私小説に関するめも

※リアぺ

1.私小説とは何か

授業内では「私小説」という言葉が何を指し示しているのか判然としなかったように思う。レジュメ内では私小説を特徴づけるものとして、生活の全てをさらけ出して小説にする点が挙げられていたが、その後の内容を読むと、小説で語られる「生活」、さらに、私小説作家としての個人史や人格さえもが虚構であることが明らかにされ「自分を小説化する」生き方こそが、実は私小説なのではないかという提案がされている。レジュメの最後では私小説を書こうとしその限界に向かった結果として、作者である「私」が見ているであろうモノが「私」として語り出す小説が紹介されている。つまり、授業で紹介された私小説のあり方には

①生活の全てを描き出すこと

②作者の生そのものを虚構化すること

③モノが「私」として語り出すことが私小説の限界においてあり得ること

という互いに上手く関係付けられない三つの様相が存在する。これらをある統一性の下で考えることが出来れば、私小説とは何か、を明らかにし、そのマイナー性を(書き手の数といった外面的な要素に頼ることなく)明確にすることが出来るはずである。


2.私小説における抽象

小林秀雄「私小説論」における問題設定は日本の「私小説」と名指されるものが、単なる技法の受容に留まり、社会との対決の中で拠って立つ最後の寄す処としての「私」を問うことがなかったことの指摘に基づく。小林はジッドを例にとり、私小説を生み出した事情を「過去にルッソオを持ち、ゾラを持った彼には、誇張された告白によって社会と対決する仕事にも、「私」を度外視して社会を描く仕事にも不満だったから」こそ、「自意識」に頼る他なかったことに見ている(『小林秀雄全作品6』(新潮社、2003)p.177)。彼の言う自意識とは、生の私ではなく個人性と社会性の間にある関数のような存在である。従って、「私」に立脚するという点で広義の「私小説」でありながら、現実が持つ無数の視点の可能性を作者の視点に還元せずに描くことを試み、それを作者自身の分身でありながら、作中の分身自身が小説を書くことを述懐すること作品の外部と内部の境界を混乱させ、外から一方的に作品を作り出す作者の地位を危うくさせるという工夫がされている。このようなジッドの苦闘に対し、日本では日常生活への素朴な信仰に基づいて私小説作家もその反対者も論争していたため、それらは最終的にマルクス主義に基づく、プロレタリア文学の「リアリズム」に蹂躙されてしまった。しかし、プロレタリア文学の「リアリズム」も結局のところ世界を一つの思想に基づく観点に還元してしまうことで類型的な人間をしか描き出すことが出来なかった。

小林の問題提起を時代から切り離して取り出すと、小説における抽象の問題になる。日常生活への信頼に基づく私小説は小説を書くことそのものに必然的な契機である材料の取捨選択=物語化、そして、それに先立つ「私」の通時的同一性という虚構への反省を含まなかったために、誰にでも書くことが出来るような生活の記述=身辺雑記への堕落の萌芽を含まざるを得なかった。対して、リアリズムを自称したプロレタリア文学は、マルクス主義思想を神の視点として受容し、一纏めに語ることが不可能な現実の諸相を見ることが出来なかった。しかし、個人性と社会性の関数としての「私」とは果たして何だろうか。また、そこで「作者」とはいかなる者なのか。


