志向性と言語に関するめも

志向性は現象学における最重要概念だが、それがどのようなものなのか、特に「いかにして意識と世界とが関係するか」という志向性に固有の問題がいかなるものなのかが分からない。そのため、以下ではフッサール自身の記述ではなく野家啓一「志向性の目的論的構造」を参考にして志向性と言語との関係について整理する。フッサールは志向性の構造は「ノエシス-ノエマ-対象」の三極構造になっており、ノエマが意識と対象との関係を可能ならしめる「意味」の次元として働いている。[1] この図式によって二つの隘路が避けられている。一方の極は、指示の条件を類似性に求める理論だが、この理論は例えばアリの歩いた軌跡がたまたまウィンストン・チャーチルの顔とそっくりであったという場合を想定した時、アリはチャーチルの顔を描いたという帰結を導いてしまう。[2]「描く」という何らかの対象への指示を含む行為の判定基準が類似性のみだからだ。もう一方の極は、主観的な意識作用が意味を付与することで指示が可能となるといういわゆるハンプティダンプティ理論である。こちらの理論に基づけば、例えば「ニレ」と「ブナ」の区別が付かない人にとって、その人にとってのニレとブナの概念は同じであるのだから、ニレもブナも同じものを指示する名辞であることになってしまう[3]。フッサールの志向性は、一方でノエシスという意識的な契機を残しつつ、他方でノエマが公共的な概念連関(要するに相互の正当化関係なども含めた広義の言語)に基盤を持つものであることによって真偽を問うことの出来る客観的なものとして世界と意識との関係の説得的なモデルを提供したと言える。これは、志向と充実の関係を物理的な特性や精神的作用に基づかない内的な関係として定式化するものであった。

志向性の三極構造によって、ノエマを真偽の問えるものとして確保したということの意味は、ノエマと対象とのズレを常に前提としているということである。例えば、知覚は常に誤る可能性を持ち、新たな情報によって対象を異なるものとして把握することがあるが、これが可能なのは意識作用において常に非顕在的な部分、つまり、地平があるからだ。志向と充実の関係は内的なものであることを考慮に入れれば、ノエマと対象とのズレを修正し対象との一致による充実を目指す統制的な傾向が志向性そのものに内在していると言える。従って、志向性は目的論的構造を持っているのである[4]。

目的論的構造とは、志向性が何らかの目的を適切な手段を選択して実現しようとするものであることだが、ここまで来れば最早志向性を何らかの精神的作用と考える必要はないのではないかというのがウィトゲンシュタインの提起した論点である。ウィトゲンシュタインはフッサールとは独立に志向と充実が内的関係にあることを論証したが、その後、志向と充実とが内的関係にあるのだとすれば意味付与作用のみならずあらゆる外的な精神作用は余計なものであり、言語による表現によって志向が可能となっていると考えるようになった。[5] 志向は、「あれは犬だと信じる」(信念)、「私は満腹になりたい」(欲求)などなどの形で目的を定め、必要であれば「犬だと思うのはふわふわした四足歩行の生き物だからだ」(理由付け)、「満腹になるためにラーメンを食べたい」(手段)という補足を加えることで目的論的な仕方で表現されるものであり、そうした表現を通じて存在するものである。そうした表現なしに何かを志向することが出来ると言いたい場合、志向と充実との内的関係を言語以外の仕方で定式化する必要があるが、言語以外のものによって定式化することが出来た場合でもその関係の言語的表現が志向であるのでなければ、ノエマによる公共的な意味の介在を説明することが出来ない。従って、志向と充実の関係は言語に内在的な「文法的」関係でしかありえないのである。

志向性が言語に内在的な関係であり、対象との接近がノエマを介して行われることを確認した後では「いかにして意識と世界とが関係するか」という問題は擬似問題であったことが明らかである。志向性は言語内部での関係であり、世界における対象との関係は志向性の問題圏域ではなく言語そのものの問題圏域であるからだ。そして、言語と世界との関係は真偽の判定が可能な命題に典型的なように常に言語内部での正当化関係に終始する。私達は言語において世界を捉える(世界そのものを拓く)からこそ、世界と言語の広さは同じであり、言語の外で言語を基礎づけるものは存在しない。このような観点から見れば全ての意識が志向性を持つということは即ち、私達は言語の内部で生きる存在であるということである。他者という超越との関係もまた、言語的に捉えられる表現(ウィトゲンシュタインであれば「規準」と呼んだだろう。)によって他者の志向性を想定することである。このことは、他者は行為-理由、あるいは、目的-手段という目的論的構造のうちで理解されるということだ。また、意識と世界との関係という問題が解消されることで伝統的な意味での心身問題も解消される。心身という区別がそもそも間違っており、意識も実在としての世界も言語によって可能なものとなる存在として連続しているからだ。



[1] 野家啓一「志向性の目的論的構造」(科学哲学 18, 33-47, 1985)p.39

[2] 同論文、p.33。H.パトナムが提示した思考実験である。

[3] 野家、前掲論文、p.40。パトナムの思考実験。

[4] 同論文、pp.43-44

[5] 永井均『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書、1995)pp.112-130。中期から後期ウィトゲンシュタインの哲学がフッサール批判と読めることについては「黒田―滝浦論争」において問題化された。この論争については柴田正良「ある論争のかたち : 黒田-滝浦論争に寄せて」(飯田隆編『ウィトゲンシュタイン読本』(法政大学出版局、1995)pp.120-130)が簡潔にまとめている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?