『ブーガンヴィル航海記補遺』に見られるモラルへの介入
1.問題提起 「モラルへの介入はどのように可能になるのか?」
私たちはある種のモラルに対して、そこに正当性があるのかと疑ったり、別のモラルが受け入れられるべきだと考えることがある。しかし、モラルを、共同体内で暗黙裏に従われている規範、だと考える場合、特定のモラルへの介入は他のモラルを前提とするのではないか?人々がある言説に対して抱く正当性の感覚もまたモラルに由来するからだ。
モラルを日常の様々な場面で働く「権力」だと考えることも出来る。フーコーは『性の歴史』[1]に代表されるいわゆる後期の思索における最重要の転回としてこうしたミクロで能産的な権力の働きを見出した。フーコーによれば既存の権力理解は17世紀に発明された法モデル(禁止を与える)に依拠しており、そこから権力と抵抗の二項対立の中で抵抗を優位に置く単純な政治観が登場したとする。[2]このモデルにおいては、国家という単一の源泉からあらゆる権力が発生するとされ、例えば父親、雇用主、夫、大人、教師といった様々な場面における「権力者」を国家の「代表」と見なすことになる。フーコーは法モデルに依拠したこのような分析は既に失効しており、[3]権力をトップダウンでも単一でもないものとして、諸力の関係という観点から考え直す必要があるとする(戦争もしくは戦略モデル)。戦略モデルにおける権力の特徴は大雑把にまとめるなら二つに集約できる。
一つ目は、それが日常の様々な場面で異なるものとして作用し関係し合う多元的なものだということ。フーコーはしばしば権力のこうしたあり方を「ゲーム」と呼ぶ。[4]典拠はないのだがフーコーが一時期、分析哲学を熱心に学んでいた[5]ことを加味するとこの「ゲーム」の用法はヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」に由来するのではないか。ヴィトゲンシュタインにおける「言語ゲーム」が日常的な場面における言語の明示化不可能な規範性を説明するために導入されたものであることを踏まえると、[6]ゲームとしての権力の一種として「モラル」を位置づけることにも一定の妥当性がある。
二つ目は、「権力」が生産的なものだということ。法モデルにおける権力は否を突きつけるだけの否定的なものであったが、戦略モデルにおいては「真理」を保持し、人々にそれを語らせるものとして権力が作用している。例えば、キリスト教における「告白」は性の秘密を語らせることで自己に関する知としての「真理」を産出し、人々を「罪深い者」として位置づけた。[7]20世紀に入っても例えば精神分析学は患者との対話(分析=告白)によって「無意識」という「真理」を産出している。[8]このように権力は自己に関する「真理」を語らせることで、それと同時に人々を「主体化=従属化(assujettissment)」[9]するものであった。またさらに、告白は語る主体と語られる文の主語を一致させることで「言説」の生産をも可能にした。[10]この見方の下では権力に対する抵抗と見られる運動もまた別種の真理を産出しようとする権力として理解される。
前置きが異様に長くなってしまったが本稿ではこのような権力理解を援用しつつ、モラルを権力の一様態として位置づけ、その上で『ブーガンヴィル航海記補遺』を中心にディドロが当時のモラルに対してどのように介入したのかを検討することで、ディドロの戦略の特徴を際立たせたい。
2.「補遺」という戦略 ―ディドロの人間観―
ディドロは『ブーガンヴィル航海記補遺』だけでなく、『プラド神父の弁明書の続編』、『自然の解明に関する断想』などで他の著作の続編として、自らの思索を展開している。このような寄生的技法は既存の主張が所与のものとして受け入れていた前提に新たな意味を付与し、独自の議論へと我有化するために採用されている。
