも、新しいルートのタイミングはほんとに良かった。

ベトジェット 関空からタイ王国チェンマイへの直行便 5時間半のフライト

8月11日 大阪の我が家に帰宅した息子と共に、旅の準備を整え終えた我々は、8月13日朝3時起きして、朝いちばんの電車に乗って、関西空港まで出向き、5時間半の飛行時間でタイ王国チェンマイに移動しました。その間、息子の大学生活の様子を聞けることとなり、私が過ごした学生生活との違いを聞いて、安堵しました。私は、大学に行ったが、あまり良い学生とは言えず、アルバイトに精を出し、授業をあまり受けてい無かったからでした。とはいえ、まだまだ息子もこれからだろうし、将来に向けていい経験・体験をたくさんしていって欲しいと思いました。出来る子は大学に行かなくても、それ以上に世で活躍しているもんだしね。


4:タイ王国チェンマイ入り

今回は、携帯電話のキャリアをahamoに切り替えしていたので、海外でも20GBのデータ通信が出来るので、空港で海外旅行者用のsimカードを購入する必要もなく、そのまま携帯を使うことが出来ました。ほんと便利になりました。

空港に着き、妻と合流。ドライバーSさんとその奥さんが一緒にお迎えに来てくれていました。どうもカンチャナブリへ行った際に、親密感を一層抱いてくれているようで、なんとなく、北海道のFさんのおかげでもあるような気がしました。うまく、手配されているなと感じました。

チェンマイにある自宅へ到着。荷物を下し、近所のレストランで、タイらーめんを頂きました。その後、ショッピングセンターで、こちらで使う草履を買ったり、
シャンプー、スリッパ、水、食べ物、他、生活する上で必要な雑貨を購入しました。

その夜は、我々家族とドライバーSさんの奥さん、息子さんとホテル屋上で、チェンマイの夜景を見ながら、観光客のように軽い食事をしました。息子が絡むと、旅の雰囲気というか内容がガラリと変わるもんだなと思いました。私は、こういう時間は、あまり好まないので、妻にとっては、つまらない男なのだと思います。しかし、ここ数年、妻との関係、家族との関係がギクシャクしているので、今回は、覚悟を決めて、家族の時間を楽しむことにしました。ここで、家族の体制を立て直さないと、空中分解するなと感じていましたので。もし、家族関係が崩壊すると、英霊の依頼活動においても、大きな障害になりえるかもしれないなと感じていたからでした。が、誤解が無いようにしたいのは、英霊の依頼の為だけではなく、家族も大切にしないという思いがあったからでした。家族ゆえの悩みもたくさんあるが、これがないと人生頑張れないと思う自分もありますので。


5:8月14日 妻の実家のある町で時間を過ごす

妻の実家へ行き、義母に会いに行きました。息子の育ての親である義母は、息子に会いたくてしかたなかったので、連れていくことに。義父が他界してからは初めての帰省で、孫の姿を見て、義母は元気になっていました。しばらく、実家でゆっくりしていましたが、ドライバーSさんの運転で山に住む親戚の家に届け物をしにいくことになった。知らなかったが我が家の親類にカレン族がいたので、驚きました。竹で作られた建物を見て回ったりしながら、時間を過ごしました。


6:チェンマイでの慰霊祭で出会った日本の研究生

チェンマイ市内にあるムーンサーン寺での慰霊祭に参加したくて、運営スタッフである友岡氏に時間を確認すると、9時半からということでした。ということで、妻に9時に開催されるから、急いで行こうと話していたのですが、結局、実家での所用でうまく出発出来ず、ムーンサーン寺に到着したのが、11時過ぎでした。  


そこで慰霊祭を運営されている友岡氏と1か月半ぶりの再会を果たし、ご挨拶をした。会場のことでお忙しくされていたので、ほどほどに言葉を交わし、手を合わさせて頂きました。すると、慰霊祭運営サイドにいた若い女性が、友岡氏の計らいで、慰霊祭の説明に来てくださり、資料館についての知らない情報を付け加えて下さりました。彼女は、チェンマイに来てまだそれほど月日が経っておらず、こちらでお手伝いをしていて、学生さんだと聞きました。そのあとは、一度、離れたのですが、息子を連れて、戦争資料館の中を歩いていると、友岡氏が再度、その若い女性を連れて、ご紹介してくれました。彼女はインパール作戦戦史に焦点を当てて、北部チェンマイでの戦史について御研究されているようでした。繋いで下さったご縁で、双方、自身を紹介することとなり、私は、英霊の依頼という活動について掻い摘んでお話させて頂きました。すると、彼女にとっては新たな視点だったようで、戦史とは違ったインパール作戦戦史におけるアプローチを知ったようでたいへんご興味を持たれたようでした。私とはFACEBOOKを通して、連絡交換をしました。彼女は2日後、クンユアム(ミャンマー側との国境に近い日本兵所縁の場所)へ行くという話でした。機会があれば、また話を聞かせてほしいということでした。よく聞くと、日本での居住は、我が家から近い場所でしたので、ご縁があれば、日本で会うことになるかもしれませんが、これも機運に身を任せ、私からは連絡を取る必要がないかなと思いました。彼女がインパール作戦を知ったのは、亡くなった祖父の話を祖母から聞いて興味を持ったということでした。なにか印象に残るものがあり、もっと深く知りたくなったのかもしれません。

