レオ・シュトラウス「政治哲学とは何であるか?」レジュメ

□Ⅰ.政治哲学の問題(pp.1-19)*

*以下『政治哲学とは何であるか?とその他の諸研究』(飯島昇藏他訳、早稲田大学出版部、2014)のページ数を付す。

1.政治哲学は何をすべきか(pp.2-4)

政治活動は現状維持を望むにせよ変革を望むにせよ「善」を求める。善へ向かう営みとしての政治を主題とし、それを「哲学」として探求するのが政治哲学である。つまり、ここで「哲学」は探求の対象ではなく、問題を取り扱う方法を指している。それは政治的なものに関する共約不可能な「意見」を普遍性を持つ「知識」へと置き換えることを目的とする。政治哲学は政治的事柄の自然(=本性)を理解しようとする学である。


2.政治哲学は何でないか(p.4-5)

政治哲学は政治思想、政治理論、政治神学、政治科学のいずれとも異なる。政治思想家は意見を知識に置き換えることに無関心であり、人々を特定の秩序へと導くことを目的とする。その意味でモーセは最初の政治思想家であった。政治理論(例えば、ヘルツル『ユダヤ人国家』)は現今の政治的状況への省察に基づいて為すべき政策を提案するものであるがその正当性を支える前提について問うことをしない。政治神学というタームはここでは啓示に基づいて一方的に与えられる政治的教え、と理解しておく。政治哲学は人間精神によって接近可能なもののみを対象とする。


3.政治哲学と政治科学(pp.5-12)

元来の意味での政治科学は政治的事柄に関する様々な情報を扱い偉大な政治家に資するための学であった。それは政治的知識の探求をも含んでいるという意味で政治哲学と同一のものである。しかし、現在、哲学と科学は寸断され、哲学は古典の研究と説得力を持たない意見の集積へと縮減されている。哲学への非難は、哲学が非科学的であり非歴史的であることに拠る。非科学的とは実証的でない、という意味だが、そもそも現代の実証主義はオーギュスト・コントにはじまる秩序の擁護、構築という目的を放棄してしまった。「価値自由」のお題目の下、社会科学者は内在的価値(それ自体が目的である価値)への無関心を装い、社会的目的の実現に資するという意味で道具的価値(手段としての価値)を持つ知識について研究する道を選んだ。しかし、それは進むべき道なのか?


反論①社会科学は価値判断を裏口から持ち込んでいる(pp.13-14)

価値判断なしに人間の思想、活動、仕事を理解することは不可能である。そのため、どれほど記述的に見える概念の中にも価値判断(規範的要素)が紛れ込んでいる。例えば、ウェーバーによる正統性の観点から見た支配の諸類型(合法的、伝統的、カリスマ的)と「カリスマの日常化」(カリスマ的支配が他の支配形態へと転化していくこと)は、プロテスタント的、あるいは、リベラル的な選好を含んでいる。価値判断は不可避であるがある場合にだけ主張を規定する条件としてのみ導入されるべき、という再反論もあるが、どのような事実への言及においてもその条件として価値判断が存在していざるを得ないのではないか。また、より単純に、政治科学は「政治的なものとは何であるか?」という問題への答えを前提としておりその意味で秩序の目的に関する価値判断を既にして行っているのではないか。目的を無視した秩序の定義の一例は「近代的なタイプの国家」というものだが、それは何ら標準を定めないため政治活動や制度に対する判断が不可能になる。


反論②異なる価値体系同士の構想は解決不可能である、ということは証明されていない(pp.14-15)

ウェーバーは価値の抗争を「神々の闘争」と呼び人間には解決不可能であるとした。しかし、それは未だ証明されていない。確かに価値の抗争への判断留保は賢明だが、少なくともどちらがより善いかの判定は可能だろう。そのような議論さえ放棄するなら無責任な議論を招来するだろう。


反論③科学的知識のみが真正の知識だとするのは誤りである(pp.15-17)

科学的知識は常に証明を必要とするがそのような知識観は常識にそぐわない。また、政治活動に関する探求においては科学的研究に先行する知識を要請している。例えば、社会科学を展開する上では何が人間かを特定することが不可欠だが、それは前提としか言いようのないものではないか。また、科学的知識は常に分離(区別)を行うが、それらが属する全体のうちに位置付けられるのでなければ、私たちは代替的選択を欠くことになる。つまり、区別に基づく二者択一によって、既存の秩序とその反対の秩序の2つのみから選択しなければならないとの錯覚が生まれ、結果として既存の秩序を追認することしか出来なくなる。更に言えば、「政治的なものとは何であるか?」という問いはあくまで問答法的に、つまり、市民の常識的な観点から出発することでしか問われ得ないのではないか。


