表現がうまれるとき

新潟県に離れて暮らす家族と、富山県南砺市に展覧会に行った。障害のある人たちの表現をはじめとしたアール・ブリュットにまつわる展覧会で、妻が企画に携わっていた。まだ3歳の下の娘はとにかくあっちこっち動き回るものだから、ゆっくり観れたもんではなかったけど、まもなく小学2年生になる上の娘はひとつひとつ感想を言ったり、描いている人がどういう人なのかに興味を持ったりと、だいぶ楽しめるようになってきた。

展示の横には小さな物販コーナーがあり、そこには北陸圏内を中心にさまざまな福祉施設で生活する人たちがつくった雑貨がある。Tシャツにバッチ、ハンカチなど。なかでもチャーム付きのトートバックに関心を持った上の娘は「パパ、これがいい!これ買って!」と何か買うなんて一言も言ってないのにすっかり買ってもらう気満々だ。まぁ確かにかわいいし値段も手頃だったので、「チャームを4つ、その箱の中から選べるみたいやね。いいよ。選んだら?」と答える。

隣に置いてあったブックカバーとノートのセットがとてもかわいくて手に取っていたら、娘が急に「こっちがいい!」とそのセットを横取りする。これは結構高い。それに娘に文庫本サイズのブックカバーなんて必要ないし、ノートも先日買ったばかりだ。

「あんた、こんなんいらんやん!それにこれ高級やから、バックにしとき!」
「いやん!これがいい!」
「あかんて」
「いやー!これ!」
永遠とつづくやりとり。

その様子をニヤニヤと見ていた展覧会のディレクターのYさんが一言、「いやぁ、子どもの生態系を見れて面白いなぁ」と。なんかやりとりを見られている手前、バツも悪くなり、あまりにほしいほしいとやかましいので、「何に使うの?」とちょっと譲歩した質問を投げかけた。すると娘は「漫画を描く」と答えた。それは確かにいいアイデアかもしれない。このノートはそれ自体が誰かの作品であって、その白紙のページに別の誰か、つまり娘の作品をつくるのに合っている気がしたのだ。大いなる根負けと仄かな納得をもとに、このブックカバーとノートのセット、そして自分用に小銭入れを購入した。

次の日、娘二人と公園で遊び、ポケモンの映画を観て、夕方に差し掛かる頃、風呂掃除をしだした僕に娘は「いまから漫画描くね」と宣言しにきた。手には子供達に人気の4コマ漫画『しずくちゃん』も携えられていた。「漫画ってどうやって描いたらいいの?」と富山からの帰りの車中で聞かれた際に、妻は即座に「そんなん、おとうちゃんに聞いたってだめよ。」と絵がまったく描けない僕を尻目に答え、続けて「しずくちゃんとかを真似してみたら?」と提案した。娘はそれを忠実に守ったわけだ。その参考図書からコマ割りや絵や吹き出しのバランスなどを学んだ娘は、オリジナルストーリー「のーたん」を生み出す。ノートの姿をしたのーたんが、「えんぴつおばさん」や「じょうぎおねえさん」や「ふでばこにいさん」にようなステーショナリーキャラクターと共に楽しい日常を送る話のよう。

第一話はのーたんがじょうぎおねえさんから鬼ごっこをしようと誘われたが、やったこともないのに「やろうやろう!」と答えるはいいが、いざ始めると「ルール知らない!」と言って周りがずっこけるというお話。その制作の横で洗濯物をたたんでいた僕に、「“ズコー”てどう描くの?」と真顔で聞いてきたので、絵心のない僕はなんとか体を逆さまにして2本足だけがつったてる絵を描き「これでずっこけてる雰囲気でるんじゃない?」と答える。しかし、絵が下手すぎたのかあまりピンときていない様子だったので、やむなくスマホで「ズコー」を画像検索し、様々なタイプの「ズコー」を見せる。すると「わかった!」と納得したようで、なかなか素敵な「ズコー」が誕生したのだった。

この様子を見ていて思わず娘に、「いいなぁ」と言ってしまった。「なにが?」という娘に「いや、ミコはさ、表現するってことのさ、ほんとうに楽しい部分をいまやってんじゃん?それってほんとうに素敵なことなのよ」と真顔で答える。「パパも本書いたり音楽つくったりしてるじゃん」と普通に返されたのだが、ここからが子供に聞かせていいのかどうかって話だ。「いやさ、おとうちゃんさ、いま書けないのよ。なんかね、作れないの。そういうのスランプっていうらしいよ。だからミコの中からそうやってどんどん描きたいものが出てくる感じが羨ましい。でもそうなれるように、いまはあんまり動かず待っている感じかな」。一体娘に何を話してるんだ。悩み相談じゃないか。娘はそれに対しては特に何も答えず、「ふーん」って感じだったけど、まぁ僕が言いたいのは別に悩みを聞いてほしいってことではなくてね。

いままさに表現をしていること。何かを生み出そうとしていること。それ自体がものすごく大切で素敵なことなのだ。

ということを伝えたかったんだと思う。

もし、学校で友達とわかりあえないことがあっても、給食が遅くて惨めな気持ちになっても、ピアノがいやで仕方ない日があったとしても、先生の言葉やニュースの言葉になんか納得できないと感じたとしても。そしてそのモヤモヤを言葉で伝えるのが難しかったとしても。それでも何かを表現したいなぁと思えることは、大袈裟でなくこの世界に関わることであり、この世界をほんの少し変えることである。のーたんの物語は、そんな「世界」とは無縁なほどまったりしているのだが、でも、そういうことなんだ、と。

東京に戻ったら家の前の桜がずいぶん散っていた。そして4月になった。すぐには進めないかもしれないけど、ちゃんと蓄えつつ、「表せるからだ」を再生したい。


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