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『ゴジラ-1.0』、山崎監督は1964年生まれ、僕は1963年生まれ、戦争も戦後の混乱も知らず、物心ついたのは高度成長真っただ中世代である。そういう世代が戦争を描くことの困難と問題について。

『ゴジラ-1.0』について、おそらく長くなる感想を書きます。

 友人たちの評価はおおむね好意的だったし、米国でもヒットしているということだし、しかし、なんだか腰が上がらずにいました。そろそろ観ないとなあと思っているところに、Facebook友人、中島先生が、四方田犬彦氏の辛口批評をシェアしていて、なるほど、といろいろ腑に落ちたのだが、観もしないでわかったつもりになるのはいかんなあと、今、行ってきたきたところ。

 まずは四方田氏の批評を読んでもらうのがいいとおもうのだが、勝手に引用していいものか分からないのだが、すごく大事なところだけ引用してしまう。

「日本は戦争に負けていない。ただ完璧に終わらず、中途半端のままになっているから、もう一度戦って国を守るのだという、ソフトな戦争賛美のイデオロギー。」「1947年占領下のはずなのに、誰も「負けた」といわず、街角に一人の米兵もいない。進駐軍が存在していない戦後日本である。」「今の日本人が信じたいと思う、理想化された終戦直後の東京がここには描かれている。」

四方田犬彦氏X(旧ツィッター)投稿から

引用おしまい。

 午後から秦野で妻と待ち合わせだったので、午前中に海老名で一人で見よう、と海老名のシネコンで予約していたのだが、海老名のようなマイナーな駅にシネコンがふたつもあるとは思わず、イオンシネマ海老名に初めに行ってしまい、2次元バーコードを機械に拒否されて「あ、ここじゃないTOHOシネマズ海老名だ」と気がつくという典型的老人ミスをし、時間ギリギリだったので海老名の駅周辺を数100mをダッシュするというハプニングもありつつ、無事本編には間に合った。

 エンターテイメントとしてはよく出来ていたなあ、という感想なのだが、たしかに『永遠の0』感が、初めの「特攻機故障のための不時着用島」という設定からにじみ出てくる。

 なるほどこの監督は「三丁目の夕日」だけではなく、「永遠のゼロ」「アルキメデスの大戦」という、太平洋戦争を舞台にした架空戦記ものを大掛かりなVFXで感動大作にするのが得意技で、それをゴジラでやったわけだな。VFXの出来はもう戦闘機についても軍艦についても、それはもう素晴らしく、そしてゴジラについてもすごいリアリティ、迫力である。

 『永遠の0』小説原作の百田氏は1956年生まれ、山崎監督は1964年生まれ。私はその間の1963年生まれ。

 太平洋戦争どころか戦後の混乱も、朝鮮戦争もリアルタイムでは知らない、物心ついたときには高度成長真っ只中の世代である。だから、なんというか同世代が太平洋戦争と戦後の混乱を舞台に感動大作を作ることに、共犯者的な後ろめたさを覚えるのである、私の場合。四方田氏のように頭ごなしに批判というよりも、「本当のことを知らない僕らの世代が、戦争を素材に感動大作を作ってしまうことへの後ろめたさ、恥ずかしさ、申し訳なさ」みたいなものがまず心に拡がってしまうのだ。

 主人公を臆病さから特攻を生き残った人物と設定するわけだが、それが成立してしまう経緯の描き方の甘さ、というものが、『永遠の0』での、優秀なのに戦おうとしないパイロットという設定の無理さに重なるのである。そういう気持ちの人はいたに違いないが、そうであっても逃れられない圧力のかかり方が本当はしていたのではないか、という違和感が映画の初めから湧き上がってしまうのである。

 主人公の名前が『敷島』で、ゴジラをやっつける作戦名が「わだつみ作戦」と、なんというかデリカシーのない感じも、なんか気恥ずかしく申し訳ない。

 四方田氏ほど意地悪に見ないにしても、太平洋戦争における戦いの「やり残したこと」を、ゴジラ相手にそれぞれの登場人物がやり遂げる、太平洋戦争中の良くなかった点、特攻という戦い方も兵器の作りも人命軽視、兵を損耗品としか考えないような戦い方、日本軍のあり方を反省しつつ、ゴジラ相手に元軍人たちが戦う、という映画である。

 では、ゴジラは何を象徴しているのかなあ、と考えた時に、もともとの初代ゴジラについては「太平洋の核実験」から生まれたと同時に、太平洋の戦いで死んだ日本兵たちの霊、英霊が姿を変えて日本に帰ってきた姿である、と言うような解釈がほぼ最大公約数的には受け入れられてきた。今回のゴジラもある程度それを踏襲しているようであるが、しかし、物語の構造を見ると、「早めに戦争を終わらせたために日本本土を破壊しつくさなかった米軍が、徹底し損ねた、破壊し損ねた銀座周辺を破壊しにやってきた」ように見える。ゴジラが戦う主体が「元・日本海軍」である以上、戦う相手ゴジラは「米軍」でないといけないのである。