反論④実証主義は歴史主義へと堕落し、一般的(普遍的)なものへの探求を放棄する(pp17-19)

科学の範型は自然科学であるため方法論的な一般性が重視される。しかし、社会科学そのものが近代西洋社会を土台に発展してきた以上、その特異性を一般性と混同する危険がある。そこで文化横断的なアプローチがとられる訳だがそこでもなお事実の解釈に用いる概念図式は西洋起源のものだから同じ問題が生じる。この問題は社会科学において問いの方向性は主観的にならざるを得ないという困難に起因する。歴史主義は社会科学のありようそのものを歴史的であるとして相対化することで、歴史的に位置づけられたものとしての客観性を担保するという逆説的な解決である。歴史主義は四つの点で実証主義と異なる。一つは、事実と価値の区別そのものを放棄する点。どのような理論であってもそれが置かれる歴史的状況の中にあり、その意味でその時代の価値評価が浸透しているため、事実と価値の区別は不可能である。二つ目は近代科学の特権性そのものを否定し一つの歴史的形態として位置づける点。三つ目は歴史に進歩を見ることを否定する点。四つ目は人間が人間でないものから進化したことは人間性の説明に役立たないと考える点。歴史主義の中では価値判断が歴史的相対性へと脱臼されるため一般的価値への問いが不可能になる。そして、1933年のヒトラー内閣成立は善き社会とは何かについて問う責任を放棄したことから生じたのではないか。


□Ⅱ.古典的解決(pp.19-33)

4.古典的政治哲学の特徴(pp.19-21)

プラトンやアリストテレスの古典的政治哲学は「自然的」性格を持つ。つまり、人為的な伝統ではなく自然に導かれている。後の時代において政治哲学の伝統は哲学者の思弁と政治的事柄とを媒介するものとして働いた。しかし、古典的政治哲学は媒介なしに行われ、それ故、その直接性において最も明晰である。彼らの使う言葉は市民や政治家によって実際に使われていたものであるため、政治的生活を特定の側面に局限せず包括的に捉えた。古典的政治哲学に対して近代政治思想は派生的である。近代政治思想は政治哲学の進むべき方向を「抽象性」に見たため、不適切なほど概念化に執着する。〈われ〉-〈汝〉という枠組みでは私と友との友愛を捉えることは出来ない。それは現象への不実である。


5.政治哲学のための態度(pp21-26)

プラトン『法律』において政治哲学への導入は飲酒に関する会話からはじまる。そこにはどのような意義が隠されているのだろうか?法律に関する対話篇に最良の登場人物は法律について熟知した老市民であるが、ことが最善の法律への問いへと移ると、あくまで遵法を貫いていた彼らの徳はむしろ邪魔なものになる。酒の快楽、あるいは、飲酒を禁止する法に違反することの快楽が、既存の体制を是認することを超えて普遍的な善の問いへと彼らを導き入れる。また、一方で飲酒は節度に資するとも述べられている。政治哲学に必要な節度とは人間がこれまで築き上げてきた伝統を超越しつつも、自らもまた市民としてある法の下に内在するという二重性を引き受けることにある。この二重性はソクラテスにおいて体現される。ソクラテスはアテナイで崇拝されている神々の存在を否定したとして告発される(『ソクラテスの弁明』)が、この告発は、人間的伝統に根ざす都市の神々と、伝統を超えて普遍的なものについて問う哲学者との対立を象徴的に描き出すものである。そして、ソクラテスの決断は何らかの抽象的な原理に基づく選択ではなく、自身の年齢、アテナイにおける哲学の危機、といった具体的状況の中で下された政治的判断であった。


6.「体制」の基底性(pp.26-28)

法律の原因は人間であり、立法者は「体制」に支えられて存在する。体制とは共生、つまり、社会的生活の形態であり包括的な目標へ向けて社会を組織する。体制という観点から見れば「善き市民」と「善き人」との間に鋭い対立が生じる。「善き市民」の善さは体制依存なのでナチス・ドイツにおける善き市民は他の体制下では悪しき市民となるからだ。従って、善き市民と善き人が一致するのは最善の体制の下でだけである。だからこそ、愛国主義は政治哲学において不十分なのだ。質料形相論の枠組みで換言するなら祖国や民族といった質料に対する体制=形相の優位性が主張されていたのであり、それこそが理想主義(イデアリズム)である。


7.古典的政治哲学への反論と応答(pp.28-33)

