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『R帝国』中村文則と、民主主義の限界。

今年の小説読み始めは中村文則の『R帝国』という、近未来ディストピア政治小説。日本版、オーウェルの『1984』というようなものだ。

 その中で、独裁国家の「党」の幹部が、政治哲学を語るところを、長いけれど、引用します。

「私はずっと思ってきた。国を豊かなまま思い通り支配するにために必要なのは、一部のエリートだけを残し、残りの国民達を無数のチンパンジーのように愚かにすることだと。・・・・我々がどこかの国を憎めと言えばキーキー憎み、さらには自分達の生活が上手くいかないのは誰かのせいだとキーキー騒ぎ、私達が何気なくあれが敵だと示せばそのフラストレーションから裏を考えることなくキーキー盛り上がってくれる存在に。」
「まず国民の大半をわかりやすく言えば馬鹿にしなければならない。もうずっと以前から、私がこの国の支配層に入る前からその動きは始まっていた。」
「まず文化全体のレベルを下げていくこと。くだらないものに人々が熱狂するくらい、文化的教養を下げていくこと。本来学歴と教養は関係ないが、たとえ高学歴な人間であったとしても、教養という言葉に虫唾が走るようにすること。馬鹿な者達が上げるネット上の大声に委縮することで、馬鹿によって社会が変わる構図はもうすでにできあがっていた。」
「そもそも正体を隠してネット上で差別や悪口を書き込むことほどみっともないことはあるまい?だがそういったことを恥ずかしげもなくできる者達がすでに大勢いるのは周知の事実だ。そういった者達が増えれば世界はどんどん愚かになる。我々が望んでいる方向に。愚かな言葉は読む側も無自覚なまま感覚として伝染するからだ。」
「0.1%のエリートに99.9%のチンパンジーが理想だが、実際には、我々はまだ20%のチンパンジーしか造りだせていない。」
「残りの50%は自分達の生活が可愛過ぎるため我々“党”を支持しているが、チンパンジーではない。そして30%ほどまともな人間がまだ残っている。だがそれでいい。20%のチンパンジーは声がでかいため、50%の人間達に影響し、まともな30%はそんな国民達と我々“党”を恐れ沈黙している。世界はつまり今、20%のチンパンジーによって動かされている。これは愉快だ。そうじゃないか?」
(世界をよく変えようと説得しようとするような本では)「世界が変わらないという決定的な証拠がある。この世界に、一体どれだけ素晴らしい芸術作品、どれだけ素晴らしい言葉がこれまでに生まれたと思う?なのに世界は未だにこの有様だ。」
「つまり人間は変わらないのだよ。それらの素晴らしい芸術作品、素晴らしい言葉達は、30%のまともな人間達を勇気づけるか、そんな彼らを0.1、2%増やす効果しかない。だが世界は残り70%により永遠に善の名のもとに戦争をし、戦争の後は少しだけ反省し少しだけ賢くなり、だがそれも時間が過ぎると忘れまた戦争をする。我々は繰り返す。リピートする。それが人類史だ。」

 引用終わり。さて。いつも思うが、僕の文章を読んでくれる人は「まともな30%」で、文化的教養への尊敬、学び続けようという意思を持つ人たちがほとんどなのだ。しかし、広告というのは、そういう人たちだけを相手にする仕事ではない。なかった。普通の50%の人たちに届かないとだめだ。その人たちも動かさないとダメだ。それだけでなく、政治的、教養的な意味では20%のチンパンジー化している人たち(ヘイトスピーチをしたり差別したりする人たち貧しく苦しんでいる人たちをバッシングしたりするような人たち)も、お客様である限りは動かそうとする。この「普通の50%」「さらにそれより悪質な20%」という全体構造、それを視野に入れた政治論でないと、有効性は無い。

 僕の友人の多くは、知的でリベラルな人たちが多い。本質的に保守的右翼である僕とは、意見が相違することも多いが、「文化的教養に敬意を払う」という共通の基盤があるから、意見を交換することができる。「まともな30%」の中での意見交換なわけだ。

 しかし、民主主義の現実は、「まともな(かなり高度で複雑な知的議論が可能な30%」「善良ではあるが複雑な議論を政治に関してはしない、またはできない50%」そして、「かなり政治的に愚かで悪質な態度になって権力維持に悪用されている20%」この全体構造により決まる。この社会全体を視野にいれない限り、有効な社会変革理論にはならない。正直、この「全体を見てコントロールするノウハウ」において、自民党は圧倒的に優れており、対抗勢力は、「まともな30%」にしか通じない言葉、振る舞いを続けている。何回選挙をしても負けるのはそのせいだ。

