詩と個体芸術

※リアぺ

1.「言語を枯らす」とはどういうことか

 『我が詩的自伝』のうちレジュメで引用されている部分を要約すると、三つの重要な主張が読み取れる。

①割注や詩の統一された全体のうちに属さないメモといった書記によって、「言語の極限」を目指す(「言葉を薄くする、中間状態にする、言葉自らに語るように仕向ける」)ことが「言語を枯らす」こと。

②その実践としてポルトガル語のUの訛りを利用して詩を作ったが、Uは依然として言語の根につながる力を持っている。

③訛りに詩や音楽が発生する根がある。「言語を枯らす」というのは訛りによって「国語」を変容させること。

これらを総合すると

・割注やメモは訛りの一種であり、「国語」を変容させる。

・根とつながる言語=「国語」を変容させ、「言葉を薄くする」ことで言語を根から断絶させる=「言葉を枯らす」ことが出来る。これが詩作だが言葉は根につながる力を失わない。

従って、「言語を枯らす」とはどういうことかを理解するためには言語が根とつながっているとはどういうことか、根との断絶をもたらす訛りの働きは何かという二つの問いの答えを明らかにする必要がある。

谷川俊太郎『詩を考える〜言葉が生まれる現場』において、詩を書く際には「自己の発語の根」が失われ「日本語という言語共同体の中に内在している力」が根となると述べられていたが、前者を訛り=詩の根、後者を「国語」と見なすなら、谷川と吉増は同じ構図の中で逆向きの詩作論を展開していると理解できる。とすると、「言語が根とつながっている」ことの内実は、特定の伝統と文化の下で生育した美的感覚や優れた文芸作品の蓄積に基づいて言葉が解釈されること、となる。言語共同体の圏内においてはどのような言葉でも固有の歴史を背負ったものとして理解されてしまう。

この論脈で谷川の詩論を敷衍すると以下のようになる。表現の主体が、言葉に自らの内奥から湧出した独自の意味を与えようと意図しても、国語の伝統の中に位置付けられて誰にでも読むことの出来る公共性を持つものとして解釈されるのだから「自己の発語の根」は当然失われる。しかし、一方で「白きを見れば」とくれば「夜ぞ更けにける」とつながるように伝統の中で育まれてきた言葉のつながりがあってこそ、主体の内部にある未分化な情動に形を与え、客観的に理解可能な、つまり、存在するものにしてやることが出来るとも言える。

吉増は谷川と逆に言語を根から断絶させることを詩作と考えているが、前段で書いたように谷川の詩論を理解すると吉増の詩論は不可能なものに見える。言葉がある伝統の中で位置付けられることは言葉が他人にも伝わる意味を持つための根本条件であり、根とつながった言葉を利用しなければ主体の内側にあって表現されることを要求する何かは主体自身にとってすら理解不可能なものであり続けるからだ。

この問題点を解決する手段として「訛り」が用いられている。訛りの存立用件は、第一に根とつながった言語を使用することであり、第二にそれと完全に調和してしまわないことである。第一段階では、国語の伝統を利用して主体を表現に駆り立てる切迫の内実を自己解明することが出来る。しかし、言語は公共性を持つものと解釈される以上、本来そこに収まらないはずの固有性を表現したいという意図を果たすことは出来ない。そこで、ある言葉を非伝統的な、母語話者にとって違和感のある仕方で用い続けることでその言葉に収まりきらない含意を示すことが可能になる。これが「訛り」という方法であり、割注や「裸のメモ」は、詩の内部にあってその全体の流れに収まらないことでこのような機能を果たしている。

当初の問いに戻ると、言語が根とつながっているとは、ある言語共同体が育んできた歴史の中でこそ言葉は意味を持つことであり、根との断絶をもたらす訛りの働きとは公共的な言語を違和感のある仕方で用いることでそこに収まりきらないものを示すことである。従って、「言語を枯らす」とは公共的な意味との不調和を通じて全く別のものを示すものとして言語を用いることだと理解出来る。詩は公共的な言語使用に準拠するものではないという意味で言葉は「薄く」されている、つまり、言葉から意味がほとんどなくなっている。ただ、この理解では「言葉自らに語るように仕向ける」を解釈するのが難しい。詩によって語られるものを主体の中にある情動と考えてきたからである。この前提を再考する必要がある。