古典的政治哲学に関してありふれた二つの反対論がある。

①    古典的政治哲学は反民主的であり、それ故に悪である。

②    古典的政治哲学は近代自然科学と相容れない自然観を前提している。

古典的哲学者たちが民主政を劣ったものとして否定したという誹謗からして過度な単純化であるのだが、その問題を差し置いても、反民主的であるがゆえに悪であるというのは浅薄である。彼らは自由ではなく徳に価値を置いたが故に民主制を拒否した。自由は善への自由であると同時に悪への自由でもあるからだ。徳に基づく政治において問題となるのは性格形成に必要な教育をいかに調達するかである。ルソーは人間は自然によって善であるとしつつもその素質を開花させるために多大なコストがかかる教育が必要であるとした。徳ある人物を育てるための普通教育は経済的豊かさに支えられてはじめて可能となるのであり、われわれと古典的見解との差異はテクノロジーと徳との関係に関する評価の差異である。しかし、道徳的・政治的制御から解放されたテクノロジーは災厄と非人間化をもたらす、という古来の警鐘は現在でも有効であろう。また、現在の民主政が教育の問題を解決したとは言い難い。今日の教育は性格形成というより教示と訓練であり、体制に順応する者を「善き人」とする危険な傾向をはらんでいる。その点では民主政と共産主義とにどれほどの違いがあるだろうか。古典的教育とは「たくましい個人主義者」を育てる王の教育であり、大衆教育とは相容れない理念に基づくものだった。

自然観の古さについても検討してみよう。ソクラテスは何らかの宇宙論を前提としたのではない。むしろ、イデアの光の中にある人間の在り方を問うことで、人間がいかなる全体へと開かれているのかを問うたのであり、人間を問うことが宇宙論の探求と不可分であった。このことはソフィスト、政治家の双方と対比される哲学のあり方を示している。哲学者は数学や生産的技術における同質性についての知と、人々の目的に関する異質性についての知との根本的な差異の内で、異質なものを単に無関係のものとして扱わず全体について知ることを試みつつもそれらを何らかの同質性へと還元しない道を探すのである。


Ⅲ.近代的諸解決

8.マキァヴェッリの戦争(pp.33-41)

古代における徳の追求と優秀者支配の理想を非現実的なものとして拒絶するところから近代政治哲学は開始した。その創始者こそマキァヴェッリである。彼の道徳批判における主要論点はユートピアの設定による政治へのアプローチには問題がある、というものである。彼は道徳性を実質においてでなく形式において見た。それは具体的に言えば教育による習慣づけであるが、習慣付けを可能にする秩序の創設は反道徳的なものである。ここに目的が手段を正当化し、そのため、手段の効率性のみが問題となるという理解が成立する。人間は利己心によって悪であり、善へ向かう自然的な方向づけは存在しない。そこで、人々を強制する必要が生じるがその際の指導者の動機は栄光への欲望から調達される。マキァヴェッリにおける利己心と教育によるその強制という発想が政治的自由と法の支配の理念の源泉であった。彼はキリスト教による宗教的迫害を間近に見たことで、高すぎる理想が非人間性を呼び起こすことを体感し、それ故に求めるべき標準を功利主義的なものへと縮減したのである。彼の教えは君主に向けてのものであったが、反道徳性に拠って秩序を創設するという課題は理論家としての彼自身に与えられたものであった。その際、彼は武装した預言者としてのモーセではなく、武装せず、代わりにプロパガンダを用いたキリストの道をとった。つまり、未来に自分の企図を引き継ぐ者が登場することに賭けて著作を用意したのである。彼はキリストの方法によってキリスト教会との精神的戦争を遂行した。この意味でのプロパガンダこそ「啓蒙」の始まりだった。


9.近代化の第一の波(pp.41-44)

マキアヴェッリの理論は反抗的な性格を強く持っていたがホッブズがこれを緩和した。マキァヴェッリが君主の反道徳性を称揚したのを逆転させホッブズは市民に服従の義務を説いた。またホッブズは社会創設の悪性をも論駁した。彼は自然権の存在を擁護しつつもそれを理想化することはせず、自己保存への欲望から来る暴力死への恐怖を社会契約の動機とした。一旦契約が行われると暴力死への恐怖は政府への恐怖へ、自己保存の欲望は快適な生活への欲望へと転換される。更なる緩和はロックによって行われた。ロックは自己保存に必要なものを暴力ではなく食料と捉えることで、秩序創設の原理をマキァヴェッリにおける反道徳性から獲得欲に置き換えた。そうして遂に、利己的な感情が流血を要請せず、しかも社会を良くするという描像が完成するのである。これは言わば政治的問題の経済的解決である。モンテスキューはローマとイングランドの比較を通して経済的解決の優位性を強調した。マキァヴェッリにはじまる以上の経緯こそが近代化の第一の波である。


