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奢られるのが苦手だ、という話。

母に「産み・育ててもらう」対価として「絶対服従」を要求されながら育った私は、奢られるのが物凄く苦手だ。怖い。奢られるとなると、次は一体何を要求されるのか、見返りに何を提供せねばならないのか、とめちゃくちゃ身構えてしまう。

なので、相手が明確に目上で「面子を立ててあげる」必要がある場合や、はっきりと相手の「好意を受け取る」意思がない限り、極力奢られないように立ち回りつつアラフォーまで生きてきた。例えば「女である」というだけの理由で男性に奢られるなど言語道断で、それで過去に彼氏と喧嘩になったこともある。

「人前で女に財布を出させたくない」と強硬に主張していた当時の彼氏H君は、今思えば優良物件だったのかもしれないが、当時の私には「意味の分からん男性優位思想」としか思えず、しかし何とか「飲食店での会計はH君、私の自宅で飲み食いする時の食費は私持ち」という結論にして手を打った。その後、H君が部屋で夕飯を食べていくパターンでのデート頻度が上がったために私の負担が増えすぎて、新たな喧嘩の火種になったりもしたが、その話は置いておく。

ちなみに奢られても平気な例外パターンが存在して、それが「先輩・後輩関係がある場合」だ。これは学生時代のサークルで、先輩に奢って貰うのが頻発する文化だったからなのだが、「先輩に奢ってもらう代わり、自分が先輩になった時には後輩に奢れ」と言われてからは変に引け目を感じずに済んだ。その後社会人となってからは上司に奢られるシーンが発生したが、これも先輩後輩のようなイメージで受け入れることが出来た。
対等なコミュニケーションとは何か、が今一つピンと来ない私には、体育会系の縦社会ルールは非常に分かりやすく、納得しやすかったのだ。

そんな私にとって、巷の男女間の奢り奢られ論争は、「ほえー」としか言いようがない話である。特に付き合いの浅い異性の間でなど、よくそんな怖いことできるなぁ、とつい思ってしまう。
「相手がどこの誰で、どういうバックボーンをした人間で、だから私に対して無体な要求はしないはず」という確信、あるいは「どういう要求をされようとも応えてあげたい」と思うほどの信頼や好意がなければ、私は他人から何かを受け取ることが出来ない。受け取ってしまうことで、相手の要求を拒否する権利を失うのが恐ろしいからだ。

私からすると「女だから」と男性に奢られるということは、奢られた金額分のサービスを「女として」提供する必要があるという契約になる。「後輩や部下として」奢られるなら「後輩や部下として」返せばいいが、「女として」返すとなったら手段は限られる。恋愛感情がなければまっぴらごめんだし、あったらあったで対等でない恋愛関係になってしまう訳で、なのでよほどの理由がなければ奢ってもらう訳にはいかない、ということになる。
この厄介な思考を経て、若かりし頃の私はずっと交際相手に対しても、常に完璧に自分の分は払い、どちらかと言えばやや私の負担を多めにしてようやく安心する、という感じだった。

他人に話すと「出来た彼女」と言ってもらえるこの習性は、男性側の財布への思いやり、のような優しさ由来のものではない。直接的にはそういう名目で相手を説得することが多かったが、本音は単に私の恐怖を緩和するための自己防衛である。
「貸し」がある分には自分が取り立てなければいいだけだが、「借り」があるのは、怖い。対等であるためには完璧にプラマイゼロか、自分がプラスでなければならず、「サービス提供者」になりたくないなら、何一つ余分に受け取らないよう、最初から拒否するしかないのだ。

だが、恐らくこの概念は間違っているのだろうと、流石にここ数年で気付いてきた。あらかじめそういう「契約」をしているならともかく、善意での「贈与」であるならば、誰から何を受け取ろうとも、相手を拒否する権利を失うことはない、はずなのだ。
少なくとも普通の人はそういう世界観で生きていて、だから多くの男性が「女の子だから奢るよ」なんて平気で言えるのだろう、と。

逆に自分はどうかと考えてみれば、確かに今から後の人生で、例えば息子の同級生のような子に何か奢ったとして、「だからこの金額分は言う事を聞け」なんて言うつもりはないし、そもそも思いつかないだろう。
ならばきっと、若い頃に奢ってくれようとした方々も、そんな気分だったのだろうなぁ、と思うとこう、何とも申し訳なかったと思う。
奢ろうとして下さった皆様、可愛げがなくてすみませんでした……。

アラフォーとなった私としては、この先に誰かに奢ってもらうシーンはそうそうない……と思うのだが、もしそういうシーンが発生したら、ちょっと勇気を出して奢られてみようかな、と密かに決意している。
そしてそういうシーンがなくとも、誰かに奢ってもいいシーンがあるなら「奢る」も遠慮しないで申し出てみよう。
万が一、昔の私のような思考に陥っている相手なら、「特に理由もなく奢って貰ったけど、別に何も要求されなかった」という体験が成功体験になるかもしれないし、私としても、「自分がそうだったのだから別の人もそうだろう」と思える根拠になる可能性がある。

奢り奢られ、プレゼントやお土産物などのやり取り、何かを「してもらう」行為。
「ありがとう」の一言で済ませることが出来ず、何とかしてプラマイゼロ以上にしようとしてしまうことで、無下にしてしまった相手の好意がどのぐらいあるかは見当もつかないけれど、なるべくこの先の人生においては、素直に受け取れるように意識してみようと思う。
それが図々しいオバチャン、にならないように気をつけなければいけないけれど……いや、別に図々しいオバチャンになっても構わないのか。構わない気もしてきた。要は他人にどう見られたいかという話なのだから、嫌われても良いなら図々しくてもデメリットはないのか、そうだそうだ。

よし。ならば目標はでっかく、「図々しいオバチャン」で。
何を受け取っても「あら~ありがとうね!」で終わりにしてしまうような、ある種の図太さを身に着けられるように、やってみよう。そうしよう。

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