ムーンサーン寺を後にして、タイ人友人と食事をしたりしながら、時間を費やしていきました。今回は、出来る限り、息子の希望に沿って、8月16日まで行動することにした。


7:ミャンマーとの国境ラインの散策 8月17日

8月17日からは少し英霊の依頼的な行動を取り始めました。

具体的に英霊の依頼(場所)があったわけでもなかったので、軽い気持ちで国境際に伺うことにしました。この時期は、雨季で山際が崩れ、土砂災害が多かったので、かなり危険だということでした。そんな時に、メーサリアン方面なら私が行ってあげるよと嫁の実家方面に住む女性が名乗りを上げて下さり、詳しく聞くと、昔、ミャンマー側から牛を購入しチェンマイで売る仕事をされていたことがあったので、地理に詳しいということでした。国境際には、牛を売るマーケットがあり、そこでたくさんの牛がミャンマー側から連れてこられるそうです。とにもかくにも、彼女に国境際の運転・ガイドをしてもらうことになりました。車は乗用車は危険だということで、彼女の車を利用することになり、朝7時に彼女の家に集合し、出発することになった。車が国境へ向けて走り出すと、道が赤土に汚れており、山際から土砂が流れている個所がたくさんあった。中には、道が半分無くなっていたり、酷いところでは、完全に土砂で埋まった場所があり、なんとか車が通れるようにして、警備員が立っている場所もあった。乗用車だったら、確実に走行不可能だったかもしれないと思いながら、道中、外を眺めていました。国境近くを色々見て回りながら、そのまま、南下し、メーソットまで行く予定でしたが、問題が出てきて、アスファルトの道が盛り上げり、ひび割れ、四駆でも走れない箇所があるという情報が入ってきたので、南下は厳しいのでメーソットへは行けない状況になってきました。さらに、運転して下さっている女性が日帰りで帰宅しないといけない状況になり、結局、あちこち国境側を見て回りながら、様子を肌で感じることが出来て、とても有意義な一日になって、妻の実家へは深夜に近い時間への帰宅となりました。これで、サルウィン川上で国境を引かれた地域に訪れることが出来、川幅も確認して、戦時中の様子を推し量ることが出来るようになったことはとても大きな意味を持つことだなと納得することが出来ました。


8:心残りを終わらす為にメーソットへ

今回、タイ王国へ来てから、何故か私は息子を見つめていた。傍に居ながら、遠くからずっと息子の様子を伺っていました。そして、実は、ミャンマー国境周辺を散策していた時に、息子に何度か声をかけていた。『南へ移動するように(妻に)話してくれ』と息子に私は伝えました。

『日本兵がおまえに言ってるで。俺に言ってないで。どうする?なー、〇〇(息子の名前』

息子『そんなこと言われても知らんやん。わからへんし』

私『だけど、おまえに言ってるねんで。俺は通訳してるから、日本兵の言葉が聞こえているのに、俺に関係なく、おまえに話してるで。どうするよ。俺は知らん。他人の会話に入る趣味はないし』

  すると、息子は困った顔をして、ふてくされていた。

私は、『そう。それで良い。』

   何も出来ない息子をそのまま、見逃すことにした。彼は霊能者でもないし、霊感もさほど強くない。だから、良い方向に向かってほしい。

翌日、結局、妻と私と息子3人のパーティでメーソットへ向かうことになりました。足が無かったのですが、友人から車を貸し出されていたので、彼にこの車でメーソットまで行っていいか確認を取ったところ、彼はメーソットでビジネスをしていたらしく、よくお借りした車で通っていたらしい話を聞くことが出来ました。ですので、行程はよく知っていて、大丈夫だよと言ってくださり、安心して彼の車でメーソットへ向かうことにしました。

妻が往復運転することになった。理由は、警察の検問が多かったことと、事故したら免許の無い私は問題になるので、妻に任せることになったのですが、なんだか今回は女性が活躍しているような感覚を持つこととなった。ムーンサーン寺であった女子研究生。国境沿いの運転ガイドをして下さった妻の知り合いの女性。そして、私の妻。まだあるが、ここでは省略致します。ま、偶然が重なったに過ぎないのだろうけどね。

