労働vs余暇についての考察
2023.4.5 メルマガアーカイブ
あらかじめお断りしておきます。非常に長いです!(笑)
■「労働VS余暇を超えて」
先月くらいからゆっくり読んでいる書籍があります。
「誰のための仕事~労働VS余暇を超えて~」という本です。
そんなに厚い本でもなく、1週間くらいでいけるかな〜と思っていたのですが、予想に反して「読みにくい」本でした(笑)。
読みにくさは単に相性の話で、筆者の文体が自分の読書脳にちょっと合っていないみたいです。一段落読むのだけでも入ってこないところが残り、そこをスルーすると次でキャッチできないことが増えるので、だいたいこんなこと言ってるんだろうみたいな「自分よがり」をやめないと、先に進めない感じの文章だったんです。
でも、そのように苦労して読むというのはとてもいいことだとも思います。自分が読みやすいものをスラスラと読むという読書体験では得られない刺激があり、読んでいる最中はなかなか進まなくてジリジリするのですが、アクセスの少なかった脳の部分が鍛えらるのを感じます。知性の筋トレですね。
(と言うとなんとかくかっこいいですが、読みにくくて苦戦していることをなんとか意義あるものにして最後まで読もうとしています。)
読むのに時間がかかっていると投げ出したくなる書籍もあるのですが、この書籍に関しては、「読みにくい・・・でも自分にとってすごく必要なことが書いてある気がする」という感触があるので、がんばって読んでいる感じです。まだ最後まで読んでいないので要約はできないのですが、どんなテーマの書籍かと言いますと、ここはもう書籍の紹介文をそのまんま載せます。
たのしい仕事もあればつらい遊びもある。仕事/遊び、労働/余暇という従来の二分法が意味を消失した現代社会にあって、わたしたちが生きることを支えているものはなにか、それは「働く」ことと「遊ぶ」こととどのようなかかわりがあるのか――。人間性の深みまで掘り下げて労働観・余暇観の歴史にせまり、人間活動の未来像をさぐる、清新な労働論。
(講談社学術文庫)
と説明されております。
■労働VS余暇、なのか
解説文では
「仕事/遊び(労働/余暇)という従来の二分法が意味を消失した現代社会において〜」
となっています。「意味を消失した」とありますね。
従来の二分法は、「消失」したのかなあ?
どうだろう。
まずそんなところを思いながら読み始めました。
この書籍を読みながら「違和感」とか「完全同意ではない感触」も含めて感じたことですが、現代は「仕事/遊び・労働/余暇」が「はっきりと分かれている感触」と「曖昧に混ざっている感覚」そのものが「混在」しているように思います。そういう意味で「意味が消失した」という言葉が少し近付いてくるように感じました。
近代以降、「労働」と「余暇」が二分化されたという見方はどうやらできそそうです。日本の明治期おいては、国を近代化させるという大きい単位の目標を進めるうえで、個人は大きな組織のなかの代替可能な歯車となっていきます。細かな要素を省けば、全体としてはそういうその感触や実態が、そのまま強化されながら現代の労働のあり方の土台となっていると思います。
現在の人々の生き方や考え方を見ていると、「労働」と「余暇」は「別もの」という意識が、多くの現代人にとって当たり前にある感覚のように思います。
その「別物感」に関しては、仮に好きなこととか楽しいことを仕事にできている人にとっても、かならずしも「仕事=遊び」という構図にはならないように思われるからです。まして「労働=余暇」という感触は、あまりないだろう、、と。
私自身がそうです。好きなことや、やっていて楽しいことを仕事にしていますが、労働(収入を得るための活動)がイコール「余暇」でない感覚は明らかにあります。仕事の中で「遊んでいるような」「好きにやっている」という時間があったとしても、そこには「拘束」の感触があり、「今、これ以外のことをする自由はない」という感覚はやはりあります。
それだけではなく「受け取る人の満足や喜びにつながるべくパフォーマンス」、つまり自分以外の人にとっての「価値」の創出があってこそ仕事として成立する、というあたりはどうしても意識してます。その時間を「余暇」だとは思っていないなあ、と。
