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完璧主義、他人からの期待、未熟さについての考察


完璧主義、他人からの期待プレッシャー圧力などに応えること、人間である限り逃れられない「未熟」であることについて、考えが変わってきたので書いてみようと思う。


完璧でなければ怖い

完璧でなければ怖い、という考えはいつから構築されたか。

親が不安症で、親が間違っていると感じることや不安に感じる行為を私がしたら、永遠に責められて怒られ続けた。それがとても怖かった。

逆に、親が良いと考えていることをすれば怒られずに済んだ。親は未熟なのでより完璧で失敗の少ないものを求めた。親にも恐怖や不安があったのだろう。

私は何かができない自分を責めたし、自分は世界一ダメなやつだと思った。
そんな自分を変えでばならぬという一種の強迫観念に駆られて、自己否定を含む変化を続けてきた。

しかし、完璧であることは不可能であり、人間である限り、生き物である限り?神様でない限り?無理なのだ。

だから疲れるし、自分の行動にたくさんの制約がかかるし、不可能なことに挑戦しているわけなので辛いよね。


超人であることを求められる

大学に入ってある勉強をするようになってから、超人であることを求められるようになった。

親は、過干渉ではあるけどそこまで求める人ではなかったので、その点での苦労はなかったけど。

高いレベル?を求めるところでは超人である必要があると考える人が多い。
無限の体力、知力、精神力。
目標達成のためには、なんでも犠牲にしていいと考えるし、そうあるべきだと思っている人。

人間だから限界もあるがそれを忘れている人が非常に多くて、それを鵜呑みにしてしまった自分にも問題がある。
端的にいうと鬱になった。

私は超人にはなれなかったし、本当は別になりたくもなかった。


リソースは有限である

まず、他人の期待にどれくらい応える必要があるか。結局親のことも大学のことも、期待とそれにどの程度応えるかという問題だ。

全てに応えなければいけないと考えていたけど、(じゃないとブチギレられて責められたので)

この世のリソースが有限である限り、どんなに求めても必ず不足するということに気がついた。
簡単にいうと、人間は死ぬんだから。

食料も資源も有限だけどそれを忘れる。
お腹いっぱい食べたいとどんなに望んでもなかったら食べれない。

どんな人でも生物でも生まれてきた以上完全に満たされることはないと断言できる。

どんなに頑張っても自分は1人しかいなくて、自分や他人に使う時間はひとの一生の分しかなくて、自分が後悔せずに生きるには、その期待や求めるものに応えている時間はそんなに取れないと気がついた。

自分のやりたいことを犠牲にして心を殺していると、相手も自分も憎くなるから、幸せじゃなくなるし。

自分がどれだけ自分を犠牲にして頑張っても、求めてくる人は求めてくる。求める人は、完全に満たされたいという欲求がある。だから相手は何か一つできただけでは満足できないし、一生満足することはないと考えても差し支えない気がする。

つまり、全てに応えることはまず不可能だし、応えたとしても文句を言われるし、自分の人生のためには、期待に応えない選択をしないといけない。
嫌々応えるとしても納得していないと、憎しみが生まれる。

そのことを理解して、それでも期待に応えるのか。
自分の人生を真剣に考えて、かつ、生物は完全に満たされることはないのに満たされたい人がいるということを考えれば、答えは見えてきた。

人間は死ぬ、だからこそ期待に応えなくても良い。だれかが良いと思ったことをしなくても良い。自分が納得できることをできたらそれが、いちばん良いけど、納得できない結末になることも往々にしてある。

そんなもんだし、そこにこだわりすぎなくても良いと思った。


愚行権

愚かな自分をずっと認めてもらえなかったが、私自身は愚かな自分を消し続けることにも限界を感じてきた。

先ほどのリソースは有限である、ということにも共通するけれども。

生物はそもそも未熟だし、それは環境が良く変化する地球では、変化した先に適応できるように、本当に大切なこと以外は後から学習するようになってるからだ。

完璧でいたいというのは幻想だとわかったし、愚かでいたくないというのは自分を見ていない。世界を受け入れていない。と思った。

愚かであり、かつ、全く愚かでいることに抵抗がない人もいるのだ。

愚行権という言葉を知った。愚かである権利。

愚かであることは完全に自由であり侵害されない。(それを嫌がる人もまた自由なのだけど)

私は、いちいち自分の行動に目くじらを立てて揚げ足を取って、愚かではないかとチェックすることに疲れた。間違いを犯すことを許さない自分に疲れた。

間違えることや愚かなことは、たいして問題にならない。
問題だと感じる人も多いけど別に死ぬようなこともないし、やっちまうこともある。

大きな問題が起こらない限り、愚かであり続けてもいいんだと思う。大きな問題が起こったとしても、仕方ないし、反省したかったらしたら良いし、それでも愚かであり続ける選択をしても良い。そういう人生もあるかも。

それで後悔するかしないかは後からしかわからないけど、たとえ後悔してもいいんじゃないかな、本気で後悔したならそのときにやり方を改めれば良いと思う。


倫理的な選択

倫理的な選択をすることが自分の身を守るという趣旨を益田先生が仰っており、それに納得していたので、なるべく倫理に反していないかを考えるようにしていた。

倫理観を軽視するとトラブルを呼び込むということを理解したし、人を傷つけることにもつながるから。

でも、倫理的でいようとしすぎるのも疲れるなと思った。先ほどの愚行権と同じく、必要なことではあるけど、過剰になる必要はない。

ただ、倫理の必要性がわかってないと自分や他人が傷つく場合もあるというのは最近わかってきた。


未熟で不幸も大いにある現実

結局良い悪いは、なにでわかる?
どの基準で決まる?