 そして、少なくとも「ふつうの50%」を動かすという技法に関して、広告屋は、いちばん真剣に、職業として取り組んでいる人たちだ。だから、民主主義をまともに働かせるには、広告屋が真剣に考える必要がある。「民主主義と広告」というこのマガジンのテーマ、問題意識は、そこをめぐる考察を重ねていきたい、ということなのだ。

  原発や憲法改正の国民投票と広告の関係について本を書き続けている本間龍氏が、元・博報堂の社員というのも、これに類する問題意識を持っているからなのは間違いない。ただし、広告=悪、電通批判、電通悪者論。そして広告は規制されるべき論なのだ。僕はそこのスタンスは賛成できない。ふだん考えない大切なことについて、なんとか普通の50%の人にも考えてほしいならば、広告屋が、広告の中で得たノウハウの限りを尽くして、それぞれの人が考え、選択できるように提供しなくてはならない。広告を規制しても、結局、50%の人はまともに情報を得ることも、それについて適切に考えることもできない。しようとしないだろうから。

 僕がそう思うのは、この前のノートで書いたグループインタビューで「普通の50%の人たち」をたくさん見てきた経験からなのだ。

 この前のノートに対し、「一般人をバカにしすぎ」という意見をくれた友人がいた。それについて、思うことを以下、書いてみたい。

 僕が33年間、広告の仕事をする間、この前のノートで説明したグループインタビューを見た量は、年間平均50グループ×6人×33年=9900人。まあだいたいこれくらいだと思う。顔の無い定量的9900人ではなくて、一人一人の顔を見て、大切にしていることや悩みを聞いて、そしていろいろな素材、コンセプトボードだったり広告案だったり新商品アイデアだったりに対するそれぞれの反応を見ての9,900人。見てきて思うのは。

 情報を一定時間で、どの程度理解処理できるか、という知的能力には、当然に個人差がある。でも、グルインという場所に出席してくれている、その二時間、すべての人が、誠実に、一生懸命、問いかけに答えよう、与えられた情報を理解して、なにがしか、きちんと意見を言おうとした。

 この前のノートで言ったのは、そういう人でも、「仕事、家族、趣味関心事」以外のことについては、普段の生活では、ほとんど考えていない、ということなんだよね。

 人は、自分の仕事についてはすごく真剣に考えている。言語化していなくても、それぞれの仕事のプロであろうと、膨大な情報処理を日々している。その意味で「バカ」な人なんて、ほとんどいない。

 家族のことについても、たいていの人はすごく真剣に深く考えたり心配したり気遣ったりしていて、その意味で「バカ」な人も、ほとんどいない。

 それから、自分の趣味とか、凝っていることとかこだわっていることとか、そういうことについては、プロも顔負けていう部分を、多くの人が持っている。その意味でも「バカ」な人は少ない。

 でも、それ以外のことについて、人は、もう考える余裕がほとんどない。脳の情報処理能力も時間も、目いっぱいなんだよね。

 『R帝国』の党の人のような支配者目線で言えば、「仕事のプロであれというプレッシャーをかけて残業もたくさんさせて、そのことに人の能力時間のほとんどを使わせ」「趣味娯楽を適度に与えて、そこに残りの能力時間を使わせ切れば」「政治のことについて深く考える時間も脳の余力もなくなるから、」「高学歴で頭のいい人でも、政治的にはバカにできる」ということだと思う。

 生活が可愛過ぎる50%の普通の人、とR帝国で言われているのは、「知的能力」の話ではなく、「仕事と家族と趣味」を愛しすぎてそれで能力時間を使い切っているために、政治的にバカになっている人間のことだと思う。

 そういう僕も、2011年3月に、福島の原発事故が起きるまで、まさにこの「生活が可愛過ぎるために政治的なことを考えないというバカ」になっていた。

 そしてそこからの8年間というのは、政治的バカをやめたいと思っていろいろ勉強しなおしてはいたものの、まだ子育ても真っ最中で仕事もフルに頑張り続けなければならない中で、葛藤してもがき続けてきた8年間だったと思う。

 僕が「バカ」という言葉を使うのは、全人格的に「バカ」だという意味で使うのではない。知的能力が劣っているという意味で「バカ」だというのでもない。

 ようやく、仕事にも家族にも時間と能力を使い切らずに済むようになった。「さあて、趣味楽しみだけに使うぞ」っと思えるほど、今のこの日本、この世界はOKな状態ではない。


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