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早稲田卒ニート18日目〜革命はアングラから始まる〜

清潔な空間が大の苦手である。綺麗な空気を吸うと気分が悪くなる。だから、歌舞伎町が好きだしゴールデン街が好きだしションベン横丁が好きだ。新しくて綺麗で清潔、そんなものはゴメンだ。古くて汚くてカビ臭い、そんな空気を深呼吸して吸いたい。

勝利者の成功体験談なんかにはあくびが出て仕方ないが、敗北者の挫折体験になら、酒でも飲みながらいくらでも付き合ってやりたい。順調な青春を送る学生より、もう自分を見失ってしまいそうなくらい悩み苦しみもがいている青年が好きだ。もっと話を聞かせておくれよ。いや、本当はみんな悩みを抱えながら青春を生きているんではないか。それなのに誰にも打ち明けず自閉してはいないか。

いずれにせよ、朽ち果てた時期というのも青春にはあり、荒れ狂う精神を抑え切れぬ日々を送る青春もある。そのとき、悩みをなるべく簡単に解決しようと思うのは間違いだ。自己啓発本なんか読むな。あんなくだらない馬鹿馬鹿しいものを読んでどうする。文学を読め、哲学を読め!そうして悩むべき時にとことん悩めばいい。私の両腕にもタバコの根性焼きの跡が100箇所以上残っている。これは私が悩み苦しんだ痕跡だ。もう追い込まれてなぜか自傷に走った。タバコの火はあっちいぜ。それを快楽に感じる時期があったのだ。どうかしていた。



アングラ=アンダーグラウンド=地下、即ち日の目を浴びぬ世界、そんな空気感のある場所が私を惹きつける。たとえば高田馬場。夜になると酔っ払った早稲田の学生の大群が駅前にたむろするし、その辺にゲロは撒き散らされるわ、ネズミが現れるわ、ゴミや吸い殻が散乱するわで、とても汚い。酔い潰れた女子学生を介抱するフリをして悪さをしようとする奴もいた。クズだなあと軽蔑する。そんな高田馬場にはパチ屋もあれば学生ローンもあれば、バーも居酒屋も本屋も、それに何とこんな所に塾まである。

ちょっと高架下に行くと、畳4枚ぶんくらいしかない極狭の個人居酒屋があったりする。エアコンも効かなければ換気扇も回らない。帰ってくると、料理の煙とタバコの匂いが服に染み付いている。しかしその居酒屋は、銀座のカレーの名店で修行を積んだ一流店主がやっていて、たくさん話を聞かせてくれ、行くたびに必ず人生の勉強をさせてくれるような店であった。そのマスター目当てに常連が足繁く通うのである。常連さんたちもみんな人格的な方ばかりであった。狭くてもそこに魅力の凝縮された店。

しかし近頃どうも、汚い場所は布を被せて隠され、酷い場合は、汚い場所は清浄されねばならぬと思い込まれ清潔化が進められる。いやいや、そんなに綺麗な空間だけで生きていける人間ばかりだと思うなよ。政治も行政も、もう少し配慮をしたらどうなんだ。

昔とんねるずのテレビ番組で、「きたなトラン」という企画があった。今の若い人らは知っているのだろうか。きったねえけど旨い店に行きメシを食い、星3つとか判定する。その時は、「汚くても飯が旨けりゃいいよなあ」ではなくむしろ、「この汚さがいいんだよな」とか思っていた。汚いものに取り憑かれる。毎日テレビを齧り付く様に見ていた。学校ではテレビが会話の話題を占領していた。



絶頂期にあったテレビも今、衰亡の時にあるのかもしれない。「若者のテレビ離れ」なんてのをテレビでやっていたこともあった。YouTubeの隆盛。私はYouTuberの何が面白いのかサッパリ分からないし、しょうもない連中だなあとしか思わないから、千鳥なんかがYouTuberをバカにしてくれると気分が良い。

YouTubeが普及してテレビ離れが進む。ここに「中間集団の喪失」を見るのは自然なことだ。テレビはみんなで集まって見るが、YouTubeはスマホで独りで見る。家族という「中間集団」は解体される。いや、既に解体されているからこそYouTubeが流行する。テレビという集合装置から、スマホという個別機器への移行。さらに同じことが、2ℓのペットボトルと500㎖のペットボトルに見て取れるのではないか。2ℓは食卓でコップに注いで集まったみんなで飲むが、500㎖は独りで飲む。いずれも、そこに集合は必要ない。個に解散するということ。

『ローマ帝国衰亡史』。衰亡論の名著。

テレビだって黙ってはいない。どうにか生き残ろうとして人気YouTuberをテレビに出す。確かにそうすればテレビも視聴率が取れるしYouTuberも名前が売れる。また、「YouTubeがテレビで見れる」なんて宣伝したりする。画面の小ささという弱点をテレビが補う。が、そうでもして生命を維持しないといけないのか。ひと昔前は隆盛を極めたテレビも今やYouTuberの助けを貰わないといけないのか。時代は変わったのか。いやそうではない。こんな衰退は、もとから少しずつ進行していたはずだ。なのにその小さな癌は見て見ぬフリをして、小さいからまだ大丈夫だと慢心してきた。そもそも、興隆の時期に衰亡の種子から目を背けたのである。そうして、テレビがテレビでなくてはならないことの唯一の動機を考えてこなかったのではないか。好調ゆえに、その好調に安住し続けたのだ。

