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分かり合う必要はなくても手を取り合う必要はある

仕事の上で対立した利害を完全に調節することは不可能だ。
誰かが有利、誰かが不利。
絶対的な神の視点で見えざる手を振るうことができるのであれば話は別だが、少なくとも仕事においてそれはない。仕事とは人間が生み出した概念だから、人間が責任をもって進めなければならない。

神はいないが、例外的に神のようにふるまう人は居る。
いわゆる独裁者のような自分こそがルールと言えるような、ワンマン経営者や立役者、カリスマ、物言う株主など。不条理を不条理として押し通す権力なのかハッタリなのかはわからないが、そんな言動力をもってしまった人。
これは神というよりかは天災と言えよう。コントロール不能。理解不能。わたしたちの善悪の及ばない世界で生きているのだから、これに逆らおうとすることは労力の無駄だ。

そんな天災はさておき、凡人同士ならという話。
仲良くなることはできないかもしれない。しかし、わたしたちは友達ではないのだから仲良くする必要はない。
しかし、わたしたちは共に成果を追い求める仲なのだから、いがみ合う必要は全くない。派閥や信条や個人的な感情論など小さなものだ。わたしが本当に成果を出したいのであれば、あらゆる手を使ってでもベクトルを揃えて協力できる点を模索することを、あきらめてはいけない。
絶対に、あきらめてはいけない。

協力とは言葉こそ美しいが、そんな甘い幻想は抱けない

三方良しという言葉がある。いわゆるWin-Winのようなものだ。

「商売において売り手と買い手が満足するのは当然のこと、社会に貢献できてこそよい商売といえる」という考え方だ。滋賀大学宇佐美名誉教授によれば、「『売り手によし、買い手によし、世間によし』を示す『三方よし』という表現は、近江商人の経営理念を表現するために後世に作られたものであるが、そのルーツは初代伊藤忠兵衛が近江商人の先達に対する尊敬の思いを込めて発した『商売は菩薩の業(行)、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの』という言葉にあると考えられる。」とのことである。

近江商人と三方よし / 伊藤忠商事ホームページ

理屈をこねるのは簡単だ。
美しい絵を描けば行為を正当化することができるのが人間の良いところだ。
こうも美しく、純粋な菩薩の業に打ち込める仲間が揃っているのであれば、それはとても幸せなことだろう。非常に残念ながら現実はそうではないケースが多い。理にかなっていても感情がついてこない大人は多いし、三方が上手くまとまったとしても未知の第四次方向から槍が撃ち込まれることはままあることだし、第一同じ集団に属していたとして同じ成果・同じ姿を目指しているという統制が取れていることは稀だろう。
足りない部分を想像力で補い合う能力を獲得できなかったネアンデルタール人のように、わたしたちサピエンスもまた想像力で補うことができなければ協力し合うことは依然不可能なままだ。

完全に分かり合う必要はない。
だからきわめて利己的に、姑息に、狡猾に、相手をたぶらかす。
表面立ってできないことであればあるほどいい。そういうちょっとだけ日常からはみ出して、そこにはいない誰かを悪者にして、自分にできる権限を越えるようなそぶりを見せびらかして。

こんなこと言ってはいけないのだけど、あなただけにこっそりと教えてあげましょう。
その代わり、次の交渉は、ほんの少しだけ便宜を図ってくださいませんか?

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