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最近ビリー・アイリッシュを聴き始めて、この前出た新しいアルバムがかなりいいなあと思っていたのもあってApple TVのドキュメンタリー「世界は少しぼやけている」を見たら、曲を聴いてなんとなく感じていたよりも本人が10歳ぐらい若くて驚いた。なんかすごい。そして一緒に曲を作っているお兄さん(フィニアス)もすごい。

この二人は、自分の気持ちや感情や欲求やなんだかそういうものを見ることができて、素直に表現できるのだろう。そうでもなければ、あんな曲は作れないのではないかと思っている。


なりたい自分は、彼らのように自分の気持ちや感情や欲求やなんだかそういう形のないものを見ることができる自分である。まるで見えないもののように無視し続けるのではなく。

この歳になっていうのもおかしな話なのはわかっているが、無視し続けてきちゃったんだから仕方ない。時間は戻らないし。

朝の通勤電車の中で、窓から見える歯医者の看板をぼんやりと眺めながら、もし鹿(動物の)が歯医者をやるとして、医院名を「歯科鹿」と「鹿歯科」のどっちにすればよいかなどとパーツたちと脳内会議している場合ではないのである。

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前回の記事で意外にも駄菓子屋が弱点だったことを書いた。弱点が駄菓子屋という人もちょっと珍しいのではないかと思う。同じく、多分少数派だろうと思っているものに、祖父母との関係がある。とにかく希薄なのである。

父方の祖父は、父が子どもの頃に死んだので会ったことがないし、どんな人だったのか何も知らない(写真も1枚しか見たことがない)。祖母は、同居はしていたが、これまで書いてきたことからわかるように、ほぼ会話したことがない。お年玉や入学式などの世間的によくあるらしい祖父母イベントでも、何ももらったことも会話したこともないし。というか、お正月とかどうしていたのか全く覚えていない。

母方の祖父と祖母は、遠く離れた場所に住んでいたのと、そもそも母親が虐待されていたこともあって、少なくとも記憶に残る限りは片手で数えられるぐらいしか会ったことがないと思う。しかも、記憶は断片的である。祖父母イベントについても父方と同じ。

なので、大人になった後にパートナーの彼女のおばあちゃんに会ったときは、それまで話には聞いたことがある「祖父母との心温まるふれあい」を感じられて本当に嬉しかった。手を見て「本当に綺麗な手だね」と言ってもらえたことなんか、多分、これからも千年は覚えていると思う。今から考えると、よく知らない人のはずなのに触ってもらうのは何も嫌ではなかったのだな。


母方の祖母は今でも生きている。30年は会っていない。

でも、自分の気持ちや感情や欲求やなんだかそういうものをよく見てみたら、別に嫌いでもなんでもなかった。おばあちゃんのことは。

単に、自分から積極的に会おうとは考えてもみなかっただけで。
会うという選択をいつでもできることに気づいていなかっただけで。


ということで、生きている間に一度会ってみようと思う。
30年ぶりに。


ちなみに医院名は紛糾の末、「デンタルクリニック鹿」になりました。


#なりたい自分