心を殺した10代

※長文で、自分語りの日記です。世に出すようなものではないのですが、自分の感情の記録が世界の片隅にあるだけでもいいや、と。アダルトチルドレンらしき内容です。実例として参考にはなるかもしれません。

もし、もし、最後まで読む人が現れたら、すごい人です。こんなとりとめもない文を読んでくれてありがとうございます。




現実が受け入れられない。

発達障害だ鬱だと名付けられて数年、心は弱り続け、ただ時が過ぎるのを耐えている。

こんなはずじゃなかった。

もっと、無邪気に挑戦をし、自分の選んだ道で傷つき悩みながらも、変わっていく自分や新しく現れる出来事を楽しみ、自分の人生に夢中になって生きたかった。若さを謳歌し、それを当たり前のことのように何の疑いもなく信じられる真っ直ぐさがほしかった。

本当は、私が鬱になったのは就活のせいだけじゃない。もっと根源的なこと、生きていく安心感を子供の頃に持てなくて、自由に物を思い、家が安全基地である上で、少しずつ外で挑戦を重ねて心を強くしたり能力を磨いていくことができなかった歪みが、大学という自由で自分の意志が求められる場において発露したのだと思っている。

調子を崩していったのは大学からだから。何もない、正確には自分の気持ちが持てないことの弊害を自覚したのが、この頃だった。雑談に交じれないこと、グループワークで意見を出せないこと、それらも確かに悩みではあったけど、一番不安だったのは、生きている実感が持てなかったこと。自分発信の感情や思考がなく、人に動かされているようだった。

昔の事もよく思い出せない。自分がどんな価値観を持っているどんな性格の人間なのかもわからない、何もかもが不確かな感覚。確かな根を持つ伸び盛りの若木ではなく、どこか遠くで放たれ漂う萎みかけの風船のような感覚。

空っぽの10代の負債を取り返せず、自由な会話もできない私は、バイト先では呆れられ、大学の人間関係は「大学生ってこんなもの」というキャラクターで乗り切っていた。大学生Aという役をしていただけ。それでとりあえず会話はこなせても、空っぽの入れ物のような自分が寂しく、不安だった。大学生という役を失ったら、どう振る舞えばいいのかわからない。例えば、家族。子供の役、妹の役のなりきり方がわからなかった。でも、お互いを理解し受け入れて、軽口を叩きあうような気の置けない関係の家族を、友人たちの話から知った。羨ましかった。なんて温かい居場所なのだろう。そういう家庭で伸び伸びと育って、今の自己の確立した友人たちになっているのだ。

私の家庭は、そんな肩の力を抜ける居場所ではなかった。博士課程までずっと東大の父と薬剤師の母、姉、私、妹の五人家族。堅めの両親だが、幼少期は幸せだったかもしれない。専業主婦だった母と研究員の父、年の近い姉妹で仲良く、生活圏内に両祖父母の家があり、よく遊びに行っていた。でも、幼稚園も年長になると気づいた。他の兄弟は性格を褒められているけど、私は褒められたことがない。それどころか、母から「我が強い」と悪く言われたことが強く記憶に残り、私は本来の自分は人前では隠さないといけないものだと思うようになった。見せれば、否定される。自分を否定されないように守るために、私は、優しく礼儀正しく、分をわきまえた振る舞いを目指した。小学校高学年にもなると、意識せずともそう振る舞えるようになっていた。少なくとも、人前では。でも、家では自己主張をすることがあった。そうすると、母から「内弁慶」と責められた。本来の自分は、我が強くて内弁慶でそんなに嫌な人間なのだろうか。私はますます本来の自分を認められなくなった。それから、家でも優等生然として振る舞うようになる。