2.言語と自己解明

前章では、言葉を発する主体と発される言葉が対立するものであり、言葉は主体が自由に使用できる道具であるという理解を前提としていたが、これは非常に浅薄な理解だった。発される言葉、あるいはより広く何らかの外的な表出と独立に主体の情念を考えることは出来ない。痛みを感じている人がその兆候を一切外的な表出のうちに示さなかった場合、その人は痛みを感じていないのではないか。全く何の表出がなくとも当人は痛みを感じているのであり、そう言えると考えるのであれば、例えば「石は痛みを感じている」というような文章を問題なく言えることになってしまう。しかし、このような文章は私たちの日常的な情動に関する語の使用と著しく乖離する。むしろ表出と情念の一体性を認めてしまい、主体と言葉は対立するものではなくむしろ表出たる言葉の方によって主体の内面が構成されている、と考える方が自然ではないか。そこでは言葉は主体に使用される道具である、という理解が直ちに否定される。

この洞察こそランボーの詩作であった。『地獄の一季節』の「錯乱Ⅱ 言葉の錬金術」において描かれているのは、言葉に対して自らに固有の意味付けを施し、表現しがたいものを言語によって定着させ、最終的には自らの幻覚をも克明に表現し存在させることが出来るようになったが、実のところそれは私がこの世界に見たものではなく、「国語」のうちで育まれてきた言葉の意味の連関が発生させたものであったという発見である。「ついで私は、自分の魔法の詭弁を語の幻覚によって説明した!」(中地義和編『ランボー詩集』(岩波文庫、2020)p.213)その後ランボーは、「自分の精神の混乱を神聖とみなすにいたった」(p.214)、つまり、内面から溢れ出るものと誤解してきた情念やインスピレーションを「国語」によって与えられた絶対的なものと理解し、そこからの離脱を望んで、言語に汚染される以前の自然なあり方を探し求めたのだが、当然探究は失敗する。遂に彼は自らの内面そのものを「オペラ」として対象化し、そこで演じられる出来事=固有の情念=狂気を言語によって作られたものと見なすことで、その狂気を言語によって操作することを可能にした。ランボーの洞察は、言語によって主体が構成されることを反省的に捉えることで、そこで構成された主体が言語によって自らを変容させること、つまり、言語を道具として使用することを可能ならしめるという逆説的な構造の発見であった。

前章では、詩作の目的を「言語を枯らす」こと、即ち、訛りによって発生させた公共的な意味との不調和を通じて全く別のものを示すことだと結論したが、これをこの章の議論と接続させると、訛りによって示されるものそのものが言語のうちで構成されていることになる。ならば、不調和によって示されるものは公共的な言語によっては語り得ない内的な何かではなく、公共言語そのものの中ではじめて位置付けられる不調和そのものであることになる。換言すれば、言語と自己の不調和そのものが言語の中で予め用意されていることの発見こそが詩である。つまり、「言語が自らを作り出し、変容させていく様をメタ的に言語で記述することによる自己解明」によってはじめて構成される自己、を詩によって定着し対象化して眺めることこそが詩作の本質である。自己解明は常に言語によって行われている以上、それによって構成された新しい自己が想定されることになり完全な解明は原理的に不可能(完全に自己を表現する詩は語義矛盾)になる。その意味で、書くことは必然的に盲目な洞察になる。「言葉自らに語るように仕向ける」とは、自らを構成するものを詩として表現することそのものが自己構成の過程であるのだから何かを語るのは詩を作る主体ではなく言葉自身である、という意味になる。


3.個体芸術と疎外芸術

ここまでの議論を、実存と本質という区別から再構成したい。本質というのはあるものや概念をそれたらしめる客観的な規定のことである。定義とも近い。対して、実存という語は現実存在の略称であるが、サルトル等による実存主義の標榜によってその本来の意味が失われてしまっている。カントが神の存在論的証明を論駁する際に述べたように、存在することは事象内容的な述語ではない、つまり、現実性は何らかの客観的に規定可能な様相ではないという点から理解するのが分かりやすい。例えば、デイヴィッド・ルイスが可能世界意味論による様相実在論において現実であることは、指標的な意味しか持たない。

※可能世界意味論とは、可能性や必然性といった概念をこのパラレルワールドのようなもの(可能世界)を用いて説明する考え方のこと。以下では大雑把な話をするので反事実条件文や世界間での人物の同一性といった議論は無視する。

