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「エモい」原理主義者が「エモい」を語る、という話。

とーとさんのこちらの記事で「エモい」という単語を見かけて、ぶわーっと記憶が噴出してきたので、私と「エモい」について書く。

私が「エモい」という単語を初めて知った時、それは音楽用語だった。

「エモーショナルロック」というジャンルが流行り始めた00年代前半の時代。大学の音楽サークルで、椎名林檎やらcoccoやらメタリカやらオジーオズボーンやらハロウィンやら、誰かが「これがロックだ」と言ったものを片っ端から摂取していた当時の私に、この「エモーショナルロック」という概念は見事に刺さった。

同じサークルに所属していたH君の布教によって「エモーショナルロック」を知った私は、このジャンルにのめり込んだ。
これこそ私が求めていたロックだ、とH君からじゃんじゃんCDを借り、彼の選曲センスにドはまりした挙句にH君と付き合い、一年足らずで別れた後も、半年に一度ぐらいのペースで「で、最近エモいのでオススメある?」と無神経極まりない連絡をしたりしていた。
H君本人への未練はなかったにもかかわらず、H君セレクトの「エモい曲」への未練がありまくりだったためだが、今考えると結構酷かったなとも思う。正直すまんかった。

そう。当時「エモい」という言葉は、「いかにもエモーショナルロックらしい」という意味で、バンドや楽曲に対する感想でのみ使われる語彙だったのである。

「エモい曲」とはどんな曲か、は人によって色々あると思うが、当時の私にとっての「一番エモい曲」はMr.BIGの「Take Cover」という曲だった。なおこの曲を私に教えてくれたのもH君である。

Mr.BIGはハードロックの大御所であって、別にエモーショナルロックに分類されるバンドではないし、エモーショナルロックというジャンルは本来、もっとハードコア寄りだ。なのでエモとはこういう曲か?と言われるとまた違うのだが、私の中ではこの曲が持つ要素こそが「エモい」の原点である。

言語化すると「切なさ」と「強さ」、そして「透明感」とでも言うべきだろうか。切なくて美しくても、繊細過ぎたり静か過ぎるものは「エモく」ない。強さと切なさがあっても濁り過ぎていれば「エモく」ないし、強くて綺麗なメロディでも、ポジティブ過ぎると「エモく」ない。
多分、当時のエモロック好きの中でも共感してもらいにくいような、面倒くさ過ぎる概念だが、でも私の中ではそうなっている。

さて、私はずっとそんな超個人的「エモい」曲を探しまくっていた。自分で探すのに行き詰まるとH君を利用することを繰り返し、学生時代を終えて社会人になった私は、やがてH君にもイイ感じの女性が出来たと聞いて、流石に連絡するのはマズいと自粛するようになった。そしてそれは同時に「エモい」という単語を使わなくなることでもあった。
その頃の「エモい」は、エモーショナルロックを愛する人々の間でなければ通じなかった。H君以外の人との会話で無理矢理使おうとしても「エモ…?何?」と首を傾げられるのがオチだったのである。

が。ざっくり10年後。
FF14をプレイし始め、ゲーム内コミュニティに参加したタイミングでアカウントを取り直したTwitter上で、私は「エモい」という単語と再会したのである。
あのニッチな存在だった「エモい」が一般人に浸透して、しかもポピュラーな単語として市民権を獲得し、猫にも杓子にもバンバン使われまくっている――という光景は、シンプルに私の度肝を抜いた。

――「エモい」!?
お前、いつの間にそんなに有名になってたんだよ!!
水臭いじゃないか教えてくれよ!!青春を一緒に過ごした仲だろ!?

Twitterにじゃんじゃん流れる「エモい」という単語を見て私が抱いた感想は、真っ先にそれだった。そして、次に。

――いや、ちょっと待ってくれ。
お前はもう、私の知る「エモい」じゃないな!?
私の知らない間に一体何があったんだ…!?

「エモい」の異変を察知した私は、twitter上の「エモい」を漁り、google検索で調べ、スラングとしての「エモい」の意味を知った。
私の知らない場所で紆余曲折を乗り越えてきた「エモい」は、今や「いとをかし」に「ヤバい」を足したようなイメージで使われているらしい。

――そ、そうか。今の「エモい」はこうなのか。
お前、随分色んなことがあったんだな……。

もう完全に「異世界転生を果たした主人公が強くなり、ストーリー中盤あたりになってから偶然再会した、元の世界で知り合いだったモブキャラ」の台詞である。
何だこの置いてけぼり感。世の中には「インターネット老人会」という単語があるが、「『エモい』老人会」があったら私は真っ先に会員になる資格があると思う。

しかし、「エモい」という単語が今も生き残っているというのは、それ自体が喜ばしい事だった。何よりも、まず生きていてくれたことが嬉しい。
そもそも言葉が死ぬときとは「誰にも使われなくなった時」であり、言葉にとっての輝かしい生とは「大勢の人に使われている時」だろう。
その意味で「エモい」が大出世を遂げていることは明白であり、となれば今の「エモい」は人生……いや「言葉生」において、最高の時間を過ごしているように見える。

――ならば、私は。
かつての「エモい」を知る者として、「エモい」の行く先を見届けよう。

そう結論付けて、私は「エモい」の遂げた変化を、許容しようと決めた。

今の「エモい」が、私の知り合いだった頃とは完全に別人であるかのように振舞っていることには、旧友が芸能人になってしまったかのような寂しさがある。
だがよくよく見れば、今の「エモい」の中にも、かつての「エモい」はうっすらと面影を残しているのだ。

「切なさ」と「強さ」、そして「透明感」。
Mr.BIGの「Take Cover」が内包する(と私が思っている)要素は、今の「エモい」にも残っている。たぶん。

そしてそう思うことにした私は、「エモい曲が似合う、情景や感情」に対して「エモい」という単語を使用しようと決めた。
一般的な「エモい」よりも少々範囲は狭まるが、私にとっての、かつての「エモい」と今の「エモい」の重なる部分はそこだからだ。

なお、冒頭のとーとさんの記事で紹介されていた記事は、私による狭義の「エモい」の範囲にもしっかりと入っていた。
とーとさんの主義とは外れる様で申し訳ないが、私はあえてそれらを「エモい」と呼ばせて頂こうと思う。
切なく、透明感があり、そして強さを持っている、という意味で。

どうあれ、私はこれからも狭義の意味で、同時に普通の方々と同じ広義での使い方に見えるように、「エモい」を使い続けるつもりだ。旧友として、同時に単なるファンとしてライブに参加するモブキャラのように。

そしていつか「エモい」が没落して、使う人が再びほんの一握りとなり、元の「エモーショナルロックっぽい」という意味しか持たなくなった日が来たら、肩を抱いて酒の一杯も奢りながら、こう言ってやろうと思う。

――気にすんな、お前はずっとお前だ。これからも応援してるぜ、「エモい」!!


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