それは雇われている仕事でも、自己管理内で行なっている仕事でも、どちらにもあります。なので雇用契約だったり就業時間だったりという物理的なものに拘束されている以上に、どちらかというと「今は仕事をしており、この時間と行為が生み出す価値で誰かしらから対価をいただき、そして私は生活をしています」とか、「自分以外の人のための満足によって生まれる何かを産まないといけません」という「意識」に拘束されているのだと思います。
人によってこの「拘束」の感覚に程度の差はあるとは思いますが、それでも精神的に「完全に余暇感覚」で仕事をしている人というのは、あんまりいないのではないかなと思います。本人が「私は遊んでいるのが仕事みたいなものだから」と言ったり思っているような人でも、全身全霊100%余暇感で仕事をしている状態ってのはあまりないんじゃないかなと。そこまで行くときっと「労働/余暇」という対立概念(行動における二分化)すらなく、「労働でもなければ余暇でもない」という存在形態と取るのだと思います。モデルを挙げるとすれば岡本太郎なんかが思いついてしまうのです。(もちろん岡本太郎の内面と行為のすべては知り得ないのですが、かなりの純度でそういう人、そういう生き方のように見えます。)
心の底からの思いと実際の行為にギャップがない、というのは、現代人にとっては空想の世界の幻の鳥くらいに遠いもののように思います。それが「労働と余暇」という領域についてもベースになっているんじゃないかな、と。個人的にはそんなことを思いながら読んでいました。
■「生産性」という意識
ただ、この書籍で論じられている「従来の労働と余暇の二分化」というのは、「労働と余暇は分かれているものではない」とか「労働を余暇だと思えるか」というところではないんですよね。(まどころっこしくてすいません。なんせ自分にとって読解しにくい本を読んでいるので、それを説明しようとすると私の文章構成もあまりうまくないのを感じています。)
この書では何を考察しているかというと、
「労働している時の感覚と、余暇だと思っている時の感覚が、同じ感じなっている」
というあたりから始まっています。問いかけでもあります。
また後ほど述べることになりますが、
労働(仕事)に「生産性」を求めるのが当たり前になってくると、
余暇(労働していない時間)にも「生産性」を求め出す
という、対になって作動する意識についてです。
個人的には80年代くらいからの感覚として、世の中にそういう気配を感じていた実感があります。休日も精力的に予定を入れて「なにかしら価値のあることをしないと」という思考が強迫観念のように働いてくる、と。
書籍の中ではそういった視点を持って考察が展開するのですが、この書籍、2011年に出版されていて、そこから12年経っています。10年ひと時代というように、今の感触はそこからまたちょっと変化しているところもあるだろうと思います。
私が感じたのは、いまいま2023年現在の人々の感覚としては、労働が「生産性至上主義」であるのは変わらずですが、それを余暇にも適応させるというよりかは、あまりにも「生産性への奉仕」をやりすぎてヘトヘトな人々や、そんな風に生産性を高めても、普通に暮らしていく中での「負担」がアホみたいに大きい現在、「休日はもう単純に体を休めたい」という必然的な欲求もあり、今度はそれが逆流して、仕事も「できたら休みたい、やめたい、少なくとももうちょっと楽になってくれないともうお陀仏です」という感覚があるんじゃないかと。
それは現在の社会の状態が大きく影響しているのが明白だし、個人個人の潜在的な感覚が集まって集合的なニーズ、価値観になっていると思います。
■骨抜きにされた仕事、そして余暇
書籍では、「労働と余暇」に対する感覚がどう変遷していったかの経緯、そしてそれらの思想の変化が、私たちの生活における行動基準や心のあり方をどのようにしていったか。さらにそれは自己認識・アイデンティティに関わる問題であることも語られています。
そして、
「仕事/遊び、労働/余暇という従来の二分法が意味を消失した現代社会において・・」
そこからいったいどんな現象が起こっているかというところを論じています。
書籍内の言葉をまとめようとすると長くなりそうなので、私なりの言葉で短く言ってしまうと、仕事にせよ遊びにせよ(労働にせよ余暇にせよ)「骨抜き」になってしまった、ということだと思います。現代も人々の「労働」も「遊び」も、筆者の表現だと「浅い」ものになっている、というところが考察されています。
つまり、労働と余暇(仕事と遊び)は、どちらも「浅い」ものになっていて、その本来性を失っている。薄まったからこそよけいに混ざりやすくなり、混ざるのでよけいに薄まり、双方とも「浅く」なる、ということをどんどん進化させていっているようです。
