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2019年4月 津和野旅

 どうも、東京都民です。

 コロナで旅に出るのが憚られるので、過去の旅について記してみようと思います(文字を紡ぐ営みに触れておきたい、という思惑もあります)。とはいえ、今までのように事細かに旅程を綴るんじゃなく、とりわけ印象に残った出来事をつまみ食いしつつ、文字に起こして行こうかと、そう考えとります。

 さて、昨年は桜の咲く季節、島根県は津和野へと旅をして参りました。山陰地方を訪ねるのはこれが初めてでした。

初日 益田

 降り立ったのは萩・石見空港。一日に発着が2便(2往復)だけという、随分とこじんまりとした空港です。ロビーに出ると、鷹の爪団の吉田くんのパネルがお出迎え。「総統! あとから来て下さいよ! せっかく2便あるんですから!」と、フライトの少なさを皮肉ったメッセージが添えられています。

 曇天の下、空港からバスに揺られて向かったのは最寄りの益田駅。の近くの海鮮居酒屋へ。無論、昼食です。ツアーの特典で海鮮丼が無料です(1500円ちょいだから、かなりお得)。海鮮居酒屋、というと何だかチェーンの飲み屋っぽいイメージが浮かびますが、古民家風な店構えで、中にはいくつも生け簀があり、イカだったか魚だったかが回遊していました。というか店内、磯臭いです。

 何だかがちゃがちゃ器やら調理器具が盛られたカウンターに腰を下ろし、板場の様子を眺めながら「えびす丼」を待ちます(うーん、何の仕切りもなしに厨房近くに座るって、今だったら考えられない)。程なくして木の器に盛られた海鮮丼がやって参りました。白身魚が多かったかな。胡麻醤油なるもの(何のことはない、胡麻を散らした醤油です)をたらりと巡らし、いただきます。竹の器に入ったほろほろの豆腐や、おから、漬け物、味噌汁も食します。全体的に美味かったが、ご飯の上に敷かれていた荒削りの海苔がぷんと口内に薫ってきて、たまりませんでした。山陰の日本海、食しました!

 は、いいのだけれど、食後の問答が面白かった。エプロン姿の店員さんが「サービスで食後にコーヒーをお出ししていますが……?」と尋ねてくる。自分は(え、海鮮丼食って、コーヒーってマジかよ?)と思いつつも「あ、コーヒー苦手なので、大丈夫です。ごめんなさい」と応じる(実際、コーヒーはあまり飲みません)。
 そこで店員さん、店内の通路には不釣り合いな大容量の冷蔵庫を開け、小さな3連パックを取り出し、「じゃあ、ヤクルト飲みますか?」と代替案を示す。海鮮丼のあとにヤクルトって本気か? というかそれ店員さんの私物じゃない? と何だか笑いが込み上げてくる。結局ヤクルトも辞退したけれど、この可笑しなやりとりがとても記憶に残っています。

 その後は田んぼの散りつつある桜を愛でつつ駅まで戻り、観光案内所でロードバイクをレンタルしライドオン。初のロードバイクをぐわっと走らせます。というか花粉症なので、マスクしながらペダルを漕ぎます。タブレットの地図を確認しつつ、ぜぇはぁ喘ぎながら狭い山道を上り、お目当ての棚田を見下ろしては、今度は林間を一気に下り海岸線へと出て、どんより曇った空の下、不気味なエメラルドグリーンの海を目に映しつつ、風に打たれながら、駅まで戻ります(端折って書いてますが、数十キロ移動してます)。夜は宿から数キロ歩いてダイニングバーで舌鼓を打とうかと考えていたけれど、初日からロードバイクで無茶をしまくり疲れた腹減ったので、スーパーでパンと地牛乳と地ビールを購入し、その日は蟠竜湖(ばんりゅうこ)ほとりのホテルでお休みなさい。石見の牛乳は美味かったです。

