「会う」の変容について

「以前/以後」という語りが、このコロナ禍では、確実に準備されている。「以前/以後」につきまとう時間の断絶は、「社会的」に共有されるのと同時に、もちろん個々人の「私的」な人生のタイミングとセットで語られていくだろう。

昨夜友人の編集者Iとzoomで久しぶりに対話した。その時に、僕がIに言ったのは「“会う”という状態に対する認識が変化するか?」という問いだ。つまり、これだけお互いが家にいる状態でネットを介して「会う」ことを重ねていると、もちろん一定コロナが落ちついたあとは、揺り戻しで「直接会う」ことの体験の強度は自ずと上がるだろうけど、専門家会議副座長の尾身茂さんの言う「新しい生活様式」と「徹底した行動変容」を経てからは、「もう(ネットで)会ってるし、(直接)会わなくてもよくね?」的な言い回しがありえるのかどうか、って話。例えば政府は「オンライン帰省」とか言ってるけど、それも含めて「帰省の一形態」にほんとうになるという話。

Iは、こう言った。「それはこの状況を体験するのが何歳くらいかによるんじゃね?」と。確かに、そうかも。兵庫出身のI曰く、神戸の震災のときに一番その後の人生を狂わされたのは、当時大学生だった人たちではないか、と。僕がお世話になってきた広い意味での「活動家」は、結構それにあてはまる。学生時代に神戸に震災ボランティアに行って、そのまま非営利セクターでの研鑽を深めて、社会起業家になってゆく人たちが周りに結構いる。あと、インターネットが幼少期からあって身近に触れているいわゆるデジタルネイティブな世代に比べて、僕は1979年生まれだから「現実」への認知と「ネット世界」の認知の区別が付いている(正確に言うと区別してしまう)世代として生きてきたけど、その両者の区別に特段意味をもたない感覚はあるわけで、コロナがもたらすコミュニケーション様式の変化が、どのくらい日常の認知の仕方を速度感を持って更新していくのか、ってのはすごく気になっている。

もし「会わずとも会っている」ことになるのであれば、「直接会う」(今はこういう言い方で書いているがもっとこの状態に対する違う言葉や、また直接会わないで会うことに対する違う言葉も生まれていくのかもしれない)ことは、ほとんど「触る」に近いことになるだろう。直接会わないとできない時間が、すべての「会う」のなかで、そのエッジ感を増し、その場のクオリティとオリジナリティがより一層求められていくことになりゃせんのかいと。そのとき、ほとんどその場の設定はある種の「表現感」を帯びるのではないか、というのが僕の妄想であり失望を無理やり反転させた希望でもある。

「会う」から「触る」ってのは、かつて90年代に言われた「意味から強度へ」的な焼き直しになるかもしれないけど、そのとき冒頭に書いた時間的な「断絶」が、かつての「(何も考えず)会えていた時代」に対する記憶への憧憬が「意味」となり、その「意味」にある程度依拠しながら、存分に「強度」を兼ね備えた「会うの先端」が発生する。次回はその時代の「表現の必然性」について、書こうかしら。

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