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最近の記事

デイヴィドソンの個人言語論、及び私的言語の可能性

 ※本稿は尾形まり花「私的言語はどのように不可能であるのか:デイヴィドソン的外在主義から」の要約と注釈が中心だが、参照が不十分である。 1.     私的言語論を二つに分ける-私的言語不可能論と基準・規範性論と  前回の発表で尾形の論文に乗っかりデイヴィドソンの私的言語論について検討した。デイヴィドソンは個人言語(idiolect)と私的言語(private language)を区別して考え、前者を公共的なルールに基づかないで使用される言語、後者をただ一人の人間のみが理解

    • 自然はどこにあるのか?(ボードリヤール『消費社会の神話と構造』への脱構築的批判)

      ボードリヤールは『消費社会の神話と構造』において記号化された自然/人為の対比の欺瞞性を繰り返し指摘しており、その上でそれらの対比の外に記号外的な真の自然があるとしている。いくつか例を挙げよう。 ①第二部第一章「消費の社会的論理」では、ガルブレイスに代表されるような成長イデオロギー(パイが増えれば皆豊かになる)を批判して、構造的差異化、つまり、階級や教養といった様々な社会的カテゴリとそれに結びついた記号としての消費の論理を指摘している。この議論を踏まえて、章の最終節「旧石器時

      • 『キリスト教の精神とその運命』のヘーゲル(とデリダ)に関するメモ

        ヘーゲルにはErinnerung(しばしば「内化する想起」と訳される)の哲学者と言えるところがある。概念を理解する際、あるいは歴史と自己との関係について述べる際、ヘーゲルはあらゆるものについて、自らのうちに取り入れた上でその意味を主体において起源と全く同じ仕方で反復することを求めている。 ヘーゲルにおける主体性と客観性の関係を彼の聖餐についての記述から確認しておこう。 「飲食という行為は単に対象を無くしてしまうことによって生ずる自分との合一でもなければ、またその感覚も食物と

        • 観客の退隠(人生のお話?めも)

          「人生は演劇である」式の格言は世に多くあるが、いかなる意味でそう言えるのか?私たちは演劇の外に出ることが出来ないのに、いかなる観点から自分が演劇のうちにあることに気付くことが出来るのだろうか?  人生を演劇に例える際、私たち一人一人は役者に、生の総体は舞台に準えられる。ただし通常の演劇と異なり、私たちは舞台から降りることは出来ない。また、舞台の上で演じられることは何であれ演劇の一部分となるのだから、私たちはいつでも常に演じ続けることになる。加えて人生演劇には演技の失敗がありえ

          The Concept of Life's Meaning (Thaddeus Metz)のメモ

          人生の意味の哲学とは何か? ※卒論演習発表(4/19) 読んだもの'The Oxford Handbook of Meaning in Life'所収の1 The Concept of Life’s Meaning (Thaddeus Metz)[1]   【内容】 人生の意味(Life's meaning)について、ノージックの議論より後に英米圏で作り上げられてきた標準的な見解(the standard view)を紹介した後、近年になって提起された新たな問題を5つ

          The Concept of Life's Meaning (Thaddeus Metz)のメモ

          死と時間との関係についての試論

          ※卒論演習発表原稿 問い「個人にとって死、時間、様相は何であり、どのような関係にあるのか?」 序では死を断絶として特徴づけ、それを時間のあり方と類比的に論じる。時間と様相は深く結びついた概念であるため、それは様相における断絶とも関連付けられることになる。また、本稿で論じる時間は、個人的なもの、主観的なものに結びついていると思われるので、様相といっても中心は各個人にとって可能性はどのように開かれるのかという点にある[1]。1ではジャンケレヴィッチ、ベルクソンの議論を参照しつつ

          死と時間との関係についての試論

          「外」とは何か?分析哲学入門(パトナム、ブランダム、入不二基義)

          ※2024年度新歓発表原稿 序.「外」とは何か? 何かに閉じ込められている、という直感はごくありふれたものだろう。言葉に出来ない窒息感に苛まれた際、当然に、何をすれば私たちを閉じ込めているものから出ることが出来るのか、私たちはいかにして「外」に到達できるのかが問われることになる。「外」に触れたという決定的な体験をしたとしても後から振り返ればそれが本当に外であったのかは分からなくなってしまうから、私たちはいつでも自己確証出来るような仕方でその方法を求めることになる。 分析

          「外」とは何か?分析哲学入門(パトナム、ブランダム、入不二基義)

          『ブーガンヴィル航海記補遺』に見られるモラルへの介入

          1.問題提起 「モラルへの介入はどのように可能になるのか?」 私たちはある種のモラルに対して、そこに正当性があるのかと疑ったり、別のモラルが受け入れられるべきだと考えることがある。しかし、モラルを、共同体内で暗黙裏に従われている規範、だと考える場合、特定のモラルへの介入は他のモラルを前提とするのではないか?人々がある言説に対して抱く正当性の感覚もまたモラルに由来するからだ。 モラルを日常の様々な場面で働く「権力」だと考えることも出来る。フーコーは『性の歴史』[1]に代表さ

          『ブーガンヴィル航海記補遺』に見られるモラルへの介入

          秩序の基層にあって語りえぬもの(保守主義者としての後期ウィトゲンシュタイン入門?)

