見出し画像

『夜と朝のあいだの旅 』ラフィク・シャミ (著), 池上 弘子 (訳) 初老の大人のための童話寓話のようなスタートから、どんどん多様な要素が加わって。現代のシンドバッドの冒険?同時に、小説を書くことについてのメタ小説にもなっている。全体に「幸せ」についてのポジティブな空気が流れ続けているのが、現代小説においては稀有。

『夜と朝のあいだの旅 』単行本 – 2002/7/1
ラフィク・シャミ  (著), Rafik Schami (原著), 池上 弘子 (翻訳)

Amazon内容紹介

「幼なじみからの一通の手紙に導かれ、アラビアへ向かうサーカス団長ヴァレンィンの旅を描く。それは、人生の黄昏から少年時代へ戻っていく冒険でもあった。ヘルマン・ヘッセ賞、シャミッソー賞受賞作家、初の長編。」

作者について(本のカバーから)

「1946年、シリアに生まれる。66年から69年までダマスカス旧市街で壁新聞を発行。71年に旧西ドイツへ亡命。働きながら大学で化学を学び、79年に博士号を取得。80年に文学グルーブ「南嵐」の設立に参加し、85年まで同志の編集・執筆を担当する。82年からは作家活動に専念。
シャミッソー賞・チューリッヒ青少年文学賞、ハメルン市「ねずみ捕り」賞、ヘルマン・ヘッセ賞、ノサック賞など多くの賞を受賞し、ドイつを代表するサカとして幅広い人気を得ている。」

ここから僕の感想。

 もともと童話や短編小説を書いていて、これが初の長編小説なのだそうだ。そう、はじめ、童話というか少年少女向け物語を読んでいるような感じで話はスタートする。なぜそう感じるのか。ということを考えてしまった。小説と童話の違いはどこにあるのだろう。だって、初老を迎えた、そこまですでにかなり波乱万丈の人生を一通り生きてきて、老いの入り口に立った主人公の話なのである。60歳なりに体も衰えてきているし、サーカス団長としても借金を抱えて行き詰っているし、妻には先立たれている。しかし、そこから、この主人公が、いろいろと欲張りに若返っていく、幸せを求めて進んでいくお話なのである。

 大人の、初老の人向けの、童話というか寓話という感じがするのが、「そんな偶然、そんなうまい話、そんなあ」ということがどんどんと積み重なって話は進んでいくから。そう、子どもの頃読んだ、「シンドバッドの冒険」に、読んでいる感じが似ているのだ。いやまさに、現代版「シンドバッドの冒険」みたいな話なのである。シンドバッドはバグダッドの商人だが、主人公は、ドイツ人のサーカス団長。だが、幼なじみがアラビアのウラニア、(シリアのダマスクスのことだと思うが、地名はすべて架空のものに替えてある)にいて、彼の招きでサーカスがウラニアに旅に出る。

 ちなみに、シリアとイラクはもともとお隣の国というか地域で、大きな帝国の中の地方同士であった時代も長く、今の国境は欧州列強が勝手に分断したのだから、イラクのバグダッドのシンドバッドの冒険とこの物語が似ているのも、全く不思議ではない。

 サーカスの物語であり、幼なじみとの友情、若い恋人との恋愛、母の隠された恋をたどる旅、それを小説に描いていく「小説についての小説」など、話が進むほどにどんどん多様な要素が盛り込まれていって、作品の世界はどんどん豊かになっていく。

 初めのうちは、ちょっとした困難は起きても、すぐに解決して、主人公もサーカスも、どんどん幸せに向かっていく、おとぎ話のような展開なのだが。途中から、シリアの独裁政権と、それに対抗するイスラム原理主義勢力の内戦が、話の上に影を落としてくる。能天気でハッピーな大人の寓話を読んでいるつもりが、そのままではすまなくなってくる。

 この小説を読みながら、「小説とは何か」ということと「人生の幸せとは何か」ということの関係について、いろいろ考えてしまった。

 小説っていうのは、たいてい、「悩み」とか「葛藤」とか「人生や世界の厳しい現実」とか、そういうものが描かれるもの、という感じがするでしょう。なんか、面白いことがどんどん起きて、主人公が、調子よく、どんどん幸せになる一方のお話しがあったら、それは「小説」というかんじがしなくて「おとぎばなし」「童話」な感じがするでしょう。

 でも、主人公だって、作者自身だって、なんらか「幸せ」を求めて生きているはずで、幸せを求めるからこそ、かなえられぬ葛藤や悩みが生まれる。小説として上等なのはより「人生の厳しさ」や「世界の過酷さ」を描いた方が上等で、主人公が調子よく幸せになっていくなんていうのは、文学じゃない、っていう価値観ていうのは、どうなんだろう。調子よく葛藤もなく幸せになっちゃうのが「現実にはありえない」からダメなのかな。でも、その調子よさの中に、何か「幸せの本質」みたいなものが表現されるっていうこともあるんじゃないのかな。そもそも、作家によって、何を「幸せ」として、登場人物に求めさせているかっていうのが、違うよな。

 そう、そんなことを考え始めてしまって、この小説を読みながら「イシグロカズオは、登場人物にどういう幸せを求めさせているか」(求めて得られない後悔を、たいてい描いているのだが。)村上春樹の主人公は、どういう幸せを求めて、あんな生活をしているのか。(それが邪魔されて、望まぬ冒険に出ることになるわけだが。)

 つまり小説の描く「葛藤」や「世界の厳しさ」は、その小説家の「幸せの価値観」の裏返し、「得られない、邪魔される」体験として表現されているんじゃないか。小説という文学・芸術の構造を「作者の幸せ価値観」から逆算的に読み解く、みたいなことができないかなあ。

 そんなことを頭の隅でぐるぐる考えながら、毎日、二章くらいずつ、この小説を読んでいたのでした。そうしたらまあ、この作者も、この小説を書きながら。そういうことを考えていたみたいで、小説のいちばん最後に、こういう問題意識に対する、作者なりの答えが、ちゃんと書いてありました。

 人によって、いろんな読み方ができると思う、すごく多様な要素が詰め込まれた、小説でした。

 あと、装丁がすごくかわいらしい、まさに童話の装丁のようなのだけれど、なんと、奥さんがデザイナー・イラストレーターで、奥さんが装丁をしているのである。これが、物語の内容の「幸せの価値観」とぴったり合っていて、また、味わい深いのである。

 日本では有名でもないし、それほど売れてもいないのだと思うけれど、おすすめの一冊。ぜひ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?