3.「内在平面」として「私」

笙野頼子「すべての隙間にあり、隙間そのものであり、境界をも晦ます、千の内在」(『ドゥルーズ 没後20年新たなる転回』(河出書房新社、2015)をヒントにこの問いを検討する。この論考において笙野はドゥルーズ+ガタリ『千のプラトー』の概念を援用しつつ、私小説の「私」とは「内在平面」のことであるとする。内在平面は、自他、客観-主観といった固定的な認識モデルへの問い直しとして、内と外の交通を記述するための概念である。笙野は「一滴の水が宇宙全体を含み込む」という比喩でこのことを表現している。通常、一滴の水は宇宙の中にあるものと考えられるが、水の表面には水滴の周りの空間が映し出されていて、それこそが宇宙であると水滴が考えることも出来る。このことはむしろ、「私」に置き直した方が分かりやすい。「私」は並列に存在する他者と同様であり、人間という一般の中の個別であるが、同時に本当に感じたり考えたりしているのは「この私」だけである。「この私」からだけ世界が現実のものとして開けている。こうした世界認識を純化したのがヴィトゲンシュタインであり彼の「何が見えていようと見ているのは常に私だ」という独我論の定式化は「私が見ているものこそがある」という形で実在論と結び付き、さながら「経験即主体」あるいは、梵我一如であった。しかし、ここでヴィトゲンシュタインはこのことを他者に向けて語り得ないことを指摘し、自らが達した悟りの境地を論駁する。「見えているのは常に私だ」は誰にでも、つまり、本来見えていないはずの他者にも語り得るため、その文言に望んだ意味を持たせることは不可能である。この構造は当然小説にも持ち越される。小説は他者に、あるいは、未来の自分に読まれることをその存在の条件としているからである。この点に、私小説の「私」が通時的同一性を無批判に前提する「人格」を越え出ていることの意味がある。通時的同一性は、思い出すことだとか、他者や記録に基づいて身体の連続性を確認するだとかといった方法に関わらず、いつも現在構成される。現在知られるものは過去についての情報であっても現在与えられる情報であるのだからそこでの過去は常に虚構性を含む。私小説作家に限らず、個人史がフィクションであることはどの時点も常に今であることに基づく存在論的な特性である。このように「私」概念を問い直すなら「私」の中には常に他者が接続されていることが理解される。過去は現在に対する一人の他者とならざるを得ないからである。この類比によって通時的な自己同一性の解体は、共時的なそれへも向かっていく。

「私」の中に他者が接続され、それが物語化を受けつつ、意志的な選択とは独立に与えられ続けることによって物語化を裏切ることで、「生の私」と「作者」は解離し、それによって「隙間を含んだ抽象」が成立すると笙野は述べる。この抽象によって「生の私」におきた出来事は批評性や普遍性を獲得し作品は「言表の集団的アレンジメント」となり「リゾーム」として働くという。ここで言われている「隙間を含んだ抽象」こそが、社会と個人とを媒介するものとして私小説を定義付ける概念ではないか。


4.「隙間を含んだ抽象」とは何か

駅の構内に出ると、ガラス越しに見えるのは妙に懐かしい町だ。ごちゃごちゃしたビルの低さ。賑やかそうなのに、光が薄いような煙った空気も……、海に面したプラットホームのはずがなんでこんなに広い明るい、何本も線路の通っている駅にいるんだろう。見覚えがあった。無論、錯覚の。でも思い込んだ。ここは、四日市じゃないか。私の生まれた町。

笙野頼子『笙野頼子三冠小説集』(kindleで買ったらページ数見れなかったので後で追記します…)

こうした『タイムスリップ・コンビナート』の描写は町のランドマーク等の固有名への言及を決して含まないため、明確に「四日市」と呼ばれているにも関わらず、各人各様の「故郷」(既に起源のノスタルジーの対象ではなく人為的な制作に基づいた都市としての故郷)を呼び起こすものである。笙野の文章は短文や時には単語を畳み掛け、突然に規範的な文法を無視した口語的表現を用いることで、読者をそのイメージの中に巻き込んでいくため、距離をとって読むことが難しいが、風景であれ人物描写であれ強いイメージ喚起能力を持ちながらも、決して特定のイメージに還元することの出来ない匿名性を持っている。

異様に低い声でずっと、私が電車に乗った時から喋り続けていた。その声がだんだん高くなっていく。意味不明のまま。 ──りてね。 ──してね。 ──りてね。 ──してにね。

笙野頼子『笙野頼子三冠小説集』

描かれるのは徹底して形式だけであるにも関わらず、或いはそれ故に、私たちの日常的経験を思い起こさせ結び付ける力能を持つ。

しかし、「隙間を含んだ抽象」は単なる固定的な構造の提示ではない。日常生活の中で見いだされた形式は、生活を自分の体験を越えたところに接続していくものとして働くことによってこそ個人性と社会性を媒介するものとして機能する。このような抽象は、社会的な属性に基づくグループ化と無関係であり、それを横断して「私」=内在平面を接続、交通させる役割を果たすことを可能にする。ある社会的な秩序のなかで語ることが不可能にされていたものに言葉を持たせる働きとして私小説の抽象を捉え返すことで、私小説のマイナー性を理解することが出来るのではないか。

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