(旅の目的は津和野だったので、本来益田を旅する予定はありませんでしたが、空港近くにあるこのホテルとセットで航空券込みのツアーに申し込んだほうが、津和野に一泊だけするよりも旅行代金が安くなるという不思議が起きたので、旅程を二泊三日とし初日は益田を巡りました)

二日目 津和野へ

「今ご飯お持ちしますけぇ」と島根言葉とともに朝ご飯。うまうま。というかやや遅い朝食なので断定はできないけれど、他の宿泊客を見掛けない……。

 ホテルをチェックアウトし、快晴のもと、入り組んだ形状の蟠竜湖(とぐろを巻いた龍という意味らしいが、なんでこの名前なんだろ。昔そんな伝説があったとかだろうか)を散策しつつ、ゴルフが出来そうなくらい(やったことないけど)広い万葉公園を縦断しつつ、益田駅へと徒歩で向かいます。約4kmらしいが距離の内に入りません。

 この万葉公園。歌聖・柿本人麻呂が没したと言われている地がここ益田であることから、やたらに歌碑というか、人麻呂の歌を記した案内板が立っています。で、それらを歩調を緩めては、ちょこちょこと読んでいきます。そしたらほぼ毎回と言って良いほど歌の中に「妹」という単語が出てきます。出くわす歌、妹ばかり。何だこの人はシスコンだったのか? 当時は妹萌えを大っぴらにしても問題ない風潮だったのか? 何か変な時代だな……、などと阿呆なことを考えながら歩いていたが、後々調べてみると、古代日本語で「妹(いも)」は「恋人や妻」を指していたようで……。いやはや。無知って楽しい。

 桜吹雪を浴び、益田市街を一望し、青雲を仰ぎ、柿本神社に詣で、発車4分前に益田駅に到着。里山を緩やかに流れる川に沿って、内陸部の津和野へとかたんことんと移動します。車窓から差し込む陽があたたかく、いい心地でした。

 さて、津和野。何とも旅情をそそる良い字面です。山陰の小京都とも呼ばれ、城下町の面影が色濃く残る町として知られている、ようです。森鴎外や安野光雅の出身地でもあります。いくつかの小高いまあるい山に囲まれた細長い町です。昼飯に蕎麦を食らい(焼きおにぎりとともに、なかなか美味かった)、まず向かったのは津和野藩のお殿様、亀井家の墓所。

 ここが物凄く良かった。正直、ここのことを記したくてこの旅日記を書いているという意味合いが強いです。
 駅から十分強でしょうか。鄙びた通りを歩き、踏切を越え、やってきたのは永太院というお寺。裏手には小山がそびえ緑に溢れているものの、あたりに大きな木がなく、空が広く心地いい境内です。
 本堂の脇を抜けると、そこには墓地が細長く続いていて、無数の墓石に縁取られた草生した狭い道を、ときおり頭を下げつつ、一歩ずつ進んでいきます。道は次第に上りとなり、山の斜面へと差し掛かっていきますが、左右にはまだまだ墓石が連なり、中にはくずおれているものも。先へ進めば進むほど、山に入れば入るほど、陽は木々に遮られ、緑の匂いは濃くなり、墓地は荒廃していき、まるで時代を遡っていくような感覚にとらわれます。無縁仏のように一箇所に寄せ集められているような墓石もあります。あまりにも年月が隔たりすぎて、もはや墓参りに訪れる人も絶えたように見えます。無論、人はいません。ただ山中には時折の虫の音と、自分の足音ばかりが響きます。

 崩れた石段に気を払いつつ、夥しい数の墓石の合間を抜け、そうして古びた石の鳥居が目の前に現れます。反射的に、その割にはゆっくりと頭を垂れます。鳥居の向こうに墓石はもうありません。石段が続いています。右手に人の背丈ほどに積まれた石垣が見えます。瓦を戴いた門が待ち受けています。その脇に「亀井家墓所」と案内板。たどり着きました。再び一礼。