『ブーガンヴィル航海記補遺』において利用されているのは「善良な未開人」の表象である。この表象は古代から各地で見られるものだが、ことフランスにおいてはモンテーニュ『エセー』(1580)の影響が大きい。彼は「食人種」と題される章において新大陸の先住民が食人の風習を持っていることを紹介し、捕虜を復讐のため火で炙って食べる未開人と宗教の名のもとに人を火炙りにする未開人とどちらが野蛮か、と問うている。[11]ディドロは一見こうした「善良な未開人」表象を引き継いでいるかに見えるが、『ブーガンヴィル航海記』本編と照らし合わせるとこの表象が内破されていることが明らかになる。ブーガンヴィルが航海記を著した目的は、当時の知識人が不確かな情報や空想を元に未開人を善良なものとして扱っていることに反対し未開人の実際の生活を明らかにすることであった。そのため、タヒチの人々が他に類を見ない友好さで一行を迎えたというポジティブな事実だけでなく、当地に厳格な身分制が存在すること、近隣の島との戦争が絶えず行われていたことが記録されている。また、『補遺』ではブーガンヴィル一行が梅毒を持ち込んだことになっているが、実際には島民が一行に性病を伝染させている。[12]つまり、『補遺』における未開人は極限まで善良なものとして理想化されているのだ。その上でブーガンヴィルらによって彼らが堕落し、歓待によって特徴付けられていた島民の長が悪意を習得し、呪詛の言葉を餞別とするまでに変わり果てる経過を描くことで、人間の自然本性が善でも悪でもなく、常に変転する可能性を持つことを鮮烈に描いている。
人間本性が善でも悪でもないというのは自然法論、及び社会契約論に対する批判となりうる。ディドロが1750年代に『百科全書』の項目「自然法」を執筆した際には「人類の観念 を絶えざる変化のうちに想定するとしても、自然法の本性は変わらないであろう。」[13]と述べ、人間本性のうちに正義としての自然法が存在するとしていたが次第に立場を変え、そうした固定的な人間観を否定するようになっている。社会契約論に関しては、ルソーとディドロの対立を見るのが分かりやすい。ルソーは社会以前の、自然状態の人間のあり方を善なるものとして描き出す。「人間たちは邪悪である。たえず繰り返される悲しい経験を見れば、その証拠を示す必要もない。しかし、人間は自然にかなったあり方では善良である。」[14]ルソーはキリスト教信者であったため、ディドロとは異なり堕落の原因を学問や技術、即ち文明社会の発展にみる。[15]これに対してディドロは唯物論的見地から自然状態の人間には自然界のものと同様のエネルギー=パッションのみがあり、パッションが直接道徳的善悪と繋がることはないが、パッションを抑制することは自然の摂理に反し不合理だとした。[16]社会契約論一般の構造とは人間の自然状態を想定し、その前提から合理性のみに拠って契約状態を演繹することで本性+合理性から道徳的責務を導くものであるが、本性の規定をそこから契約状態を導き出すまでに内容の濃いものとすることは出来ないということを示すために、あえて自然状態を、それも「補遺」の形式において示したというところに、自然本性という物語に基づく社会契約論をも同じく物語の力によって内破しようとするディドロの企図が読み取れる。また、そうした人間の本性が開示されるのが主として性に関する規制を巡って展開される物語である点にフーコーが指摘した性を巡る告白による真理の生産としての権力(=抵抗)の実践を見ることも容易い。
3.分類と偏寄 ―ディドロの真理観―
再びフーコーに戻ってしまうことになる… 17、18世紀を古典主義的エピステーメーと括った『言葉と物』における議論を参照してみよう。古典主義の時代には、言葉と物の一致が措定され、表象があたかも透明であるかのように扱うことで、概念の体系によって世界をそっくりそのまま表すことが出来ると考えられた。知は「マテシス」(代数学)、「タクシノミア」(分類学)、「発生論的分析」(※秩序の起源への遡行)の三つの方法によって体系化されることで一望可能な秩序へと編成される。こうした議論の下で『百科全書』は世界を言葉によって写し取り一つの平面の上にまとめあげる計画として理解され、古典主義的エピステーメーの結実のように見なされた。しかし、ディドロが固定的な人間観を拒否したところからも分かるように、ディドロの方法を静態的な秩序への位置づけ=分類と見なす理解は不十分である。『百科全書』に基づいてそれを立証することは発表者の知識不足により不可能だが、『補遺』の自然に関する一描写にディドロの企図を読み取ることが出来る。「肉体をもった二人の人間がとり交わす変わらぬ愛の誓いとかいうのもそうだ。この誓いとやらは、ほんの一瞬の間も同じ姿のままでいない空の下や、今にも崩れそうな洞穴のなかや、粉ごなに砕けて落ちる岩の下や、ひび割れした木の下や、ぐらぐら揺れる岩の下で交わされるのだから。」[17]この一節を理解するためには当時の学問状況を大雑把に知っておく必要がある。