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"コンテンツ"という言葉が好きじゃない。創作物を尊敬するために必要なこと

「2019年は良質なコンテンツが豊作でしたね」

こんな表現を聞くたびに、胸がチクッと痛む。

コンテンツ。

わたしは"コンテンツ"という言葉が好きじゃない。対象を消費物として扱っているようで、水物、消え物として見ているようで、申し訳ないような寂しい気持ちになる。

日本語はつくづく不思議で、なぜだろう、カタカナには魂を感じない。音を表すだけの表音文字だからかもしれない。

同じものを指すにしても、"内容物"と呼べばその言葉が肉体と魂を持つのに、"コンテンツ"と呼ぶと、その文字列は何の意味も持たないように見える。

外国の言葉がカタカナ語として輸入されると、本来の意味から離れていく場合が多い。

たとえば"テンション"は本来、英語で"緊張"を指す言葉で、「ハイテンション漫才」なんてもう、日本と英語じゃ真逆の芸風になる。明るく元気よくお喋りな"ハイテンション"漫才と、かたや緊迫した空気の中行われるハラハラした"high-tension"漫才。

今の日本で使われている"コンテンツ"という言葉は、世の中の創作物全般を表しているのだろう。映画、ドラマ、テレビ番組、本、ウェブサイト、ウェブ上の文章、絵、スポーツの試合結果、誰かが何かをしている動画、ニュース、その他なんでも。

なんだって表せる、便利な言葉だ。だけど何かを指しているようで、なんにも指していないような気がするのはなぜなんだろう。

敬愛する表現者が手塩にかけて生み出した作品を、私はコンテンツと呼ぶことができない。

大好きなカーペンターズの音楽も、偉大なるベートーヴェンの楽曲も、夢を運ぶ映画やドラマの数々も、歴史と共に生き残ってきた素晴らしい絵画も、"コンテンツ"なんて呼べないよ。みんな魂の籠もった"作品"なんだから。

何かを創作すること、表現すること、作ることは、本当に難しくて、大変で、時に苦しくて、それでもやめられない、歓びに満ちたものだ。

その過程を知っていること、経験していることは、他の創作物への態度を良い方向へと変えるだろう。

インターネットが普及して、昔よりずっと容易に作品を発表できて、誰もが創作者になり得る時代。

創作で名を馳せる人、ご飯を食べられる人は限られている。夢が叶う人、叶わない人、その中間でもがく人、いろいろいる。

この世は結果だけが全てじゃない。なんの結果も出なくても、夢追い人で終わっても、生みの苦しみを知ることは人間としての大きな学びとなる。先の人生で出会う作品を、表現を、ものをつくる人を尊敬できる人になれる。

わたしは"コンテンツ"という言葉が好きじゃない。本来の意味から離れていくのがこわい。言葉狩りがしたいわけじゃないけど、この言葉は使いたくない。

一人が使えば、みんなが使う。一人が使わなければ、みんなが使わなくなる。

間に合わせにつくられた創作物を乱暴に消費するだけの味気ない世の中にならないよう、言葉が持つ力について考えてもらえるよう、願いを込めてこの文章を終える。


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