確かにね。ここは頷けるところでした。
筆者の言葉を借りると「仕事が貧しくなっている」。
同じように、遊びも貧しくなっている。
世界的に見てもそうなんでしょうけど日本社会、特にそうなんじゃないかって思ってしまうところがあります。
じゃあ、労働や余暇の「本来性ってなんじゃ」となりますが、その前に「浅くなった仕事、浅くなった遊び」についての説明が続きます。
■浅い仕事、浅い遊び
仕事と遊びが「浅く」なってしまった経緯や理由について、本書に出てくる項目のいくつかを挙げてみます。
ひとつは、「仕事の内容」が大きく影響しており、身体性から離れた知識職であったり、あるいは大きな機械の1パーツのように「狭い範囲の作業」だけを繰り返し行い、全体がよくわからない任務の遂行を繰り返すような労働形態になったことも挙げられるようです。
もうひとつは先にも述べたところで、仕事においての「価値の創出」という目的意識が、余暇や遊びにも侵食している。
余暇も充実させなければいけない、余暇の際もなにかしらの欲求を満たすという価値ある過ごし方をしなければいけない、家でただ休んでいたら「無価値な1日」であり、そうではない「なにか」をしないといけない、という観念が浸透してきた、と。
なので労働をしない日(休み)の日になにか予定を「入れないといけない」し、それは「欲求を満たした、という充実」をもたらすものじゃないといけない。
(「欲求」についても書籍内で多くの紙面をさいていますが、長くなりますのでここは説明を省きますね。)
じゃあそれってどういう行為、と言った場合、
趣味的に何か作ったり、
趣味的になにかを習ったり、
趣味的に旅行したり、
趣味的に勉強したり、
「健康のために」運動をしたり、
別の言い方をすると、仕事に差し支えるほどのエネルギーを注がずに、「無理のない範囲で」何か心楽しいことや健やかなことをする、という感じです。運動も怪我をするほどの入れ込みではなく、あくまで心身の健康のために行う。また、ステイタスとかアイデンティティに関わる要素を捨ててしまう程はのめり込まない、そのくらいの”あいばい”で遊ぶ、という感じ。
全身全霊で遊んだりしない、という感じかなと。ここにはそもそも、「労働」という行為に時間や体力だけではなく、アイデンティティの拠り所までをも明け渡している意識が働いているからだとは思います。
これについては非常に考えてしまいました。
私に関しては、人々が趣味を持つのはいいことだと思ったりしますし、仕事をしながら生きていたり暮らしの中で大変なこともいろいろある中で、息抜きとして必要じゃないか、と思っているので、小旅行いいじゃない、日曜大工いいね、韓流ドラマが好きだから韓国語勉強してるんだね!いいね!と、肯定感は持っています。運動なんかに関してはやはり、健康のためにやることを肯定も奨励もしています。
■「あっち」に行く、深い遊び
ただね!
筆者の指摘する「浅い遊び」というものが言わんとしていることはわかります。わかるんですよ。なぜなら私が、「浅い遊び」ができないたちなので。
最近は年齢があがってきたので、健康のための運動がいかに人々の基礎的な幸福に必要か、ひしひし感じていますよ本当に(笑)。だから、あまり無理なく続けていくことができる運動習慣を見つけましょうね!ということは奨励していますし、今後もそこは大事にしていく方向です。
ただ、「そうじゃないもの」がある、というのを経験的に知っています。
私の過去ですが、アフリカの伝統舞踊を習いに西アフリカに何度も赴いていました。練習は毎回、喉が血の味になるようなものでした(笑)。必ずしも踊りやすいところで練習が行われるわけではなく、炎天下の浜辺の日もあったし、建物の屋上や家の中庭で、灼熱太陽のもと、足元はコンクリで基本裸足、という場合も多々ありました。根本的な体力や環境への耐性が破壊的に違うアフリカの人の熱いレッスンを受ける中で、具合が悪くなる日もあったし、途中何回かは寝込む日もあったりしました。過剰な運動に関節を痛めたりすることもありました。
でも、それでもやるんですよね。
なんでやるか。
それは、今の私の言葉で言うと、「彼岸(あっち)」に行けるから、なのです。
「あっち」に行く幸福がある。