しばしば、18世紀は科学の転換期と言われ、17世紀以来力を持っていた二つの潮流であるデカルト的な、演繹によって体系を構築する「合理哲学」とベーコン的な、帰納によって蓋然的な知識を増やしていこうとする「実験哲学」とのせめぎあいが後者の勝利へと進み、まさに分類に基づく経験主義的な探求の方法が主流となっていった時代とされる。[18]両者のせめぎあいの一例としてイギリスのニュートン主義者サミュエル・クラーク(実験哲学的)とドイツの哲学者ライプニッツ(合理哲学的)の論争(クラーク-ライプニッツ論争)がある。様々な話題に関して議論が戦わされたがその中心は神と宇宙の関係であり、クラークは理神論的立場から宇宙を自足した機械、神を時計職人と位置づけたのに対し、ライプニッツは宇宙が創造された時点でいかなる被造物も最善のものとして決定され(予定調和)、そこから理由の連鎖を辿り続けることが出来る(充足理由律)と考えた。[19]クラークが実験結果からの帰納によって宇宙の秩序を捉えようとしているのに対し、ライプニッツは神という出発点からの演繹によって宇宙を説明している。両者の対立を参照しつつ、ディドロはライプニッツの「不可識別者同一の原理」(その要点は、互いに異なる位置にあると識別できるものは異なる個体同士だということ)を擁護し、世界が同じことの繰り返しからなるとする静態的な描像を否定する。だからこそ、先に『補遺』から引いた一節では自然の変転が語られていた。しかし、ディドロはライプニッツのような神による設計の観念も同時に否定する。その上で、エピクロス、ルクレティウスの、予測不能な動き(クリナメン、偏寄[20])を持つ原子に関する論を念頭に、長いスパンをかけて総体的に変化していく自然観を採用している。こうした姿勢は「どんなに早くても一〇〇〇年後にならなければ、私のつまらない問いに答えようとはしないだろう。いや、それどころか、自分が空間と時間のなかでわずかな広がりしか占められないことを絶えず考えて、決して私の問いに答えようとはしないだろう。完。」[21]という『自然の解明に関する断想』最終節における一見悲観的な一節にも表れている。しかし、これは単に悲観的なのではない。帰納にせよ演繹にせよ私たちは完璧な体系を構築することは出来ず、分類を原理に据えた探究はどだい有限のものでしかないという主張は18世紀の知に対する根源的な批判であり、かつ、自然のうちにあって変化を呼び起こす潜勢力=偏寄に注目することを宣言する革命的な一節であった。このようなディドロの姿勢と照応するものとして静態的な真理の体系に還元されざる偏寄をはらんだ人間、自然が『補遺』では描かれている。
4.まとめ
ディドロは自然法論、社会契約論や科学における方法論同士の対立の背後にあってそれらを成り立たせているもの、つまり、人間本性の規定や静態的真理観といったモラルに対し、「補遺」を付け加えることや当時の対立の枠組みそのものを自然の潜勢力に訴えて破壊することを通じて介入していることが分かった。「補遺」という方法は既存の物語を内破し、新たな物語を創出するものとして、偏寄の強調は特定のモラルが生産した二項対立の枠組みそのものを問いに付すことで全く新しい真理観を創出するものとして、いずれもフーコー的な権力=抵抗実践として読むことが可能である。すると、暫定的な結論としては「モラルへの介入は、既存のモラルに基づいて議論しつつその枠組みを疑問に付すことで、内部から新たなモラルを生産することによって可能となる」と述べることが出来るのではないか。そして、その媒体として語の意味の比喩的な拡張が可能である物語の形式が有用だったのではないか。
〈参考文献〉
・市田良彦「文学、存在、フィクション」(2022、ネット記事(5/27閲覧))
・井柳美紀「ディドロの政治思想~もう一つの《啓蒙》~」(政治思想研究 5, 81-101, 2005)
・鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』(講談社現代新書、2003)
・小池健男「善良な未開人の虚像と実像 (II): ラオンタンからディドロまで」(大妻女子大学紀要. 文系 24, 1-15, 1992)
・佐原怜「アルフレッド・ジャリにおける知性の原理」(言語情報科学 10, 221-236, 2012)
・J.J.ルソー『人間不平等起源論』(板倉裕治、2016)