テレビもYouTubeも、所詮は映像「コンテンツ」とそれを見る「手段」でしかない。コンテンツを見るという「目的」のためなら、その手段は別にテレビでもYouTubeでもいい。取り替えが効く。手段とは、原理的に他の手段で置き換えられるという性質を持つのである。しかし手段が手段であるうちに本質は無い。他のもので取り替え可能なところに本質などあろうはずがない。テレビも、単なる映像視聴の「手段」でしかないならば、別にテレビでなくてはならない理由など、そもそも初めから無かったのだ。「手段」とは「目的」に従属する関係でしか存在できないのである。とすると、「テレビからYouTubeへ」というのは、「時代が変わった」のではない。「手段が変更された」に過ぎないことだ。



衰亡と言えば、大手予備校も校舎数を減らし規模を縮小しているのはここ1,2年の事ではない。ひと頃前は、大教室がパンパンで立ち見も出る。講習なんかは申し込みに徹夜して行列なんて時代もあったらしい。

そんな塾も予備校も今や斜陽産業で、これから昔の様なフィーバーが再燃することは無いだろう。だからといってノスタルジイに浸ってはいられない。テレビと同様でその全盛期に、果たして本当に塾が塾でなくてはならないことの存在意義を考えていたのかということを掘り起こす必要があるのである。

残念な事に現在、学校が受験予備校化し、塾も学校のサポート場のようになっている。学校で予習前提の授業なんて、一体何のつもりなのかとさえ私は思う。

「学内予備校」とか言って、予備校講師を呼んで授業をしてもらうところもあれば、名のある映像コンテンツを導入している学校もあるという。そりゃ塾だって少子化・コロナ・物価高の影響をモロに受け、存続が危ぶまれる。大手予備校さえも安心などできぬ。塾以外の場で仕事があれば稼ぎになる。対して学校は深刻な教員不足に陥り、これでは教育の質が低下してしまうからと、採用の窓口を拡大しつつある。仕事の減った塾と教員の減った学校とが互いの不足を補い合う。そうして、学校も塾も互いの境界がますます不分明になりゆき、学校と塾とが相互補完関係になるのである。学校と塾が互いに歩み寄り手を取り合う。恰もテレビとYouTubeの関係のようだ。

しかしそれでいいのか。もしそうなるならば教育は「受験」に一本化され、それゆえさらなる良質なコンテンツの生産とその販売戦略の考案にばかり傾いてしまわないか。教育は単なる「コンテンツ」なのか?もはや現代では、「教育」と「学習」は混同され、教育は受験のための「手段」でしかなくなっているようだ。

教育を救い出さなければならない。このとき、手段であるうちに本質はないのだから、教育を手段から解放しようと考えるのが自然であると思う。しかしそうではないらしい。テレビが「もっと面白い番組を作ろう!」なんてするように、「もっと点数の上がる教材を作ろう!」だとか、「もっとわかりやすい授業をしよう!」だとかばかり言う。つまり、向こうよりも優れた「コンテンツ」を作成しようとばかりする。みんな「内容」にしか目が行かない、そのせいで「構造」が見えない。「わかりやすい授業」を競い合っているようでは何にも変わらないし、教育は救われない。いつまで経っても教育は「手段」のままである。それでは取り替えが効いてしまう。つまり、対面でも映像でも参考書でも、「合格」という「目的」が達成されればどれでもよくなる。

だからここで、他の何ものでも取り替えの効かぬものは何かを考えないといけない。かげかえのないもの。無論、「人間」である。僕らは全宇宙史にたった一人だけの存在としてある。人間ほど取り替えの効かぬものはない。しかし「受験」に一本化された“教育”は、そんな人間への尊い眼差しを霞ませる。だからまずはそれを解体することから始めなければならない。そのためにこそ授業があるのである。受験に回収された教育を救い出すことは同時に、人間の存在を取り戻すことでもある。

丸々こんな言葉でではないが、こんな旨の発言を会議でしたことがある。「教育と学習を混同してはいけない」とか「ここに来れば人間的な成長がある、青年らがそう信じられる教室を作ることだ」とか言ったかなあ。一年目の新人である私がそんなことを言うもんだから、遺憾にもあまり聞く耳は持たれなかったようである。いやいや、青臭い若造の発言なんてそんなもんだ。

しかしやはり、かけがえのない人間同士が「対面」することでしか真の教育は成され得ないということを、どうにかして青年らに気付いてもらう必要がある。これにはちょっと、人生を賭けてみる価値があるかもしれない。教育を、単なる「手段」と「コンテンツ」から解き放ってやる。

塾・予備校というのは、何らかの理由で一般社会に馴染めなかった大人のセーフティネットでもある。そんな「アングラ」の世界からの教育革命を密かに企むのである。塾や予備校というのは、そのための「拠点」ではないのか!そしてそこに通っている以上、学生諸君も革命家の一員である。そういうわけで、ちょっと力を貸してくれないか。

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