 墓所へと足を踏み入れます。途端に、慄然とします。眼前には柱と形容したほうが相応しいほどの墓石が聳えています。巨大です。左右を見やると、同じ規模の墓石が幾基も建ち並んでいます。どれも石壇の上に建立され、一様に苔生しています。頭上からは、陽の光に照らされてはらはらと桜がこぼれてきます。一つの家が、一つの血脈が、綿々として続くさま。その顕れが、今、目の前に厳然と広がっています。

 一歩一歩仰ぎつつ、巡っていきます。初代、二代目……十五代くらいまであったように思います。正面から写真を撮ることは躊躇われ、できませんでした。灯籠に縁取られた道や、近くにすっと真っ直ぐ生えた樹木を撮影していました。まるで古代の遺跡に迷い込んだかのよう。墓石が折れたのか、割れ目を繋ぎ合わせた形跡も見られます。恐らく奥方だろう墓石もあります。童子、童女と刻印された背丈の低い墓もあります。近代的な質素な墓も佇んでいます。比較的まだ綺麗なものもあります。そうして一番奥には、森鴎外の記した石碑。木の葉を透かして注ぐ陽が、とてもあたたかでした。

 ふわふわとした心地で山を下ります。胸の中にある感情をこぼしたくなくて、ゆったりとした足取りで戻ります。圧倒の感に打たれています。木々がまばらになり、町並みが見えてきます。どうして誰も来ないんだろうという不思議が湧きます。いやでも、軽々な気持ちで来ては欲しくないな、とも(自分だってまるで縁もゆかりもない人間ですが)。見上げれば薄く青く澄んだ空が、一面に広がっています。行きはあまり目を留めなかった、葉桜のしだれ桜に足を止めます。小さなお堂で賽銭を投げ入れ、額ずきます。ありがとうございました。

 その後はかつての城下町を散策します。津和野町を貫く通りは、目抜き通りと呼ぶに相応しく果てまで真っ直ぐで、整然と石畳が敷かれ、電線は地中化されているのかまず見当たりません。格子戸の家々が軒を連ねています。車は通れるもののその姿は少なく、観光客がそぞろ歩きをしているばかり。少し行くと、明るい色の石畳に変わり、左右には瓦の白壁が遠くまで伸び、左手には教会の十字架が顔を覗かせています(津和野はキリシタンの流刑地でもありました)。

 白壁に沿って行けば、さらさらと音を立てて流れるお堀があり、そこには何匹もの鯉が桜の花びらとともに泳いでいます。この通りこそが、観光パンフレットでよく見掛ける津和野の顔でしょうか。歴史的建造物を活かした町役場等を眺めつつ、ちょっと歩きまくって疲れたので、桜の植えられた河原に腰掛け、仕舞いにはリュックを枕にして、ごろんと横になって陽の光を浴びながら、しばしぼうっと休みます。
(この河原は、男はつらいよのロケ地でもあります。マドンナは吉永小百合さん)

 町中をあてもなく逍遙します。本通りだけでなく、全体が綺麗な町です。酒蔵の売店で試飲もします。うまうま。そうして本日のお宿に到着。路地の途中にある小柄な純日本旅館です。玄関を開けると五月人形がお出迎え。古びたストーブやら、大皿やら骨董品が目白押しです。足下が棚になっている階段も現役であります。年配の仲居さんが、ドアを開けるときやら、電気をつけるときに、意識して言ってるのか擬音混じりに説明してくれて楽しかったです。「ドアをどん! と引いて、明かりはぽんっ、とつけて、窓はがっ! と開いて」と、そんな感じ。

 まずは風呂。檜の内湯。そして飯。食事会場へと足を運ぶと、幾組もの旅行客が。で、津和野を巡りながら気に掛かってはいたが、欧米人がとっても多いのです。賑やかな感じじゃなく、年齢を重ねて落ち着きのある雰囲気で、日本人と二人で旅している方もいらっしゃいました。反対にアジア系が一切見当たりません。だから、と一括りにするのはよろしくないかもしれないけれど、そう、観光客が多くても、大変静かなのです。観光地でこの穏やかな感じは久しいかも(まぁ、今はどこの観光地も静かですがね、都民すらもいなく……)。