5時間半ほどのドライブだとナビが時間を表示してくれたが、行きの妻の運転は、男性のように激しかったし、自信が漲っていた。元気がどんどん湧いてくると妻は説明してくれ、無表情のまま、笑っていました。そして、メーソットへ着いた夜は、知り合いが経営するレストランで食事をするので、その正面にあるホテルで宿泊するように友人にアドバイスされました。長時間のドライブにも関わらず、妻は元気そのもので、見つかったホテルで少し休憩を取ることに。

そして、私は、息子と作戦会議をすることにした。なぜなら、我々がメーソットに来た事に気づいている日本兵たちを感じたからでした。

『なぁ、おまえになんかむっちゃ期待されてるで。頼んだぞ』と言われてるよ。

妻に、『〇〇(息子)、ミャンマーに入れるんかな?たぶん、期待とはそういうことだろうなと気が付いた。すると、妻は『日本のパスポートしか持ってないけど、タイ人としてのIDカードがあるから、申請すれば、ミャンマーに入れるはずよ』と言われました。ということは、息子がタイに盆休みに来ることは計画されていたことではないかと思い始めている自分がいました。それが正解だとすれば、前回メーソットで合流出来なかった組は、カンチャナブリの帰り、私が彼らの存在を傍に感じながら合流出来なかったが、彼らの存在を知って、再度、来ることはわかっていたのかもしれない。それも、私の魂の波動と近い存在である息子を国境に連れさせて、そして、ミャンマーへ来てもらい、彼に憑いてタイに越境するという段取りが組まれていたように感じざるを得なかった。

息子に『この赤い十字架の入ったカバンを持って、ミャンマーに入り、私は〇〇〇〇の息子でお迎えに上がりました。私は、父と共に日本へ帰ります。だから、私の後をついて来てくださいと声に出して帰って来い。お母さんが日本兵の気配を察知したら、その方向に向かって話せ。わかったな。』と対策を練りました。息子は『僕にはわからへんし』と駄々をこねるので、『来たかどうかはお母さんに任したらいいから』と妻にも使命を与えることにした。すると、妻も自分が重要の役目だと自負して頂き、なんとかこの計画を成功させられるのではないかと自信を持った。

そのあとは、タイ人の知り合いが経営するレストランに行って美味しい食事を頂きました。店で一番のエビ料理を御馳走になり、大満足しました。さて、疲れを飲食で癒し、明日の英霊の依頼15回目の実行に精を付け、ホテルで就寝を取りました。お親子揃って3人で同じベッドの上で幸せな夜を過ごすことに。息子が真ん中で妻と私が取り合いみたいな。。。なわけないか。


9:国境を越える息子 私が失敗しても、この活動に失敗はない

朝から、ゆっくりめに起床。相変わらず、家族三人だと寝起きが遅い。ちなみに私は早起きしてイライラしていた。怒らない怒らない・・・。(笑)

10時にミャンマー側に行くガイドと合流し、必要書類を準備し、無事、息子と妻は国境を越え、ミャンマーに入りました。私は二段構えで、前回、合流出来なかった場所へ一人向かうこととなった。


 

二手に分かれていけば、確実に失敗はないのではないかと私は思っていました。日本での英霊との打合せは、タイ側に移動をお願いし、合流しようという話でした。が、妙な胸騒ぎがした。前回、合流出来なかった場所に行くと、日本兵が誰一人いない状態でした。『なんだよー。約束したじゃん・・・』と思いながら、国境を歩いていると、あることに気が付きました。

『国境の空気が一変した・・・。あいつ、やりおったな。』そう、私は息子が日本兵と合流したのを、場の空気で察知出来ました。思わず良かったなと。。。悔しいが、これ仕組まれてたのかもしれないなと思いました。なんだか、美味しいところを全部持っていかれたような気分になりました。『あー、今回は英霊の依頼15回目って書きたくねーなー』と笑っている自分が居ました。『わが子だから仕方ない』

無事、合流を終えて息子がミャンマーからタイに帰ってきた。彼の肩に手を置き、『ありがとう』と言うと、息子は『えっ、連れて帰ってこれたん?』と表情がこわばっていました。『お父さんの言う通りやったけど、感触なかったわ』と言っていたが、彼は良い仕事をしてきました。ま、今回は、息子という最終兵器を使って、ミャンマーへ日本とタイのハーフを活かせ英霊の依頼でした。特殊な内容だったので、今回のメンバーだったと思います。

この後は、無事、日本へ帰国しました。まだ霊能者しゅうさんに頼んでいませんが、今回は、ゆっくりめでいいでしょう。なんでかはわかりませんが。。。

次回の英霊の依頼へ続く。

簡単に端折りすぎて申し訳ありません。今回は、特殊なケースでしたがうまくいくことが出来、良かったと感じています。ご協力して下さった皆さんに日本兵に代わって御礼申し上げます。

2023年8月22日書き記し


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