          0.問題提起 社会は法律をはじめ様々な制度によって成り立っている。しかし、それらの制度が機能することを可能ならしめているのは果たして何だろうか?他の制度あるいは規則に訴えて特定の制度の効力を説明する場合、効力を正当化するはずの他の制度あるいは規則の効力が再び問題となるため無限後退に陥る。一方で、制度の効力を権力や暴力といった何らかの「力」によって説明する場合、制度は私たちが従う「べき」ものではなくなってしまう。つまり、制度が単なる力による強制であるとすれば、それは「大盗の脅

          秩序の基層にあって語りえぬもの(保守主義者としての後期ウィトゲンシュタイン入門?)

          レオ・シュトラウス「政治哲学とは何であるか?」レジュメ

          □Ⅰ.政治哲学の問題(pp.1-19)* *以下『政治哲学とは何であるか?とその他の諸研究』(飯島昇藏他訳、早稲田大学出版部、2014)のページ数を付す。 1.政治哲学は何をすべきか(pp.2-4) 政治活動は現状維持を望むにせよ変革を望むにせよ「善」を求める。善へ向かう営みとしての政治を主題とし、それを「哲学」として探求するのが政治哲学である。つまり、ここで「哲学」は探求の対象ではなく、問題を取り扱う方法を指している。それは政治的なものに関する共約不可能な「意見」を普

          レオ・シュトラウス「政治哲学とは何であるか?」レジュメ

          志向性と言語に関するめも

          志向性は現象学における最重要概念だが、それがどのようなものなのか、特に「いかにして意識と世界とが関係するか」という志向性に固有の問題がいかなるものなのかが分からない。そのため、以下ではフッサール自身の記述ではなく野家啓一「志向性の目的論的構造」を参考にして志向性と言語との関係について整理する。フッサールは志向性の構造は「ノエシス-ノエマ-対象」の三極構造になっており、ノエマが意識と対象との関係を可能ならしめる「意味」の次元として働いている。[1] この図式によって二つの隘路が

          志向性と言語に関するめも

          起源に関するめも

          社会における「正統性」の根拠となる「起源」のフィクションは、それによって社会の象徴的設定、及び、組織化が行われるとされている以上、その社会におけるあらゆる意味の源泉として働くのではないか。そうであれば、「文学」も含め記号体系に基づくあらゆる営みは起源のフィクションに従属している必要がある。しかし、そうであるとすればいかにして文学は起源のフィクションと「張り合う」ことが可能なのか。 起源のフィクションそれ自体は言語を意味あるものとするための構造を作り出す働きそのものであるが、

          起源に関するめも

          私小説に関するめも

          ※リアぺ 1.私小説とは何か 授業内では「私小説」という言葉が何を指し示しているのか判然としなかったように思う。レジュメ内では私小説を特徴づけるものとして、生活の全てをさらけ出して小説にする点が挙げられていたが、その後の内容を読むと、小説で語られる「生活」、さらに、私小説作家としての個人史や人格さえもが虚構であることが明らかにされ「自分を小説化する」生き方こそが、実は私小説なのではないかという提案がされている。レジュメの最後では私小説を書こうとしその限界に向かった結果とし

          私小説に関するめも

          ドゥルーズ=ガタリ『カフカ』に関するめも

          D=G『カフカ』に対しては、しばしば、カフカはマイナー言語によって創作した作家ではない、という批判がぶつけられるが、D=G自身「マイナー文学とは、マイナー言語の文学のことではなく、むしろメジャー言語のなかにマイノリティが生み出す文学のことである」[1]と述べている。「マイナー文学」という言葉を適用することがその定義に従って適切かを判定するより、彼らの提起したこの概念をその可能性に照らしてできる限り拡張することでマイノリティ、言語や文学についての新たな視点を拓くほうが批評という

          ドゥルーズ=ガタリ『カフカ』に関するめも

          詩と個体芸術

          ※リアぺ 1.「言語を枯らす」とはどういうことか  『我が詩的自伝』のうちレジュメで引用されている部分を要約すると、三つの重要な主張が読み取れる。 ①割注や詩の統一された全体のうちに属さないメモといった書記によって、「言語の極限」を目指す(「言葉を薄くする、中間状態にする、言葉自らに語るように仕向ける」)ことが「言語を枯らす」こと。 ②その実践としてポルトガル語のUの訛りを利用して詩を作ったが、Uは依然として言語の根につながる力を持っている。 ③訛りに詩や音楽が発生

          詩と個体芸術