刺激と感受性

同じことを繰り返してはならない。目的を見失ってはならない。ここ最近自分に言い聞かせていること。

神経が細かく、他の人にはちょっとしたストレスに堪らない不安を感じる。例えば、想定外の言葉が返ってきた時、緊張した空気に際した時、混乱や不安で堪えきれず涙が浮かぶ。涙が止まらず、職場の人たちに心配されて早退したこともあった。あの日は、絶対変に思われた、恥ずかしい、どんな顔をしてまた出勤したらいいのだろうと家で一人になっても涙が止まらなかった。きっかけ自体は些細なことなのに、少しの刺激に崩壊する涙腺が憎い。意識は抑えようとしているのに関係なしに働く反射に振り回されている。気を遣わせてばかりじゃなくて仕事の仲間として馴染みたいのに、神経の高ぶりを抑えきれない弱さで上手くいかない。

人の感情に直接際する時はもとより、利用者さんが子どもを叱っているときの荒げた声、近くで受けているクレーム、土日の賑やかな話し声、いくつもの刺激が不安となって突き刺さってくる。感情の渦に飲み込まれそうになる。怒鳴り声やクレームは大抵の人がストレスに感じる事だと思う。でも、優しい言葉でも予想から外れると涙がこぼれてしまうのは神経が細かすぎる。外に出るとぐったりなって、家では一人の部屋で横になったまま起き上がれなくなる。もっと生き生きと時間を使いたいのに。

口調の厳しさや緊張感だけでなくて、想定外さのストレスが大きく、混乱して固まってしまう。対応できない不安や焦りが涙となって現れる。情報処理のスピード、言語化能力の弱さが原因なのかもしれない。思えば、就活の面接もそうだった。意外な質問に固まってしまう。毎日何が起こるかわからない緊張に負けてしまった。今でも強くはなれていなくて、例えば、理不尽なことを言われて納得できなくても上手くやり過ごすことができなくて、唯々諾々と従うか対立形を取る固定的な反応が咄嗟に出て、自己嫌悪に陥ることを繰り返している。赤ちゃんのように自己表現が上手くできないのが惨めで、苦しい。

ナルシズムを感じさせるので自分で繊細とは言いたくないのだけど(流行のHSPは自分が特別だと信じたくて名乗る人が見受けられるので…)、感受性が強すぎて社会生活が苦しい。これまで関心を持ってきたのも自然の風景や香り、和歌と繊細さが良い方向に働くものだった。卒論で和歌における色彩語の心情との影響関係を研究したのだが、それも普段から自分が自然の中にある色に影響を受けている自覚があったから。私は人より五感が敏感らしい。そのせいで、一度外に出ると余分にストレスを感じている。例えば、二階にいて一階に置いた携帯のバイブ音やミカンを食べている匂いに気づいたり、遠くで吸っている煙草の匂いで胸がむかつくことがある。人混みの賑やかさが駄目なので、お祭りやショッピングモールもあまり長くいられない。これも五感に入るかわからないけど、極度に酔いやすくてバスやブランコも駄目だ。人と話すのも、何が返ってくるかわからなくてストレスを感じてしまう。最近、繊細さは長所みたいに言われているけれど、長所に収まるくらいの繊細さなら苦労はしない。人と比較して自分をおかしいと感じるのは辛さの1つではあるけれど、それは「人は人、自分は自分」と割り切ることもできる。それよりまして苦しいのは、いつどこで細かく張り巡らされた神経が反応するかわからないで毎日手探りの緊張状態にあること。刺激に敏感すぎると行動の制約が多く、人より楽しみが少ないとも思う。

 本を読む時、そうした刺激がすうっと遠のいていって、自分と目の前の本だけの簡潔な世界の黒く無機質な文字が、強すぎる生の刺激を濾過してくれる。不意に蘇る過去の記憶も、未来の不安も、目の前の本と自分の間には入り込めない。無機質な文字の群れは、物語の胸を突く痛みも、反芻する美しい言葉も、有象無象の知識も、低刺激で届けてくれる。それでもよく涙してしまうのだけど。