・田口卓臣『怪物的思考』(講談社選書メチエ、2016)
・M.フーコー『知への意志』(渡辺守章訳、新潮社、1986)
・小林康夫等訳『フーコー・コレクション5 性・真理』(ちくま学芸文庫、2006)
・山ロ俊治「ディドロとルソーの関係」(高知女子大学紀要人文・社会科学編20, 13-20, 1972)
・R.シュトラウス『政治哲学とは何であるか?とその他の諸研究』(早稲田大学出版部、2014)
・『シリーズ 世界周航記2』(岩波書店、2007)所収)
[1] 第一巻『知への意志』(1976)、第二巻『快楽の活用および第三巻『自己への配慮』(1984)、第四巻『肉の告白』(2018)(没後出版)
[2] 「性の王権に抗して」(小林康夫等訳『フーコー・コレクション5 性・真理』(ちくま学芸文庫、2006)所収)pp.60-61参照。
[3] 恐らくは1968年の運動の失敗が念頭にある。文脈は異なるが、フーコーは「性の解放」を謳い、これまで悪として排除されてきた「性」を善(「よい側」)とするような転覆の運動を念頭に次のように述べている。「別の側へ、よい側へと、身を移さねばなりません。しかしそれは、そうした二つの側を出現させるメカニズムから身を引き離すためであり、支持を得ているその別の側というものの偽の統一性、その錯覚に満ちた性質を、解体するためです。まさにそのときに、真の仕事、現在の歴史を語る者の仕事が始まるのです。」(同書、p.54)
[4] 「権力は無数の点を出発点として、不平等かつ可動的な勝負〔ルビ:ゲーム〕の中で行使されるのだということ」(M.フーコー『知への意志』(渡辺守章訳、新潮社、1986)p.121)
[5] 「69年の『知の考古学』に至るプロセスでフーコーがオースティンからはじまる言語行為論、分析哲学に深く耽溺していたことは今日では周知の事実ですし、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」概念をフーコーが自分なりに変奏してその後自家薬籠中のものとしたことも同じです。」(市田良彦「文学、存在、フィクション」(2022、ネット記事(5/27閲覧)))
[6] 鬼界彰夫は言語ゲームが私たちの「制度内存在」としてのあり方を浮かび上がらせるものだと紹介している。『ウィトゲンシュタインはこう考えた』(講談社現代新書、2003)第四部第7章(pp.281-301)参照。
[7] フーコー(1986)pp.76-82
[8] 同書pp.144-145
[9] 同書p.79。sujetは元来下に置かれたもの、服従した者であったが、現在では主体という意味の方が一般的である。このことを利用した言葉遊び。
[10] 同書p.80
[11] 小池健男「善良な未開人の虚像と実像 (II): ラオンタンからディドロまで」(大妻女子大学紀要. 文系 24, 1-15, 1992)pp.1-2
[12] 同論文、pp.11-12
[13] 井柳美紀「ディドロの政治思想~もう一つの《啓蒙》~」(政治思想研究 5, 81-101, 2005)p.85より孫引き
[14] J.J.ルソー『人間不平等起源論』(板倉裕治、2016)p.157(原注9)
[15] レオ・シュトラウスによるとルソーはホッブスから反目的論的原理を受け継いだため、自然法や人間の善性に訴えることで社会がより良くなるという描像を採ることは出来なかったという。R.シュトラウス『政治哲学とは何であるか?とその他の諸研究』(早稲田大学出版部、2014)p.46
[16] 山ロ俊治「ディドロとルソーの関係」(高知女子大学紀要人文・社会科学編20, 13-20, 1972)p.17
[17] D.ディドロ「ブーガンヴィル航海記補遺」(中川久定訳)(『シリーズ 世界周航記2』(岩波書店、2007)所収)p.180
[18] 田口卓臣『怪物的思考』(講談社選書メチエ、2016)pp.28-29
[19] 前後文のライプニッツ、クラークに関する説明は田口、前掲書のpp.165-173を参考にした。
[20] 佐原怜「アルフレッド・ジャリにおける知性の原理」(言語情報科学 10, 221-236, 2012)p.225のクリナメンの説明の中で使われていた。
[21] 田口、前掲書、p.174から孫引き。
※大学のレポート課題
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