※様相実在論の最重要の主張は、可能世界が「実在」していること。

つまり、現実であると言った世界が現実になるのであって現実であることは単に私が実際にこの世界にいることを示す指標としてしか定義できない。この構造は、主体における実存、つまり、現に感じたり、考えたりする私においても同様である。私と他人の間には様々な事象内容的な、つまり、客観的に規定可能な区別がある。しかし、私が私自身であることは、このような客観的差異から捉えられている訳ではない。私は、年齢や性格や属性といった規定によって私なのではなく、端的に私なのである。このことは私が二人に増えた場合を想定すると分かりやすい。二人の間に客観的差異はないがどちらか一方だけが私である。

しかし、そのようにして把握される私=実存は、ただこの一つしかないように感じられるにも関わらず、様相実在論における現実性と同様に指標としてしか機能しない。例えば、現に感じたり考えたりしている私が実存だと言おうとしても、それは全ての人が言い得ることである。そのような仕方でしか私を把握することは出来ないことをまさに実存を理解するために論じた。このことを別の観点から言えば「独我論は語り得ない」となる。「世界はこの私からだけ現に開けている」という言明は用意に理解出来るし、それに賛成することも出来る。しかしながら、理解され賛成されたそれは発話者が元々言いたかったこととは全く異なっている。

※ウィトゲンシュタインはこのことを針と一緒に文字盤も動く時計という比喩で表現した。

そこでの「我」が発話者と受話者とで変わっているからだ。

※いや、むしろ変わっていると言い得る視点がないことが重要である。最初に考えていた世界の開けである「我」は語り得ない、つまり、存在しないものだったのだ。

だから、本来私であるのはこの私だけであると言いたいのだが、全ての私と言う人が私なのである。実存という語がこのような構造を持っている以上、ここまでの議論そのものに混乱があったと見るべきである。「私=実存はこの一つしかない」といったことを書くとき、書く人と読む人では全く異なる理解をしている、つまり、書く人は書く人自身を私と考え他人が私と言うということを一旦排除して記述するのに対し、読む人は筆者の側を消して読む人自身が私であると考えるからである。従って、最初に書こうとしていた実存については記述が出来ない。しかし、記述してしまった後では概念化されて客観的に語り得るものになる。

※現に今語れているし意味も伝わっている。(文章の下手さを差し引けば。)

むしろ、記述されない方の実存は客観的に語れないのだから存在しないのであり、概念化された実存の方だけがあるとしか言えない。

※ウィトゲンシュタインの「我」の注と同様の議論。

このようにして実存は本質化される、つまり、各人が現実存在しているという実存の概念の方だけが語られる。これによって最初に言わんとしていた意味での実存からすればあり得ないはずの「実存主義」が可能となる。そもそも各人に実存があるという理解が成立していなければ自分自身ですら実存を理解できないはずだ。理解するとは、一般的なものの中に特殊なものを位置付けること、だからである。最初言おうとしていた実存は客観的規定ではないのだから理解できないのは当然とも言える。とはいえ、ここまでの議論を通して実存が本質化される構造そのものは提示できたので、本来語り得ないはずの実存と、本質、を対比する形で以下の議論を進める。

※構造そのものが提示できているのは、最初に想定した実存が既に本質化されていた、故に(不完全ながら)語り得たからである。このように、書く中で実存は本質化され、それが理解されるときに本質化された実存が当人の実存として理解されることが言語による伝達の機制である。

※※上の注での説明そのものが本質化されたものであることに注意。

前章の終わりで詩作の本質を、『「言語が自らを作り出し、変容させていく様をメタ的に言語で記述することによる自己解明」によってはじめて構成される自己を詩によって定着し対象化して眺めること』と述べたが、本章でのここまでの議論を引き継げば要するに、『「実存が本質化されることによって自分自身に理解可能なものとなる」という構造そのものを本質化することによる自己の実存の解明』ということになる。当初言いたかった実存は、既に自分自身に理解され、かつそれを他人に語ろうとしていたのだから既に本質化されており、それ故、実存というのは本質化された実存から発生した「語の幻覚」でしかないとの解明が詩だということになる。

そうであるとすると、詩を発表する、あるいは、朗読することには語の幻覚の構造の提示という意味があることになる。しかし、構造の提示にしても出発点は受け手の側の実存にあるため、詩の作者の存在は忘れ去られなければならない。ならば、それを肉声で朗読することは不可解である。吉増自身、『「読み手のいる場所」を枯らす』と述べている。この問題に答えるためには、「声」に話す側と聞く側の二つの視点から見た意味があることを確認する必要がある。話す側の声は、読んでいるものに自らの解釈や思い入れといった固有の意味付与を行おうとする。誰が読んでも同じになるのではなく、私が読んでいることに特別な意味を持たせようとする。実存の議論を引き継ぐなら本質化されざる実存を示そうとするのと似ている。