 さて夕餉をいただきます。地酒サービスのプランです。最初の一杯は女将さんがお酌をして下さり、料理を運んでくるときにちょこっと会話を交わします。当然、亀井家墓所の話を持ち出します。胸を打たれました、と。鳥居があったでしょう? と尋ねられます。そうして今さらその違和に気づきます。お墓に鳥居!(何だろう、神仏習合の名残だろうか。けど岡山の最上稲荷も神社とお寺が混ざっているから、中国地方は明治維新の廃仏毀釈の運動が広まりにくかったのだろうか。しかし調べたら面白そうなテーマだ)

 その他、会話中に女将さんが「亀井様」「森先生」と敬称をつけているのが印象深かった。その土地で生きるっていうのは、こういうことなんだと思い知りました。
 あと「稲荷そば」という料理も強烈でした。稲荷寿司の中身がご飯じゃなく蕎麦です。けど、なかなか美味。

 そうして夜は、津和野が舞台の森鴎外著「ヰタ・セクスアリス」を読みつつ眠りに就くのでした。

三日目 津和野をあとに

 朝飯を平らげ、まずは女将さんが勧めていた永明寺(ようめいじ)へ向かう。お寺の庭が素晴らしいのだとか。ここには森林太郞(=鴎外)の実に素朴なお墓があります。

 鐘楼をくぐり、受付で拝観料を払い(小さな津和野和紙人形をいただく。人形というよりも、精巧な折り紙といった感じで、絵柄は白無垢姿の花嫁様。可愛い)、寺の中を一通り見て、最奥の禅庭でしばしぼんやり過ごします。小さいながらも滝が落ちていて、始終心地良い水音を響かせていました。簡素に記しましたが、ここは確かに来て良かったです。

 次に向かったのは津和野の目抜き通りにある、日本遺産センター。テレビショッピングみたいな名前です。周囲の建物と調和しているが、随分真新しい建物。中に入っていくと目に付くのは、百枚の古風な絵図。振り返れば町中にはこれと同じタッチの絵が、至るところに飾られていました。ぼうっと眺めているとガイドの女性が近づいてきて、解説をして下さる。津和野の藩主、亀井家が当時の姿を残させるため絵師に藩の様子を書き留めるよう命じたとか。そうして現代、その百景図が日本遺産に登録された。話を伺っていて思ったのは、こんな町、他にないんじゃなかろうかということ。
 江戸時代の町を複数の絵に収めたといえば、ぱっと東海道五十三次が浮かぶがあれは町ではなく街道です。津和野は町の中だけで、百枚もの絵が残っている。とっても稀有な観光資源です。往時は記憶のためだったでしょうが、今の世で蓋を開けてみれば観光の中心にもなっているって、とっても面白いです。画風はどことなくユーモアも漂い、その場所を知らなくても眺めているだけで楽しめる。そんなことを話しつつ、これから向かう三本松城跡についても一通り解説を伺い、ご丁寧にありがとうございました、と頭を下げ、通りを南へと下っていきます。

 鷺舞の行事で有名な弥栄神社を参拝し、太皷谷稲成神社(全国唯一の成の字)のつづら折った千本鳥居の階段道をずんずん上って行きます。途中、鳥居の間から町を見下ろしては写真ぱしゃぱしゃ。桜は見頃だし、空は晴れ渡っているし、川はさらさら、山は青々、町は瓦屋根がきらきら。いい時期に来ました。ちょっとこてこてとした社殿を詣で、お次は津和野城跡へのリフト乗り場へ。下りは健脚を活かそうとも思ったが熊が出ることもあるというので、素直に往復券を購入。ぎしぎしと軋むかなり年季の入った一人用のリフトで山の上まで。あとは峯伝いにお城まで。杖も貸し出していたが健脚の見せ所です。

