ドゥルーズ=ガタリ『カフカ』に関するめも


D=G『カフカ』に対しては、しばしば、カフカはマイナー言語によって創作した作家ではない、という批判がぶつけられるが、D=G自身「マイナー文学とは、マイナー言語の文学のことではなく、むしろメジャー言語のなかにマイノリティが生み出す文学のことである」[1]と述べている。「マイナー文学」という言葉を適用することがその定義に従って適切かを判定するより、彼らの提起したこの概念をその可能性に照らしてできる限り拡張することでマイノリティ、言語や文学についての新たな視点を拓くほうが批評という枠組みの中で一つの「機械」、つまり、静的な構造に還元されずむしろ構造を組み替えていく過程、を発明しようとしたD=Gの企図にかなう。そこで、本めもではD=Gの記述を整理しつつそこに含まれる論点を抽出する。

 D=Gはマイナー文学の特性を三つ挙げている。一つ目は「言語が脱領土化の顕著な要因に影響されること」である。領土化、脱領土化、再領土化というタームはD=Gの難解さを象徴するものとしてよく知られているがここではそれぞれ、土地に根付いた静的な規則によって区分け(意味が可能になるよう適切に分節)されていること、その規則を脱すること、新たな規則によって区分けされることとして理解する。するとマイナー文学においては、ある規則に従って言語を使用すること、が出来ないような要因の影響がみられるということになる。カフカにとって父親の母語であったチェコ語はなじみの薄い(「チェコ本来の領土性に対する消しがたい距離感」[2])ものであったためドイツ語で書くことしかなかったが、ドイツの中にあってゲルマン民族ではなくユダヤ人であることによって[3]大衆の言語としてのドイツ語からは分断されていた。しかし、ある規則に従って言語を使用することが出来なくなる要因は何もこうした国家や民族のレベルでだけ生じるものではない。母語ではない言語で書くこと、方言はもちろんのことある共同体でのスラング、さらに一番卑近な例でいえば、何故かよくやってしまう言い違い、書き違いといったものですら言語のマイナーな使用法になりうる可能性がある。二つ目の特性は「政治的[4]」であることだ。この箇所では「大規模な」=メジャーな文学とマイナー文学が対比されている。前者において描かれる個人的事項(その代表は家族関係)は同じく個人的な別の事項と合体され、社会的領域はそれらの背景にあって問題化されることがないのに対し、後者においては個人的事項が政治に接続される。[5] D=Gはオイディプス三角形、つまり、社会において欲望機械を型にはめて無効化しようとする原型、によってもたらされる支配への批判という『アンチ・オイディプス』での議論[6]をからめて説明しているので記述がややこしいが、メジャー文学が様々な出来事の構造をえぐりだし構造的な類似性によって出来事同士を結合するのに対し、マイナー文学は構造的な類似性を生みだす高次の構造(権力関係と言い換えてもよい)を解明するという対比として理解することが出来るのではないか。これは「個人的なことは政治的なことである」という第二波フェミニズムのスローガンとは微妙に異なる[7]。このスローガンは公と私というそれ自体一定の社会的構造に基づいて固定化されてきた区別によって、公的な議論からこれまで排除されてきた問題を俎上に載せるのに役立ちはしたが、あらゆるものが政治化されるとすると私たちは秘密を持つことが出来なくなり、あらゆる個人的な悩みが社会改良の糧とされることになる。その理念は全てを社会的な全体の中で意味(或いは価値)づけようとする全体主義的欲望と一致している。[8] むしろ、現代は公私区分が崩壊し、全てが社会的な(生産や富の増大に関する)領域へと還元され「公的なるものは私的なるものの一機能となり、私的なるものは残された唯一の公的関心となった」[9]という理解を引き継ぎつつ、公私それぞれの側面において常に社会的なものの働きを描写することをマイナー文学に独特の抽象性を考えるべきだろう。三つ目の特性は「あらゆることが集団的価値を帯びている」[10]ことである。マイノリティの文学は「巨匠」(天才)の文学と対比される。天才の文学は集団的言表行為から分離される個人的言表行為となりうるが、マイノリティにおいては才能が希少であるためむしろ作家の言うこと為すことが連帯を生み、政治的なものとなる。D=Gの説明において一読して理解しがたいのは、作家が他者から賛成されなかったり共同体から孤立していたりしてもなお潜在的にある連帯を生むと述べられていることである。従って、こうした作家の在り方を国民的作家のようなものとして介してはならない。そもそもここで作り出すといわれている連帯は国家や民族といったレベルに限定されるものではないはずである。後続する説明によるとここで強調されているのは通常の文学を組織化する「言表行為の主体」(作家)と「言表の主体」(書かれたものの中で話題になっている主体)という二つの主体概念を乗り越え、文学が「言表行為の集団的アレンジメント」、つまり、その内容への賛否は別として様々な方向へとエネルギーを接続していく過程として機能するような開かれた単位として機能することの重要性である。宇野の解説によると『アンチ・オイディプス』で議論を駆動する概念として提示されていた「欲望機械」はオイディプス化と本来的に無関係であるとはいえ依然として精神分析の枠組み(特にリビドーの概念)に影響を受けすぎていたため、『カフカ』では構造を変化させる過程を生じさせる「機械」、そして、あらゆる方向へ接続していく「機械状アレンジメント」へと議論の中心概念が移り変わっていったとされる[11]。D=Gを読む難しさはこうした既存のあらゆる概念に似ていない意味不明で晦渋なタームの多用にあるが、もちろん書いている彼らですらその意味を理解しているわけではない。これらのタームは作業概念であり、ひとまずそうした概念を立ててそれについて考察することであらゆる概念化を拒むかに見えるもの(例えば、資本主義)について新たな視角を切り拓くことを企図している。その意味で彼らの批評活動や哲学はそれ自体、機械=過程として機能するものであるし、静的な構造に還元せず機械として読み進めていくべきだろう。「マイナー文学」もまたそうした機械の一つであり、「メジャー文学とは何かについて(…)マイナー文学の概念をまずは考慮しなければ、それらの指標を知ることは実に難しい」[12]と述べられている。