※デリダが『声と現象』で言うところの「自分が話すのを聞く」ことを範型にする声である。といってもフッサールの議論は指示の条件について、類似性と、主観的な意味付与、という二つの隘路を退けるものであり、ノエシス-ノエマ-対象の三極構造においてノエマが対象と意識の関係を可能ならしめる公共的な意味の次元として働くことを解明しているのだから、「自分が話すのを聞く」を主観的意味付与と解してはならない。そうではなく、公共的な次元である意味すらも私の理解の中にある以上あらゆる言語は「自分が話すのを聞くかのように理解されざるを得ない」=私的(あるいは今的)言語である(意味における独我論)という端的な事実が、つねにすでに、コミュニケーションが成り立っている場の中で一般化=消去される、つまり、独我論が一般化されて表象主義として理解されることをデリダは指摘していると解釈すべきではないだろうか。ここでも問題となってるのは現実性(独我論)の概念化である。

対して、聞く側にとって声とは他者からの呼びかけである。その呼びかけは他者からのものと理解されるが、そのような理解そのものは聞く人自身によってなされたものでしかない。従って、呼びかけはどこまで行っても「呼びかけ」だと私が理解したことになってしまう。むしろ呼びかけの背後に私の理解の外にある超越的な他者を設定することが誤りである。全ては私の内部でのことでしかない。これは、私の実存の本質化が必然であるのと逆向きに、他者の実存が私によって本質化されるのが必然であることを示している。詩を読み上げる声が、実存に基づく自己解明の構造を語ろうとする「話す側の声」であるとすれば、それは聞かれることで必ず本質化され失敗に終わる。

言語を枯らすこととして詩を捉えている吉増がこの構造に気付かないはずはないのだから、朗読が聞かれることによって失敗する構造そのものを提示することで、失敗の原因である聞く側の実存の可能性を確保するのが彼の企図だろう。実存の語り得なさの中に聞く側による本質化があることは、逆説的に世界の全てを内部に含み込んでしまう聞く側の実存を沈黙のうちに示すものと考えることが出来る。

※失敗の提示によって、そこで述べようとしていたな内容を聞く側自身が理解することを可能にするという手法を多用した文筆家にニーチェがいる。例えば『ツァラトゥストラ』で語られているのは、ツァラトゥストラ自身がただこれしかない現実性に価値を見いだす悟りへの道筋だが、現実性をそのまま語ってしまうことえ、言わんとしていたそれは不可避的に本質化される。よってツァラトゥストラの没落がはじまる。

朗読の失敗による自己無化を通じた他者の実存の可能性の提示は、芸術一般における二つのアプローチの一つである。作品を通じて自己を無化し作品そのものを他者の器とするタイプの芸術の一種で、自己無化故に、疎外芸術と名付けたい。

※疎外芸術における低級の手法の一つが、感情移入である。

もう一方のタイプの芸術は、あくまで自分だけが現実存在であることを信じ抜き、自らの作品を誰にも見せず、死ぬときには焼却する。こちらの芸術はその定義上誰にも見られたことがないが、自他を並列する言語的世界観そのものと戦うが故に、個体芸術と名付けたい。

※個体芸術という名前は、永井均という哲学者がTwitterで使っていたのを借用しているが、私の用法と同じなのかわからない。

芸術史における天才は、当人によってはじめて可能となった芸術をあたかもそれ以前から可能であったかのようにする、即ち、可能性の領野を拓く者だが、そのように位置付けられることによって、芸術史と無関係であった当人の現実存在が懸けられた意図はなかったことになる。

※語り得ないので、最初からなかったという方が正しい。

芸術史に位置付けられ天才とされることこそがその意味で究極の疎外である。マイナー言語、マイナー文学を、疎外の中に必然的に組み込まれながらも、そうしたあり方そのものにおいて個体芸術の可能性を示すものとして考えたい。

本文でちゃんと明示できなかった参考文献
・谷口一平「存在と抒情 : 短歌における〈私〉の問題」(未来哲学 (2), 242-256, 2021)(※「白きを見れば夜ぞふけにける」はここから。)
・永井均『世界の独在論的存在構造: 哲学探究 2』(春秋社、2018)(全体的に影響を受けた。)
・野家啓一「志向性の目的論的構造」(科学哲学 18, 33-47, 1985)(フッサール理解はこれに拠る。)
・L.ウィトゲンシュタイン『青色本』(大森荘蔵訳、ちくま学芸文庫、2010)

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