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全てを共有する必要はない~「真珠の耳飾りの少女」への憧憬

私には「恋人・友人と一緒に行かない」と決めている場所がある。ディズニーランドではなく、上野恩賜公園・不忍池のボートでもなく。

それは「美術館」だ。

まず、私の母の話をさせてほしい。母はとても好奇心が強い人だ。東洋・西洋文化、美術、建築といったあらゆる芸術に対しての感度が異常に高く、テレビや雑誌の特集から日々その目を養い続けている(最近は技術力に感銘を受け「魔改造の夜」に夢中だ)。ただ一人で電車を乗り継ぎ都内へ行くことに抵抗があるため、私=娘が中学生になって以降、娘の部活休みと娘のテンションを調整し、何度も東京美術館へ訪れてきた。

対して娘の私は母の付き添い感覚だった学生時代を終え、芸術に抵抗がなくなったが、美術館へ行くときは65%くらいのライトな気持ちで向かう。勿論、目的の作品実物を見られることに喜びを強く感じるが、その一枚にたどり着くまでの多くの展示物に対して、平等に興味を持てるわけではない。つまりは究極のミーハーなのだ。

例えばフェルメール展の時は「真珠の耳飾りの少女」その一枚についてのみ、あらゆる考察という考察を読み込み、時代背景・フェルメールの当時の状況についてを勉強したうえで美術館を訪ねた。正面から、少し斜めから、後方から、ほんのちょっとしゃがんで、そうした絶妙な距離を取りながらあの「美しい青い少女」にだけ惚れ込んだおかげで、その一枚以外何一つとして覚えていなかったほど。


そんなミーハーな私と常に芸術100%の母は当然同じスピード感なはずがない。ゆっくりと、まるで絵の奥の景色を動画として捉える時間を過ごす母とは離れたところで、私はボンヤリと入館者をただ見続けている。私の頭の中では動かないどんなに美しい絵よりも、分かりやすく生きて動いている人間の方が、あの空間、私にとっては息がしやすいのだ。


沢山の人がいる。
母のように一枚一枚丁寧に自分なりの背景を考えている人。音声ガイドを活用し効率よく見解を深める人。私のように目当ての人作品に注力する人。列は気にせず自分のペースを守る人。

或いは、誰かの付き添いで来てみたものの飽きてしまいベンチでぐったりしている人。撮影OKな場所で「#」をつけてSNSに投稿しそうなお互いの後姿を取り合う人々。ヒールのカツカツ音を気にすることなく走っている人。

「人それぞれだな。」と本当にそれだけを思って人を見ている。私も当然そのうちの一人で、美術館でボケーっとしている人に見られているはずだ。


「芸術って何だろう」美術館からの帰り道、漠然とそのことについて考えていた。よく言われる言葉は「あってもなくても、生きていけるもの」。近年日本のみならず各国で災害が相次ぎ、苦しくも避難を余儀なくされている方々の避難バックの中には、きっと絵や器など、目に見える芸術が入っていることはほぼないだろう。

ただ言えることは、形のあるものだけが芸術ではない、ということ。実物を見たときの記憶、作者・作品・時代について勉強して学んだ教訓、それらを当てはめて考えた自分の未来。共感や喜び、恐れや不安。そういったものを少しずつ体の中に蓄積させ、充実してきたゲージが気が付いた時、私達を強くする栄養になっている、支える糧になっているのではないか。


そもそも美術館には何もコレクターだけが集まっているわけではない。心の中にその一枚の思いを募らせて訪れてくる人が集まる場所なのだ。

再三だが、美術館にはいろいろな人がいる(例えば「ひまわり」にトマトジュースをぶっかけるような行動は品のない悲しき例外だが)。その人の芸術に対する見方であり、初めて訪れる人と大ベテランとの慣れによるマナーの差でもある。人の行動に対してマウントをとるような恥ずかしい空間ではないのだ。イライラすべきことは何もないのだ。少しずつ個人が作品と向き合って、自身にとっての宝を心で育んでいければ。個人と芸術のつながりをもっと暖かいものへ変えていけるのではないか。そんなことを考えていた。


話を先頭に戻すと、「恋人・友人と一緒に行かない」と決めている理由はここにある。私と母はお互いのペースを15年間かけて把握している。そして尊重しあっている。お互いの見解を批難しないのは人と芸術のつながりはそれぞれだと十分理解しているからだ。

ただ、恋人・友人との関係が同じであるとは言い難い。感覚を知らない相手と芸術に向き合うと、悪意なく論破されたり、自分のスピードで作品と向き合えなかったり、「芸術好き」の言葉にはジャンルを含め奥行き・幅がどうしても存在する。


素敵な美術館デートを夢見た少女の日々もあった。だがそれ以上に、自分の本当の心地良さを簡単に手放してはいけない。相手への気持ちも、あの空間も。一緒にいるからと言って全てを共有する必要はないのだ。一緒にいたいからと言って全てを語る必要はないのだ。自分の心を丸ごと渡す必要はないのだ。同じように、全てを理解しようとしなくてもいいはずなのだ。


改めて、芸術とは何なのか。上手く言葉にできるほど達観してない、私はまだまだ未熟だ。直感で思いついたまま今の私の言葉で伝えるとしたら「私と美しい青い少女との恐る恐るの距離感、そして情景」と言わせてもらう。

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