毎回行けるわけじゃない、だからこそ喉が血の味になるような練習をして、「行ける」よう訓練するんですよね。「あっち」に行くには、「浅い」行為では練習にもならないので、必然的に「深い」ことになってしまうんです。
この感触はヨーガもまったく同じだし、身体運動ではない行為でも同じだと思います。絵を描くのも、音楽も同じだと思います。芸術的な活動に限定されたものでもないです。何かの分野での勉強とか、語学とかでも同じだと思います。普段の行為でも、浅い深いはありますね。
浅いヨーガは、心身の健康を養うもの。
こっち(日常)の人生の助けになるもの。
深いヨーガは、なんせ解脱が目的ですよ。
そもそも「あっち」に行くためにやります。そこに日常はないです。
ここでは、「浅いからだめ、深いからいい」っていうことじゃなく、行為の深度で「何をしているか」がそもそも違う、というところを着目してもらたらありがたいです。浅いヨーガはそれはそれで役に立つし、健康は大事なのでやるのは良いのです。しかしそれで「あっち」には行かないし、そのくらいでは到底行けないんですね。
「あっち」ってなんだ。
これまた私の言い方になりますが、「生と死の結合」です。
行為において、死に近づくことで生の純度を高めること。そこには日常的な意識では体験し得ない、根源的な生命の質感と一体化することだと思います。それが「深い遊び」であり、「深い仕事(行為)」なんだと思います。
なんでそんなことするのか。
それは、本当の元気が得られるから。あるいは、そういう形でしか摂取できない特別は栄養があり、魂はそれがエネルギーだから。
■浅い遊び・生産性に侵食されてしまう創造性
「浅い遊び」について。
例えば私が思いつくものだと、
余暇の時間を何回かあてれば取れちゃうような「資格」とか、最近はサブスクでいろいろなものが浅く広く学べるサービスもあったりする。
音楽教室とかも、好きな楽器選び放題、飽きたら別の楽器に変えてもOK、先生も相性が合わなかったら変えていいです、みたいなスクールもたくさんある。
多くの人が「ちょっと知れる」「気分を味わえる」ワークショップみたいなものが好きで、そのくらいが都合がよく、それ以上に踏み込んでくる人は一握り。仕事に差し支えなく、健康を守れる範囲でいい。生活や仕事に使うエネルギーを捧げるほどしなくても、ある程度の満足ができるもの。
そういったものはそこらじゅうに溢れています。これは「仕事」が浅くなった時系列と並行しているんだと思います。
一番感じるのは、自分のいるフィールドです。
「ヨガ」という界隈。
一線を超えて深いところに踏み込んでくる人は本当に少ないです。ヨガインストラクターという職業であっても、スタジオで「可もなく不可もない」レッスンをするんだったら、そこまでの「深い」仕事はしなくていいし、「深い経験」もいらない。
そこを何年も見てきたので、「深い仕事」と「深い遊び」は一人の人間の中でどちらかだけが作動するものでは本来なく、同調して起こるものなんだろう、と思ってしまいます。
これは世間への諦めに近い感慨ですらあります。仕事が浅くていい人は、遊びも浅くていいし、人生も薄味でいいんだろう、と。それもある部分では理解はできる。深い遊びや深い仕事には、存在をかけたエナジーをつぎ込むことになるので、そこまですると大変じゃん、ブレーカーあがっちゃいます、となるよね。と。
ただ、やはり思うは、「浅い」って本当は疲れるんですよね。浅い薄味の生き方で収めておく、というのは疲れるんですよ。だから多くの人が、労働にせよ余暇にせよ、浅い行為の繰り返しに疲れている。
本当は、仕事であれ余暇に行うことであれ、「深い行為」というものを通じて自分の内面的・根源的生命力を引っ張り出して、自らがそれを浴びることによって次の深い行為へと進むエネルギーになっていくんですよね。
それはなにも「体力を使え」ということではないです。体力の使用と行為の深みが連動しているタイプの人もいるけど、そこは関係ない人もたくさんいる。
「深い仕事」というのは、自分の奥の方にある濃厚なエッセンスを自分で掴んで世界に差し出すことだし、同じ定義が「遊び」にも言えます。そういう行為は、行為そのものが「創造」に等しいんだと思います。
しかし現代はその「創造性」が「生産性」に取って代わられてしまい、多くの人たちが人生のあらゆる領域で骨抜きになり、それによって労働にせよ余暇にせよ、浅い行為しか選べなくなってしまっているという社会の構造があります。
そういうところにいち早く危機感を持つのはアーティストが多いものです。