以上の整理に基づくと、マイナー文学を特徴づけるのは、①静的な規則に還元されない言語の使用、②背景において働く社会的なものをそれによって生み出された諸々を通じて描き出す抽象性、③様々な方向へ接続していく過程として機能すること、である。

 



[1] G.ドゥルーズ、F.ガタリ『カフカ マイナー文学のために』(宇野邦一訳、法政大学出版局、2017)pp.27-28

[2] 同書、p.28

[3] その背景に「ドイツ人の人口そのものが脱領土化している」(同書、p.28)つまり、土地に根付いた民族によってドイツという国家が構成されるという前提が瓦解していたことがある。

[4] G.ドゥルーズ、F.ガタリ、前掲書、p.28

[5] 同書、p.29

[6] 特に『アンチ・オイディプス』(宇野邦一訳、河出文庫、2006)pp.222-225の議論を参照。

[7] J.L.ナンシーは『フクシマの後で』(渡名喜庸哲訳、以文社、2012)第三章「民主主義の実相」pp.においてこのスローガンに留保をつけ、むしろ政治の領域の適切な境界線を考えることが必要ではないかと問題提起している。

[8] J.デリダ『嘘の歴史序説』(西山雄二訳、未来社、2017)pp.75-79に断続的に引用されているA.コイレの論文とデリダのコメントを参照。

[9] H.アレント『人間の条件』(志水速雄訳、ちくま学芸文庫、1994)pp.98

[10] G.ドゥルーズ、F.ガタリ、前掲書、p.30

[11] G.ドゥルーズ、F.ガタリ、前掲書、p.196-197
『カフカ』で中心的に論じられている『審判』(『訴訟』)の原題はDer Processであり、process、つまり過程に定位した作品だと解釈することが出来る。

[12] 同書、p.33

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?