そういう愛されない自分への自信のなさもありつつ、一方で大きな影響を与えるのが、小学校高学年から高3までの10年間、家が荒れていたこと。後に統合失調症と診断されるのだが、父は仕事を辞め、再就職も家事もせず、家で昼夜怒鳴っていた。その頃の名残で、今でも家はドアが外れていたり、壁や床の一部に穴が空いている。こう書いているうちに思い出されてきて胸が苦しくなるけれど、父は昼夜問わず自分が苦しくなったときに二階で音を立てて暴れ、怒鳴り、一階で過ごす私達子どもは怯えていた。夜も、怒鳴り声で起こされ、まとまった時間眠ることができなかった。そんな生活が10年近く続いた。私は発達障害による聴覚過敏があったので、他の兄弟よりも大きな音に感じられ、ストレスは計り知れなかったと思う。父親の怒鳴り声、挽き笑いのように絞り出す声、延々と続く見えない誰かとの会話、止めに2階に上がった母の声が、10代を思い出そうとすると、他のすべてを塗り潰すように浮かんでくる。

母は、父が仕事を辞めてから働くようになり、兄弟で家事を手伝うようになった。私は友達との遊びを優先する姉や妹に苛立って、仕切っていた。こんな家庭環境でもちゃんと勉強も家事もする「いい子」でいたいと思う一方、それはポーズでもあった。自分の気持ちを殺していない姉と妹が羨ましくて憎たらしかった。そういう、優等生的ないい子であること、役に立つことでしか自分の存在価値が感じられなかったのは悲しいことだと思う。


家族団欒なんて遥か遠く、思い出せない。10代はずっと、家族で出掛けることも、ご飯を食べながら今日の出来事を話して笑い合うこともなかった。仕事と家事で疲れている母に気を遣い、事務連絡をし、父には「怒鳴らないで」と言うだけ。本当に、そういう会話しかなかった。後は勉強して家事をするだけ。生きることは我慢、義務的なこと。そんな考えが染み付いていった。

小5、中2と丸々一年間ずつ、不登校だった。今でも理由の全ては自覚できていないけど、確かなのは聴覚過敏と人ごみや雑談の苦手さから教室が苦痛だったこと。その時は私も理由が分からなかったから仕方ないのかもしれないけれど、母は私の気持ちに寄り添うよりも授業に遅れることを心配した。私の気持ちが平穏であるかということよりも勉強ができることが大事なんだと、失望した。


こんな10代を過ごしてきて、我儘を言ったり、家での不安はなく自分の悩みに集中できている同級生と比べて、引け目というか満たされなさというか、そんなことを感じてきた。私だって、絶対的に自分を受け入れてくれる場所に守られた上で、のびのびと自分を成長させたかった。そんな10代を過ごせていたら、今と同じ未来にはなっていなかったんじゃないかと、どうしても思う。きっと幸せになれない限りずっと、空っぽの10代を恨み続けるのだろう。まだ家族関係が修復できていたら違うんだろうけど、今でも家族といるのは緊張するし、当たり障りのない事か事務連絡、重大な悩みしか話さない関係だ。軽口を叩きあうような気楽な間柄ではない。今は仕事がなくて仕方なしにここで暮らしているけれど、早く家を出て自分の居場所を見つけたい。


母は、私が幼少期に「我が強い」と言われてひどく傷ついて、そこから本来の自分を矯正しすぎて自分の気持ちを持てなくなったと打ち明けた時、我が強いのも必要なときもある、幼少期に言われたことでそこまで左右されるのはおかしいと言ったけれど、そんな文脈ではなかったし、そういう意味で言うなら「意思がはっきりしている」とかいう言い方になるだろう。後付けで私が傷ついたことを軽く済ます、むしろ私がどうかしていると言う母に怒りが湧いたし、母のせいで傷ついているのに思いやられないことが悲しくもあった。

鬱になってからも、発達障害のこと、将来のこと、両親の方から話題にすることはなかった。もっと気にかけてもらいたいのに自分から話すしかなくて、直接「もっと気にかけてほしい」と言ったこともあった。こんなこと、自分から求めないといけないなんて、情けなくて恥ずかしくてたまらなかった。