また岡本太郎を出しますが、彼のような全てにおいて「浅い」行為など選択しない人は、「人類の進歩と調和」をいうテーマを掲げた1970年の大阪万博にあたり、
「万国博は祭りだ。祭りとは無償で、無目的な行為である。
万国博ではおよそ進歩したものを否定してかからなければだめだ。
本当の調和は、徹底的に対立し、闘うことによって、
もっと高いところに生まれる。」
と言っています。
そうして深すぎる仕事をした挙句の果てにできたものが、こんな感じ。
「太陽の塔」は、その姿を実際に見ると言語化し得ないエネルギーを感じる人は多いんじゃないでしょうか。それをなんと表現していかわからないような力。
そして言葉にはできなくても、元気になったり、勇気が湧いたり、また明日から生きていけるエネルギーを感じる人も多いんじゃないかと思います。
それが、「深い仕事」の生み出すものなんですよね。
岡本太郎のように生きろ、という意味ではないのですが、仕事にせよ遊びにせよ「浅い」行為を繰り返せば繰り返すほど、自分はどんどん薄まっていき、精神的にも肉体的にも基礎エネルギーが少なくなっていくように思います。そうなるとまた、その少ないエネルギーでできそうな「浅いこと」しか選ばなくなる。
そういう循環の中にいることに慣れきっている人がほとんどで、それでいいという人もいるのは知っています。ですが、日々の生活や人生に疲れを感じているようなら、深い何かを自分の中から引っ張り出すような「遊び」なり「仕事」をする必要が、どうやらある、と私は思っています。
■江戸時代の人々が何かを教えてくれた
で、ちょっと話の景色は変わりますが、3月中、私は「江戸時代の日本の絵画」の鑑賞する機会に多く恵まれました。
というのも娘が「日本の絵」が好きで、春休みに行きたい展覧会を制覇するという美術館巡りをして、一緒に行けるものに関しては私も行ったのですが娘のリクエストに合わせていたら日本の絵画祭りになったんですね。
一緒に行った展覧会はたまたま「江戸時代」特集が多く、巨匠たちの仕事である屏風とか掛け軸など格調高い芸術作品や、江戸時代と言えばの浮世絵などを、短期間に爆発的な量を観ることになりました。
「浮世絵」を観ていて感じたことがありました。
浮世絵は江戸の人々の姿や生活がてんこ盛りですよね。
江戸の文化がとても豊かでおおらかだったことは言われていることではありますが、改めて思いました。
人々の内的発動のありようが、
現代人のそれとえらく違うのだろう
という感触です。
「それはそうでしょ、だって時代が違うもん」と簡単に片付けてはいけないものがそこにあるなと。
「誰のための仕事ー労働VS余暇を超えてー」を読んでいたせいが絶対にあるのですが、浮世絵の中の仕事をする人や遊ぶ人を観て、遊ぶかのように仕事する労働基礎体温がバカ高い仕事人たちや、地位も財産も面目もすべて破綻するレベルで全存在をかけて遊んでいる人々、そして「深い余暇」を送る庶民、そういう豊かな様子を多くの絵の中に発見できました。
で、それが「日常」であることの驚き。
イベント時じゃない。
みんな、いつも、そんな感じ。
(だったんではないか。それを裏付けるのは、イベント時である大火事とか祭りとか戦いとかだと、さらにエネルギーが高くなるから。)
生活全体の人々のエネルギーの厚み、ですね。
うーーーーん、と唸ってしまいましたね。
なにか、めちゃくちゃ大事かつ、行為に変換すべく重要なことがわかりそうな気がしたのです。
過去あったけど、今は薄まってしまったもの。
でも、まだ言語化できないです、すいません(笑)。
こういう風に記事にした時、読んでくださっているみなさんが自然と求めてしまうであろうこと。
「で、今日は何が言いたいの?」
っというところまで、今日は書けそうにない、という感じです(笑)。みなさんの中でモヤモヤしてください。ここまでの話で、自分の中にあるものを探ってもらえたら、これもまたひとつの対話として成立するようで嬉しいです。
今回取り上げた「誰のための仕事~労働VS余暇を超えて~」を読み進め、寝かせつつ、また書きます。
たぶんアートの方向から語ったらうまくいくような気はしてはいます。あるいは、神話とか、昔のお話の中に哲学的なエッセンスがあるように感じています。
こんな長いのに最後まで読んでくださってありがとうございます!!
ナマステ
師岡絵美里
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