 この映画、「米軍は絶対、ゴジラと戦わない。まだ自衛隊もできていない。だから元・日本海軍が戦う」というのが基本構造である。のは、ゴジラが「米軍」だからである。

 話があらぬ方に飛ぶ。この映画、米国で異例の大ヒットをしている。宮崎駿の『君たちはどう生きるか』と並んで、12月2週あたりの週間興行成績で、『君たちはどう生きるか』二位『ゴジラ-1.0』三位である。

 米国でのヒットを伝えるニュース(テレ東BIZ12月5日)で、米国の女性ゴジラファンという人の感想を引用する。

「ゴジラファンとしてとても満足している。過去と現在をつなげる素晴らしい映画。希望にあふれていて過去や私たちへのメッセージもあった。『ゴジラ』は日本の制作者がつくるべき。そのほうが良いものが生まれる。時代設定も素晴らしかった。戦後の心境はアメリカ人として難しいものもあるが、ゴジラが街を破壊するシーンが見たいはずなのに、初めて「何も破壊しないで」と感じた。主人公は家が灰に化していたのを目の当たりにしてすべてをかけて建て直そうとする。ゴジラに「もう何も破壊しない欲しい」こんな感情になるなんて…」

 アメリカ人にとっては「ゴジラが街を破壊するシーンが見たい」というエンターテイメントなんだなあ、ということがまず分かる。日本では「核兵器の象徴」と「英霊が戦後日本の繁栄に異議申し立てをする」の合わさったものとゴジラが表現するものを解釈したわけだが、アメリカ人にとっては、まずは「破壊王ゴジラ」のはちゃめちゃな暴れっぷりエンターテイメントなんだなあ。逃げ惑う貧乏くさい戦後日本人のことなんて初代ゴジラがアメリカでヒットしたときにはアメリカ人観客は、別に何にも思わなかったということなんだろうなあ。ゴジラから逃げ惑う人たちの姿に、日本人は広島長崎で原爆の被害を受け、東京大空襲はじめ全国都市の市民への爆撃で焼き殺され逃げ惑ったこと記憶が生々しく再生しているだろうことなど、ゴジラを見てもアメリカ人はそんなことは考えなかったのであろうなあ。そういう攻撃をしたのが自分たち米国だという意識も無かったんだろうなあ。ゴジラだし。米軍じゃないし。映画で描かれているのは。

 思い出すに、中学時代に同学年のいくつかのロックバンド合同でコンサートをやったとき、僕らの学年NO1完成度の河野君ベース&ボーカルのバンドの代表曲・アンコール定番曲が、ブルー・オイスター・カルトという能天気なアメリカンロックバンドの能天気な「ゴジラ」と言う曲だったんだよな。サビが「ゴ・ゴ・ゴ・ゴジーラ」っていうやつ。松井秀喜のことをゴジラというのも「破壊王ゴジラ」イメージなわけでさ。あくまでエンタメなのである。

 というわけで、ゴジラは今回の映画でも、何発か、明らかに核爆発を思わせる破壊光線を日本で、銀座で炸裂させるのであるが、それは米軍じゃなくて、ゴジラなのであるから、アメリカ人はあんまり気にせずに、今回は「日本人可哀そうじゃん」と楽しめてしまうのである。

 思えば、『君たちはどう生きるか』で、主人公の母親を焼き殺した焼夷弾空爆も、当然、アメリカがやったことだから、アメリカ軍が日本を破壊し尽くした戦争を舞台にした映画が、全米ボックスチャート、二位と三位である。

 太平洋戦争がそれだけ遠くのものになり、太平洋戦争そのものも戦後の混乱も知らない僕が還暦を超えたのだから、それはアメリカだって同じことなのだ。

 変な話だが、この前からずっと考えているのだが、「ゴジラは史実だ。隠蔽されていただけだ」と言う人が現れても不思議はないよなあ。

 自ら体験した人がいなくなって、映像の記録で見たことがほとんどすべてになっていって、映像はVFXで、虚構と現実の区別がなくなっていく。

 そういう「境目の時代」、戦後80年が近づき、極限までVFXが進化していく今。この映画で描かれる「虚構の戦後の情緒」の、どこまでが真実で、どこからが「当時は全然こんなじゃなかったよ」を判別できる人は、生きていなくなる時代が、もう来ているのであるなあ。そんなことを考えたのでありました。

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