恥ずかしさを堪えてそう求めても、変わらなかった。定期的に同じような事を言うようになり、私が要求するからと義務的に声を掛けるようになった。また、私が自己主張を通しているかのようにされている。そんなものではなくて、形式的ではなく、心から気にしてほしかった。


悩みや不安を話しても伝わらなくて、「あなたと話すと長くなる」と私に問題があるかのように言われる。姉や妹とはそうならないから、私が悪いと言う。姉や妹とは、母の態度自体が違うのに。もっと積極的に話を聞いているし、話しきらなかった内容は自分からも連絡している。私には、永遠に来ない「また今度」で済ませるのに。

本音を見せれば、必ず悪く解釈される。

数年前に両親が「子どもたちもすっかり大きくなった」と話しているのを聞いた時、父親が「もう老後を考える段階に入った」と言った時、目が眩むような思いがした。何を全うに子育てをしてきたかのように言っているのだと。自分たちは良くても、全うな10代を過ごせずに心も能力も磨けずに大人に放り出された私はどう生きていけばいいのか。

両親とも、私がこういうことを話すと、「人のせいにしている」と言った。確かに、客観的に見てそういう部分はあると思う。でも、両親にだけはそんな事を言う権利はないし、言われたくない。

母は「私だって家庭環境は良くなかったけど、歯を食いしばって強く生きた」というような事を私に言うが、自分が満たされなかったなら、自分が求めていた温かい居場所を子どもには与えたいと思うのが親心ではないのか。自分も我慢したんだから子どもも耐えて生きるべきという発想はおかしいと思う。

もう大人なのに、子どもの頃のことを今でも恨みに思う自分が恥ずかしい。でも、当時は勿論、その頃を整理して考えられるようになった大学生以降に話しても親に受け止められなかったために、過去を清算できないでいるのだろうと思う。親を愛せない人間になってしまった自分も嫌になる。だけど、愛されて大事にされていたら私だって親を大事に思う綺麗な心を保てたのに。そして、自分のことも自然に大切に思えていただろう。

親に本音を話すと、本当の自分が否定され、汚されるような気持ちがする。もう、自由に物事が考えられなくなっているけど、どこかにはある生身の自分を守りたいと思うのだ。

心や能力を磨く10代がすっぽり抜けていて、ストレス耐性もコミュニケーション能力も低いまま、アイデンティティも性格もないままの今の自分が、一人で大人の世界を渡っていくのはとても怖い。

でも、もう、家は諦めて他に居場所を探していかないといけないのではないか。



追記

「自由に物が思えない」という悩みは今もあるけれど、昔より吹っ切れている。今は、無理に物を思わなくてもいいと思うようになったし、人の目を気にして本音を矯正しなくていいと思えるようになっている。もちろん、本音全開では社会でやっていけないだろうけど、「こういう気持ちは人に認められない」と、心の中まで押さえつける必要はないと思えるようになった。物を思えない時は思えなくてもいいけど、思うことが"許可"される範囲を縛らないこと、感情が湧くことを怖がらないことを意識している。どんな感情が湧いても、私だけは否定しないと決めた。まずは自分が自分の味方になる。感情や自己主張を認められなくて殺した、心の隅で丸まる小さな私を自分で育てる。もう親には期待しない決心をつける。

この日記で書いている「親を愛せないこと」「温かい居場所が持てずに、自分を掛け値なしに大切に思う精神が育たずに大人になった心細さ」も、確かに私の感じていること。思っていい事柄の縛りを無意識から取り外したら、精神的な安全基地を持てない10代を過ごしたことへの悲しみ、そこで自分を育てられずに大人になってしまった不安や取り返しのつかなさが、ここ最近はつらつらと浮かんできているという日記でした。

親にどう思われようと、陰で何を言われようと(影で悪く言われるだろうと自然に思う信頼関係の無さがまた悲しい)、自分の気持ちを大切に、私の肩の力を抜ける場所を探していかないといけない。未知の世界は怖いけど、勇気を持って。



優しいサポートありがとうございます。これからも仲良くしてくださいね。