 十分ちょいだろうか。林間を抜け、巨人の階段みたいな石段をよいしょと上っていきます。前方に壁のように聳えた石垣が覗いてます。正直、日本全国の復元されたお城にはあまり興味をそそられないが、往時のままの石垣になら食指が動きます。苔がびっしりと茂っています。
 津和野のお城は復元なんてされちゃいません。ただ、お城の土台である石垣が残るばかりです。だから堆く積まれた石を仰いでは、空の青さの中にかつての姿を想像するだけです。それが、無論、たまりません。そして丁度数組の観光客(欧米の年配女性が「too tired.」と笑いかけながら、石段を下りていきました)が過ぎていったので、誰もいません。

 天守閣跡を越え、一番高い本丸の土台にやってきました。ただかつてのお城の跡地に芝が広がっているだけです。簡素な杭にロープを渡した囲いがあり、ベンチがぽつんと一つ。端に立ちます。津和野の町並みを、向こうにある稜線をただ眺めます。ちょうど列車が町の中を走っているところでした。かたんかたんと、はるか眼下から響いてきます。空は朗らかです。

 丁度お昼の時分。憎い演出を企てていました。稲成神社の近くにあった食堂で稲荷寿司のお土産を買っていました(稲荷そばじゃありません)。これを景色を味わいながら、風に吹かれながら、いただきます。もうちょいお揚げの味が甘く濃くって、中に蓮根やら山葵やら歯応えのある具材が入っていたら嬉しかったが、まぁかつてのお城跡よりいただいたご飯は格別でした。

 ハクビシンに出くわしつつも山を下り、本日は津和野町の南を散策します。こちらはあまり観光地として整備されてはなく、その分のどかな空気が漂っています。高校のグラウンドからは野球部だろうか。いちにぃいちにぃと集団走の声が聞こえてきます。お堀には相変わらず点々と桜が流れ、西周の旧宅や、和紙の施設、酒蔵の資料館なんかに立ち寄りつつ、桜並木を経て道の駅でもある津和野温泉へとやってきました。最後にひとっ風呂浴びて帰ります。これもツアーの特典で無料でございます。

 露天風呂で居合わせたお爺さんの話が面白く、(「家にテレビは置いてないよ」「テレビなんて嘘しか言ってない。見てたらアホになる」「色々テレビと仕事してきたからわかるんだ」聞けば、今ではポピュラーになったとあるスポーツのプロフェッショナルで(すぐ特定できちゃうから伏せときましょうか)、昔日本にそのスポーツを持ち込もうと奮闘し、アメリカに渡ったり、お役所と闘ったりと、日本におけるその道のパイオニアのような御仁でした)、一時間近く会話をしては、ややのぼせつつも、最後には握手をして別れました。

 空港直通のタクシー(これも特典)が出るまでお土産を物色し、タクシーの運転手さんに「出来たら……」とスタンプラリー交換所の観光案内所に寄ってもらい(えぇ、密かに集めてました。景品はポストカードでした)、うとうとしながら一路、萩・石見空港へ。

 帰りの機内で、空弁でも食らおうかと考えていましたが、あまりにも小規模な空港なので、早々に弁当類が売り切れ、仕方なく銘菓やマドレーヌ等で腹を誤魔化しました。それでも、空港って旅の予感に満ち満ちていて、好きです。いやこれから帰るんだけど。

 というわけで初めての山陰だったけれど、とても楽しかったです。コロナが落ち着いたら、津和野はまたいずれ立ち寄りたいです。そのときには(記事内じゃ触れちゃいませんが、)石見神楽も流鏑馬も、鷺舞も鑑賞したいものです。
 それではここまで長々とお付き合い、ありがとうございました。
(短く書こうと思っていましたが、案の定馬鹿みたいに長くなりました。けど、これでも結構端折ってます)

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