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「時間軸を自分の中から取り去る」生き方について

カーテンが風で揺れている。私の部屋のレースカーテンは、小さい緑の葉っぱが刺繍されている。冬は窓を開けて過ごすことができず、ここ最近になってようやく空気を循環させられる暖かさになり、寒さが苦手な私の喜びだけでなく、小さい葉っぱ達もユラユラかわいらしく動くものだから、私はこの季節の変わり目が好きだ。

開けた窓の隙間から子供達の声が聞こえる。最近の子供達は時代の変化と相まって外遊びが減ったらしい。それでも自然が残るこの辺りでは、まるで自分が子供だった頃と同じように、縄跳びや丸ふみ、そんなどこか古い遊びをする姿が見られる。

私はその声をBGMにして本を読み、そして考えている。

最近年を取ることが怖くてしょうがなかったのだ。

今まで、年を重ねていくことに対して何一つ抵抗意識がなかった。それは誰しも通り道であり、どれだけ抗っても時間は流れていく。だから無意味な抵抗だし、その分経験を獲得できることに私はどちらかというと喜びを感じるタイプだった。それなのに今年で29歳になる私が突然、どうしようもない不安と恐怖を抱えてたのはなぜだろうか。

第一前提、私は子供を産みたいという気持ちはない。可愛いと思うし、子育てをする世のお父さんお母さんたちを尊敬している。私は子育てで得られる喜びやプラスの面よりも、その反対側ばかりを見てしまうがため、きっと責任をもって子供を育てることができないだろう。普段から神経質なところを自負している、そんな私が子供に寄り添い続けられることに自信なんてあるはずがない。子供よりも自分が潰れる未来が見えている。だから「産む」ことに対しての憧れを今までの生涯で1ミリも感じたことがない。

世の中は「〇〇ハラスメント」という言葉が既に認知されている。私の会社でも定期的にそういった「ハラスメント研修」が実施されているため、新卒・再雇用、どんな年齢層でも知識を得ている。でも知識があるからと言って経験がないといえばウソになる。

入社して一年目。当時組織のリーダーだった女性に言われたことは「子供を産む予定はあるの?この職場にいたら結婚は難しいわよ」だった。「マリッジハラスメント」と「子なしハラスメント」の両方の武器を急に向けられて、私は曖昧に笑い返すしかなかった。あの時、何を言ったら正解だったのだろう。出世欲をアピールすればよかったのか。それとも周りが女性だらけのあの職場環境の中、子供を産む気持ちはないことを、堂々と伝えてよかったのだろうか。


第二前提、私の両親は私の考え方を尊重してくれている。「子供を産むも産まないも、本人の自由」と母は私に直接言うし、父も「既に孫(私の姉には子供が二人いる)はいるし、親としてどうこう文句を言うつもりはない」とビール片手、酔っ払いながら語る。問い詰められるようなこと、急かされたことは一度もない。私の主張を第一に考えてくれる、ありがたいことだ。


第一前提と第二前提を踏まえて、自分の意志が尊重されるのに、私は実体の見えない何かにおびえている。それは「第三者からの視線」なのだ。「子供」について話が出ると怖い。自分の考えが誰にでも通るとは思っていない、甘えだといわれる可能性がある。そんな他人の意見に、現実言われてもいないのに「言われたらどうしよう」と考えてしまい怖いのだ。「変」と言われたくない。「結婚・子供」がステータスとマウントを取られたくない。

自分が自分の選択を主張し、自分として生きることがどうしてこんなにも難しいのか。すごく単純な話、その理由の一つとして「考える時間を持ちすぎていること」があげられる。有名な話、人間は一日のうち6万回(だいたい5~7万回の範囲内で書籍に記載されていることが多い)の考え事をしている。その一日を一人で過ごす時間が最近顕著に長くなり、誰かといれば考えることのないようなことを延々考えていることが一つ。

自分の人生・未来を思い描くことは大切だ。でもタイミングや心境がバッティングしてすべてがマイナス思考となり、自分の今後を怖いと感じてしまうのならば、その思い描きは決して良くないだろう。起きてもない不安に脅え、実体のない視線を気にし、自分で選んだ選択をわざわざブレさせるようなこと、一体その時間私の何が成長しているのか、よく考えなくてはいけない。

私たちは過去を悔やみ引きずる、そして未来に期待と不安を覚える。そして今、その両方を信号を渡る子供のように「右・左・右」をしていて、いつまでたっても横断歩道を渡れない状態なのだ。「今、ここに集中する」という概念があるけれど、理解をした上で捻くれ者の私はその言葉がどうしても嘘くさく感じる。特別感のない演出で安易に使用されまくっているから。だから私は別の言葉で意識を持つようにした。


「時間軸を自分の中から取り去る」ということ。

当然仕事上の納期等、時間の感覚を100%なくすことは不可能だ。人との約束でスッポカシをすることは何とも情けない。でも自分の考えている通常思考の中での時間軸を取り去っていくことはできるのではないか、と考えている。

時間軸があるから過去と未来を行ったり来たりする。今の自分を考えることができないのは、右左の存在があまりに過剰に飾られたドラマチックなものだからだ。今の今、窓の横でパソコンにカタカタと文字を打ち込む。纏めたいのにうまく纏められないもどかしさを抱えている自分なんて何一つとして面白くない。それでも人間は過去を生きられない、未来を生きられない、今しか生きられない。どんなに退屈なことでも、どんなに上手くいかないことでも、そして時たま楽しい瞬間の「今」を生きるために、過去と未来なんて時間軸を取り去ってしまえばいいのではないか。

過去のことは過去の私がしたこと。未来のことは未来の私がすること。そして今の現状を変えるのは今の私しかいないこと。今を積み重ねるしかないこと。

そうして訪れる過去と未来はもう受け入れるしかない。運命だったと思うしかない。そうなると決まっていたと思うしかない。悪いことも良いことも自分の「今」の積み重ねの選択によっての導きであり、自分にとって必要だから起こる出来事であり、受け入れられるのも自分しかいない。

そんな風に考えるようになっていた。


私はきっとこれから先も、唐突に不安を覚えたり怖くなったり寂しくなったり、そんな切ない感情を抱くだろう。それでも私ができることはただ一つ。「今」を生きることしないのだ。「今」自分がしたいこと・すべきことをして生きる、それが一生懸命ということなのではないか、と思うのだ。


時間軸にいつまでも振り回されないために、時間軸を自分の中から取り去って、「今」を生きる。

日が落ちてきた。子供たちの声はどこかへ消えた。みんな帰る場所がある。私にも大事にしたい場所がある。「今」を生きよう。「今」を大事に積み重ねて生きよう。

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