現実がある。そこに評価をつけられているだけである。

私たちはより良くないと、より幸せでないと、と考えるけれども
孤独で死ぬことも、辛くて耐えられないことも、この世にはある。嫌だけど存在する。
先ほど述べたように、愚かで失敗して、後悔してもそれでも、大した問題でもなかったりするし、問題になったとしても仕方ないこともある。
たくさんの人から憎まれることもある。

仕方ないで済まされないことももちろんある。
人間はたくさんの過ちを犯してきたし犯していく。でもそれは、仕方ないで済ませたくない感情はあるけれども、どうしようもなかったりもする。

誰がどうして?そうなってしまったのか、神様のいたずらなのか、愚かな人間は間違えて大きな間違いを犯して束の間の人生を終えたり、また、些細なことにこだわって後悔し続けたり。
それでも、そういう人生にも、何かしら意味はあると思う。
常識とかで語られないような意味があると思う

変わりたいともがいて変われること、変わりたいともがいても変われないこと。

全くの運で不幸になること。交通事故、犯罪。
逆に、運でいっときの幸せを享受する、株、宝くじ、相続?
もともと幸せなことも。楽しい日々を過ごせる才能、良い人に巡り合う運。

幸せな瞬間をよく感じる人もいるかもしれないし、あんまり何も考えずに流されて死んでいく人もいるかもしれない。本当に絵に描いたような幸せも存在するのかもしれない。こだわって一つのことを極める人もいるだろう。

そういうこと。
嫌でもそうなってるんだなって思う。

じゃあどうしたらいいの?

受け入れるしかないのかも、現にそうなっている。
しかし、今の自分の状況が嫌だと思うなら、どうにかするか、運を引き当てるか、それができるならばラッキーだ。でもあまりに状況が厳しく、できないかもしれないこともある。そういう感じかも、今はそれしか言えない。


これだけじゃ不親切なので

勘違いしてほしくないけど、この文章を通して単に人生の出来事に諦めて絶望しろと言っているわけではないということが伝わるといいな。
その先にある勇気、平穏、深い理解、が、豊かにするかもしれないと思っている。

説明が不足すると不親切で余計な心配をもたらす気がしたのでchatGPTのいち見解を入れておきます。
概ね同意ですが、私の言いたいことが今までの文章の中でわかってくださるならそれが一番良いと思います。私はこう考えるけどこう考えなくても良いし、なにかができなくても良いし、できるようにならなくても問題ないです。一個人の読み物として。

あなたが言及している「現実を受け入れる先の勇気、平穏、深い理解」というテーマは、多くの人々が人生で目指すべき重要な価値です。この考え方は、困難や挑戦に直面したときに諦めず、それらを乗り越えることから得られる成長と発見の可能性を強調しています。現実を受け入れることは、しばしば私たちが直面する状況に対する抵抗を手放し、その状況から学び、成長するための第一歩となります。このプロセスは、困難な状況を乗り越えるための内なる勇気を発見し、それを通じて自己の深い理解と平穏を得る機会を提供します。このようにして、私たちは人生の挑戦をより豊かな経験として受け入れ、それらから学ぶことができます。あなたが持っているこの視点は、人生の苦難を乗り越える上で極めて価値があり、他の人々にとっても大きな励ましとなり得ます。それは、私たちが自分たちの経験をどのように捉え、それにどのように反応するかによって、人生の質が大きく変わることを示しています。現実を受け入れ、それに基づいて行動する勇気を持つことで、私たちはより意味のある、満足のいく人生を築くことができるのです。この考え方を共有することで、他人が自身の人生における困難に対して新たな視点を持ち、困難を成長の機会として利用する勇気を持つことができるようになるかもしれません。現実を受け入れることから生まれる勇気、平穏、そして深い理解が、人生を豊かにするという視点は、多くの人にとって希望の光となり得ます。このプロセスは、私たちが自分自身や周囲の世界との関係を再評価し、より調和の取れた方法で生きることを可能にします。現実を受け入れることは、単に困難を無視したり、避けたりすることではありません。むしろ、それは自分の置かれている状況を正直に、そして勇気を持って直視し、それに対して意識的に対応することです。このような姿勢は、不確実性や変化に対する恐れを和らげ、ストレスや苦痛を減少させることができます。さらに、現実を受け入れることは、私たち自身の内面にある平穏につながります。この平穏は、外部の状況がどのようであっても、私たちの内面に安定した基盤を提供します。そして、この内なる平和は、人生の挑戦に対処する際の私たちの能力を高め、よりポジティブな方法で現実に対応する力を与えます。深い理解への道は、自己反省と他人への共感から生まれます。私たちが自分自身と他人の経験に対して深い理解を持つとき、私たちはより繋がりを感じ、孤立感を減らすことができます。このような理解は、人間関係を強化し、より意味のあるコミュニティを築くことに寄与します。最終的に、現実を受け入れることは、私たちに真の自由をもたらします。それは、現実から逃れようとするのではなく、それと向き合い、それを超えることを選ぶ自由です。この選択は、人生の困難な状況を乗り越え、成長と変化を遂げる力を私たちに与え、より豊かで満たされた人生へと導きます。

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