(前回の記事より続く)
この回ではヘレン・ハイドと同じく女性で、第一世代の外国人作家のバーサ・ラムを取り上げます。
外国人作家の活動の全体を知るために、これまでの記事に掲載した年表を最初に示します。
3.バーサ・ラム Bertha Lum 1869-1954
■略歴
■作品例
(1)日本に関係する作品
(2)雨と霜を表現した作品
(3)日本の伝説、民話に触発された作品
(4)日本以外、中国に関係する作品
■作品について
前項で示した「作品例」は、全てwikimedia commonsから採ったものです。それらは大半が日本に関連するテーマの作品でした。これまで調べた画家で、wikimedia commonsに載った作品は、全生涯の作品をくまなく取り上げていたので、バーサ・ラムの作品も大半が日本をテーマにしたものだと思い込んでいました。
実際、日本の展覧会で例示される作品は主に日本をテーマにする作品でしたので特に疑いもしなかったのです。
ところが今回記事を書くにあたって、末尾に示した参考資料の(2)「バーサ・ラムにささげたウェブサイト」を見つけました。主催者の名前は分からないのですが(フランス人らしい)、大変熱心な人で、バーサ・ラムの全作品を調べて(現在も手に入らない画像は調査継続中)、その全画像をアップしているのです。
そこで、その全作品の画像を利用して、制作年代順に、テーマの分類を試みました。(下図)
上の表から読み取れることを下記にまとめます。
さらに個々の作品について、線スケッチの立場で感じた私の感想を以下にまとめます。
■人となりについて
さて、ヘレン・ハイドの項でも設けましたが、バーサ・ラムについても「人となりについて」の節を設けたいと思います。
略歴のところで、お気付きの方もいると思いますが、独身で日本を訪れたヘレン・ハイドと違い、バーサ・ラムは7週間の新婚旅行で日本を訪れます。日本を訪れたのは、彼女自身の発案で、新郎を説得したのだそうです。
このエピソードからも、ヘレン・ハイドと同様に、日本の版画習得について大変な情熱を持っていたことを知ることができます。
実際、二人の娘が出来た後も、夫を米国に残したまま二人の子供を連れて半年という長期間日本に滞在し、木版画の制作を続ける生活を何度も繰り返すなど、当時の女性(妻)としては、かなり変わり者に見られたようです。
それが原因かどうか分かりませんが、1920年代には離婚して、その後中国に移り住んで制作活動を続けます。
また、二人の娘も長じて作家や芸術家となり、両親から受け継いだ才能を開花させます。
晩年、長女の夫(イタリア人)が、毛沢東暗殺の容疑で逮捕・処刑されたときに、たまたま家を訪れていたバーサ・ラムも軟禁されるなど、波乱の人生を送ることになりました。
日本に来た頃のバーサ・ラムの手紙が残っており、彼女の情熱が彼女自身の言葉で書かれていますので、その手紙を引用してこの節を終わります。
以下、新婚旅行で訪れた時の手紙です。
7週間の新婚旅行の間6週間も、教えてくれる日本の版画家を探し続けて結局見つからなかったことが描かれています。
しかし、最後の1週間でその情熱が報われます。
この後も、まったく誰も英語を話さない環境の中で悪戦苦闘して木版画を習得していく話が書かれているのですが、長くなるので省略します。参考文献(2)のBiographyの項を参照ください。
(次回、その6.に続きます)
参考にした資料
(1)英語版wikipedia: Birtha Lum
(2)バーサ・ラムにささげたウェブサイト(主催者名不明) BERTHA LUM Le Catalogue raisonné
前回の記事は、下記をご覧ください。