今はネットで何でも知ることができるけど、ネットは動画広告の点滅や音声、文面のマーカー、色とりどりの文字が情報過多で煩い。図書館は知識を得るだけの場所じゃなくて、社会が賑やかすぎて神経をすり減らしている人たちのシェルターでもある。

知を愛する人たちが静かに集える場所を守る、守人のような図書館員になれたらどんなに素敵だろう。

古典を学んで得た階層的な知識に触れる喜びを後世の人も感受できるように情報を残していく仕事も、なんて有意義なことか。

できることなら、日がな文献を繰り、知識の階段を深く、深く下っていく時間の喜びを持ち続けたい。

対人の予測不能さに神経をすり減らすより、物言わぬ・けれど豊富な世界の詰まった資料と向き合っていきたい。

一人でできる翻訳やフリーライターの方が自分に合った働き方なのかもしれないし、接客の多い公共図書館は向いていないと思う。いや、接客がなくとも、たくさんの人と協調して働くこと、人の多い場所を職場とすること自体が向いていない。それはかなり生き方の選択を狭めるし、多くの場所が緊張の対象であるのは生きづらい。でも、そうだけど、知識や言葉に触れる喜びと静かな時間の安心を与えてくれた図書館が一番貢献したい場所なのも確かで。お話会などのイベントが少なく、深い文献調査が要求される大学図書館なら、やりがいのある資料提供ができるのかもしれない。


小・中はそれぞれ一年間全く学校に行けなくて、高校でも休みがち。人に好かれる(面白がられる?)方だったけど、1対1でしか話せない。刺激の強いイベントごともほとんど休んでいた。賑やかさに混乱するのは毎日毎晩の父の怒鳴り声で神経が参っていたからだとその頃は思っていたけれど、生来のものだったのかもしれない。一人暮らしを始めて家で静かに過ごせるようになってからも外での適応に苦しんでいた。大学では少人数制で話の合う人にも出会えたし、文献と向き合い個人で完結する文学研究も肌に合っていて適応できた。でも学部の飲み会やバイトでの社会適応が上手くいかないストレスが、次第に思考力を奪っていった。複数人でいると緊張して話せないとか騒ぐノリに付いていけないとか、そんなことは重大なことではなかったのに。不安で仕方なかった。目前のストレスに自分の心を惑わせてしまった。自分の一番は何なのかという目的を見失っていた時間が、悔しい。

今もそうなりかけているのではないか。目的を見失ってやしないか。心の中で呟いている。

職場で上司の真剣な声に不安になって涙が出たり。表現が下手で傷つけたのでないか、不快な思いをさせたのではないかと悩み続けたり。イエスを期待していて予想外に反対されたときに主張を続けてしまったり。外に出ると、予想外なことが連続する。それが怖くていつも緊張している。もう24歳なのに、経験知が広がっていなくて、わからなくて不安なことばかり。自分を守ることさえ、正しいのかわからない。人の意見は受け入れるべきものなのか、嫌われる勇気を持つべきなのか、和を以て貴しとなすべきなのか。世の中に答えはたくさんあって、自分の気持ちが見えにくい。反射的に自分を守ろうとはするんだけど。後から本当に取るべき行動を反省している。その繰り返し。失礼になることが怖くて過度に礼儀正しかったり、突然涙やストレートな表現がでたりして不安定な私は、だんだん浮いてきている気がするし、腫れ物に触るようにされていくのでないかと不安が募っている。


こうして文章でしか思い通りに感情が表現できない不器用さも、環境に振り回される不安定で脆い神経も、強くしたい。

刺激から自分を守るのに手一杯にならずに、人からの優しさを受け止めて、人には安心を与えられる人になりたい。


まあ支離滅裂。でも日記なので許してください。

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