10.近代化の第二の波(pp.44-47)

人間の自然に関するこうした格下げはルソー、カントやヘーゲルらのドイツ観念論、ロマン主義者からの抵抗を呼び起こし、前近代的思想への回帰が時代の潮流となった。しかしながら、この回帰こそがより根源的な形態の近代性を用意する。ルソーによる古典的都市の解釈はホッブズの光の下で行われた。つまり、自己保存の欲望が古典的社会においても根底にあるとされ、秩序の創設以前からの根本的な権利を自然法に訴えて擁護する道は閉ざされた。そのため、ルソーは自己立法という形式的原理に基礎を置く倫理に基づいて理想を実現しなければならず、内実を持った自然権の観念は、選ばれるべき決定という形式において正当性を持つ一般意志にとって代わられた。善が形式的なものとなる困難を受けルソーは新たな社会の向かうべき方向性を示す必要に駆られた。そこで彼はホッブズの反目的論的原理を継承することで自然状態が社会を道徳性へと向かわせるという描像を退け、自然状態そのものが社会的人間の目標になるとした。自己保存の欲望の根は実存の甘美さの感覚であり、それは自然に回帰し未来について考えることを放棄することで可能になる。保存と甘美さの享受との対立は、大多数の市民と孤独な夢想家との敵対関係であるが、これが〈歴史〉によって和解可能になるとしたのがドイツ観念論である。第一の波では自由が徳を置き換えたが、第二の波では歴史の哲学が登場する。それは正しい秩序が利己的情念による意図せず副産物として確立するというものであり、正しい秩序という結果と、その実現手段との矛盾を是認する点で共産主義はカント、ヘーゲルと通底する。第二の波とは道徳性を形式へ還元し、正しい秩序が不正な過程を経て歴史的に実現するという洞察である。



11.近代化の第三の波(pp.48-49)

ニーチェは歴史過程が正しい秩序に向かっている点で理性的であるとするヘーゲルの見解を拒否し、もはや正当化を必要としない創造者たちが革命と立法を担うとした。彼の呼びかけは惑星規模での優秀者支配制へと人々を誘惑し、卑俗で従順な人々を抹殺する神聖な権利についても説いた。ニーチェ自身はこのような呼びかけによって政治的責任を引き受けたが、彼の読者に残されたのは政治に関する無関心か、無責任な政治行動だけだった。また、ニーチェの力への意志の教説が永遠性の放棄へと人々を導いたことで、自然による運を征服し絶対的な主権者たろうとする近代性の原理が完成した。


(著者情報)

■レオ・シュトラウス(Leo Strauss)(1899-1973)[1]
ドイツの田舎町キルヒハインで正統派ユダヤ人の家庭に生まれる。17歳の時にヘルツルらが主張していた政治的シオニズム(政教分離のユダヤ人国家建設を目的とする。)の支持者となる。新カント派のユダヤ人哲学者ヘルマン・コーエンのいるマールブルク大学で学び、コーエンの教え子であるエルンスト・カッシーラーの下で指導を受け、1921年にヤコービに関する研究で博士号を取得。1922年にはフライブルク大学でフッサールの現象学講義を受け、フッサールの生徒であったハイデガーから強い影響を受ける。1932年にシュミット『政治的なものの概念』に関する注解を書き注目を受け、シュミット本人もシュトラウスの才能を認めロックフェラー奨学生のための推薦を行った。その甲斐もあり1932年から34年までロックフェラー奨学生としてパリとケンブリッジで学ぶ。パリではコイレやコジェーヴからヘーゲルについて学んだ。1936年には『ホッブズの政治学』を出版する。その後、祖国でのナチス台頭を受けアメリカに移住。古代政治哲学の研究に勤しんだ。1949年からシカゴ大学に勤め、『自然権と歴史』に結実する講義を行う。マックス・ウェーバーによる価値自由の研究方法から歴史主義への頽落を明らかにし、古代と近代の自然権思想を比較しつつ人間としての道徳の基礎について問うこの著作はシュトラウスの主著とされる。[1]アメリカで「政治哲学とは何であるべきか?」といった論文の発表を通じて政治哲学を再興し一学派を形成したシュトラウスは、イラク進攻の立役者であった国防副長官P・ウォルフォヴィッツの博士号取得の指導教官だったこともあり、しばしばネオコンサバディズムの理論的な祖として位置付けられる。



[1] Stanford Encyclopedia of Philosophy”Leo Strauss”( https://plato.stanford.edu/entries/strauss-leo/#LifeWork )及び、石崎嘉彦「現代アメリカ政治とレオ・シュトラウス政治哲学」(政治哲学, 2015, 19 巻, p. 40-65)を参考にした。

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